僕たちはなぜ取材するのか

僕たちはなぜ取材するのか

 ノンフィクションやドキュメンタリーの表現者を、取材へと突き動かすものは何か?というお話です。

 みなさん熱量がすごい・・・逆にそこまでだからこそか・・・と感じました。

 

P30

藤井 徹底的に取材現場に通う・・・そうした取材方法をどこで身につけたのですか?

中原 もともと僕は料理雑誌が好きで、料理のことを取材して書きたかった。駆け出しのライターのときに、ある出版社の編集者が僕にこう言いました。

「食べ物のことをやりたいのだったら、とにかく銀座を知らないと話にならない」

 ・・・とは言っても、なにをすればいいのかわからない。で、その編集者がなにをしたかというと、僕が編集部に顔を出すたびに、三〇〇〇円をくれるのです。そして、「この金額で、銀座の寿司屋を片っ端から食ってこい」と命令するんですね。

藤井 三〇〇〇円あれば銀座で寿司を食える、ということですか?

中原 それがポイントで、三〇〇〇円では銀座で寿司など食えない。けれど、一九九〇年代の銀座の寿司屋にはまだ「お好み」という制度がありました。「お好み」とは、注文した数だけ勘定を払うという、昔ながらの商売です。いまは「おまかせ」と言って、すべて店主にまかせる寿司屋が多いのですが、昔は違いました。

藤井 「お好み」なら、三〇〇〇円で食えるということか……。

中原 そうです、たいていの寿司屋なら。だから、片っ端から寿司屋をまわるんです。ちなみに「すきやばし次郎」は、食べさせてもらえませんでしたけれど。

 その編集者は、「銀座は一七時に暖簾がかかるから、開店直後に行きなさい」と言いました。ですから、一七時に店の暖簾をくぐって、カウンターに座るなり「三〇〇〇円でお願いできますか」って切り出すんです。

 三〇〇〇円だと、だいたい握りが七貫と巻物を一本食べさせてくれるのですが、そうやって食べ歩いているうちに、・・・各店の違いがわかるようになってきたのです。この寿司屋まわりを、約一年にわたり、月に一~二回ほどさせられました。

藤井 取材の入門編としては、とてもわかりやすい。でも、度胸がいるでしょう?

中原 はい。断られる店もありました。・・・

 ・・・僕の風体もあったと思います。だって、二〇歳そこそこですよ。・・・そんな人が来る街じゃないんですよ。銀座は。いまでも、受け入れてくれた店とそうでない店を明確に覚えています。

 ・・・

 ・・・編集長には「グルメライターにはなるな。ジャーナリストになれ」と言われました。つまり、自分の主観だけで、おしかった、マズかったと評論するつまらないライターにはなるな、と。店の主人に「大間の鮪」と出されたら、まずはそれが本当に大間の鮪かどうか、河岸の仕入れ先まで行って調べろ。店の主人がもっとも見せたくない、店のバックヤードを取材しろというのです。

藤井 含蓄にとんだ、粋な話だなあ。

中原 いまは、こんな粋なことをする編集者はいません。ネットを含め、情報だけなら取材しなくても検索すれば済む時代です。けれども、ノンフィクションとして店や料理人を書くということは、「情報」ではなく、感情のある生身の「人間」と繋がらなければ書けない。

 そういう意味でも、取材する側の僕らが取材対象者の料理人に「こいつはやるな」と思わせないと、まともな取材はできない。近藤さんの取材のときに、河岸に通おうと思ったのも、この体験があったからでした。

 ・・・

藤井 一定の分量を書くためには、かなりの取材をして、さまざまな周辺事情も書いていかなければならない。近藤さんが扱う食材の産地を、中原さんは取材者として一緒に訪れている。・・・取材中は、彼の行動のすべてを、爪の先まで観察したいということですよね。

中原 そうですね。極端にいうと、近藤さんの天ぷらに興味があるのではなく、近藤文夫に興味がある。だから、僕は取材をする。

 ・・・たとえば、近藤さんが山の上ホテルから独立をするきっかけになったのは・・・写真家の土門拳さんの影響もある。・・・

 ・・・近藤さんの揚げたハゼの天ぷらを食べて、よほど気に入ったのか、三日連続で店に来たそうなんです。・・・

 ・・・後日、近藤さんの元に「味」と書かれた色紙が届くのです。送り主を見ると土門拳。・・・普通の人ならそれで「うれしかった」で終わりです。

 けれど、近藤さんは、この色紙で人生の方向性が変わったと断言されるんです。当時、近藤さんは先に書いた原価の問題などから、ホテルを退職し、独立しようと思案していた。一介の雇われ職人として天ぷらを揚げることに限界を感じていたんです。この頃、自分はなんのために天ぷらを揚げるのか、と自問自答していたと言います。そこに「味」の色紙が届く。

 あるとき、その「味」という文字を眺めていた近藤さんは、心がざわつき、その場に突っ伏してしまった。そして、こう思ったそうです。「そうか、味という字は、口に未来の『未』と書く。食べて、単においしいではなく、未来に残るような『感動』を与えるような味を追求しないといけないのだ」と。

