食べる私

食べる私 (文春文庫)

 面白い本でした。

 

 どんな内容か、巻末の「あとがきにかえて」には、こんなふうに書かれていました。

P389

 食べものについて語れば、人間の核心が見えてくる。

 その理由は簡単だ。食べることは、生きること。・・・

 ・・・

 本書は、二〇一三年三月号から足かけ三年、「オール読物」に掲載された「この人のいまの味」をまとめた一冊である。・・・

 ・・・各界のこのひとが食べものを語れば、人間の真実に触れる瞬間がもたらされるのではないかという予感だけを杖とした。連載時、第一回目をデーブ・スペクターさんにお願いしたのも、この意図を明確にしたいという思いがあったからだ。かねがね、デーブさんの食べ物にたいする関心のなさには、人間理解への手掛かりが顔をのぞかせているように感じていた。じっさい、「食事に費やす時間がもったいない」「うどんは重い」「ふたりの時間がもったいないから、妻に手料理は求めない」……オリジナルな言葉の数々が痛快だった。そして、アメリカで少年時代に食べていた「バターで炒めて黒くなったマカロニチーズ」をなつかしみ、焦げて油臭いバターの味を「僕にとって、それ、グルメ」と断言するとき、異能のひとの孤独な幸福感に接したように思われ、痺れた。あるいは、光浦靖子さんが「ふだんは自分のためのやっつけ料理ばっかり」「料理は飽きちゃうっつうか、めんどくさーい」と線の細い声でつぶやくとき、自己の飼い慣らしかたに触れてはっとさせられたものだ。料理との距離感が、芸人としての光浦さんの個性をべつの角度から照らし出している。

 

 こちらは、光浦さんの回で印象に残ったところです。

P202

「声を発するのが誰よりも嫌いで、誰よりも恥ずかしいっていうフラストレーションとコンプレックスがすごすぎて、罪滅ぼし、ずーっと懺悔しとる感じ。それで人格を保っとる感じです。

 私は運まかせで生きてるもんで、自分で何か手に入れようと思ってやったことが、うーん、もしかしたらないかも?全部が偶然」

―でも、光浦さんは、そこの感覚だけは絶対間違えないんだと思います。

「うん。それはたぶん、良い子にしてるから神様が悪いようにはされないんだろうなと思って(笑)。

 何が楽しいかなあ、何が楽ちんかなあ、その感じを求めて生きていくと、人生がいい方向へ流れていったんですね。だから、今回も自分が楽しいと感じる場所にふわふわ流されようと思って。流されたら、今回は手芸でした」

 

 光浦さんの手芸を初めて見たとき、その激しい魅力にたちまちもっていかれた。フェルト、リボン、ビーズ、スパンコールなどを駆使したブローチ一個一個に乙女のキモチがぎゅっと詰まって、胸騒ぎがしてくる。・・・光浦ブローチには、小学生のころ夢中になった手芸との邂逅を果たした喜びもいっしょに詰まっている。「なにが面白いのかわからないが、脳ミソから気持ちよくなる汁がバンバン出てくる。しかも初心者とは思えないほど上手にできる。(中略)やばい、やばい、やばいっ!」。小学生のときと同じ、やばい面白さを手に入れた幸福感が伝わってくるのだ。

 ・・・

 

 「手芸やってるときは、スイッチが入ったらもっとやりたいもんで、ぎりっぎりまで。私、深夜にやりだすんですが、完成できんかったとき、もう目が痛くて開かんところまでやるんですよ。もう物理的に無理だってところで針をポイッて置いて、そのままバターンと寝て、次の日ペッと起きて、顔洗う前にちらっと見ると、ああ気になる、そのまま始める……物理的にスパンッて目だけ休めるという睡眠。幸せですねえ。起きてもまたやりたーいと思ったときなんか、もううきうきですよ」