 こうして、近藤さんの生涯のテーマである「感動」という境地が形成され、翌年、ホテルを辞めて自分の店を銀座に出す「賭け」に出るのです。・・・

 このエピソードを聞いたときに、こう思いました。つまり、土門さんは近藤さんの悩みを吹っ切るために色紙を贈っているとは思えない。にもかかわらず、近藤さんは、この土門さんとの出会いによって本当に人生が変わってしまう。つまり、名料理人というのは、自分でただただ修業をして、ただ地位を築いていくのではなく、その時代を生きたジャンルの異なる名士によって、時代の先端へと引き上げられてゆく。人間が人間との交わりによって、ひとつの時代は作られてゆくのだと痛感しました。

 もちろん、土門さんが一方的に置いていった「気」のようなものを、ものすごい想像力で解釈している近藤さんもすごい。この台本のない、けれども、まるでなにか別の力がふたりを結びつけているようなエピソードに、ノンフィクションの堪らない魅力を感じたのです。

 

瞑想の効果

今を生き抜く絶対不敗の心と体を得るために 「男の瞑想学」

 前田さんの言う瞑想の効果、「疲れが取れる、落ち着く、運がよくなる」、その通りだなぁと思いました。

 

P95

成瀬 日本で昔から言われている言葉だと「無念無想」なんだけど、ピュアな状態に簡単に移行できるようになると、何でも可能になってくるんですよ。

 以前、伊藤真愚さんに呼ばれて、何十人かを相手にヨーガ研修みたいになったとき、アイマスクを使ったワークをしたんです。アイマスクをした人が、部屋に立っている何人かの人の間を抜けて向こうの壁まで歩いていくというものです。

 その時、僕が見本を見せたんですが、たくさんいる人たちに全然触れないで向こうの壁までスッと行けましたよ。もちろん、アイマスクで目は完全に見えない状態です。

前田 なんでそんなことができるんですか?

成瀬 頭を働かさないんだね、ピュアな状態で。瞑想能力を使っているといえば使ってるんだけど。一般の人から見れば不思議なことというのは確かにありますよ。研修で見本を見せるのは、瞑想の効果に説得力が出るからなんだよね。かといって、あんまり見せ物的にやっているとこの能力は落ちるわけですよ。

前田 それはなんでですか?

成瀬 つまり必要性ということだね。・・・

 

P100

成瀬 〝ヨーガってなに?〟というのを、専門的な言葉でこと細かく説明しても、一般の人にはわけがわからないと思うんだけど、そういう説明をする専門家は、ヨーガのことを知らないし、瞑想能力がないんだろうね。僕が聞かれたら、「ヨーガは自分を知ること」って答えるだけ。だって、それ以上でもそれ以下でもないんだもの。その「自分を知る」ために、とても役立つのが瞑想ということになる。だからヨーガ行者は瞑想するというだけです。

 ・・・

 前田さん自身はどうなの?瞑想でどんな効果を実感してるの?

前田 瞑想が役に立つのは、まず頭がスッキリすること。10分か15分でもパッと瞑想状態に入るとさっと疲れが抜けて、頭がスッキリしますね。・・・

 それから運がよくなる。土壇場に追い込まれても、必ず乗り越えることができて、ドツボにはまることがなく必ず乗り越えられるんですよね。

成瀬 その理由はいろいろ考えられるけれども、やっぱり俯瞰的に物事を見れるから、視野が狭くなった時みたいに変な選択をしたり、行動をしたりしないからだろうね。ピュアな状態になっていれば、頭で考えなくても自然に感覚に従って最善の選択をしてしまうから。

 ・・・

前田 疲れが取れる、落ち着く、運がよくなる。瞑想の効果は、まずその三つですね。

成瀬 前田さんが感じた瞑想効果は間違いないですよ。疲れも取れるし、落ち着くということは、瞑想によってもたらされますね。瞑想すると、具体的には呼吸も心拍も安定して、血液循環がよくなるので、健康面での効果は大きいです。その結果、生命力が高められるので、当然運もよくなるということでしょうね。

 

P143

 どんな場所で瞑想するにしても、「音」は必ずあります。その、音が邪魔だから避けようとか、消そうとすると、瞑想は失敗してしまいます。どんなにうるさい場所で瞑想するにしても、聴こえてくる音はそのままにしておくべきです。

 深山幽谷で瞑想する、というと如何にも何にも音のない静かな環境を想い浮かべるでしょうが、実際はその逆です。小動物が動きまわり、小鳥はさえずり、川の流れの音もあるし、風が吹けば木々の枝や葉の音が聞こえます。そういう、いろいろな音が渦巻いている場所だから、瞑想できるのです。もし、音が全くない環境だとしたら、瞑想はできません。

 ・・・

 ・・・聴こえてくる音はすべて聴きとるようにします。大きな音、小さな音、身体のなかから聴こえてくる音など、すべて聴きとる、受け入れる、取り込むようにします。

 そして音を聴くことに慣れたら、今度はその音を瞑想の役に立てるようにします。その方法は、音が聴こえたときに「音が聴こえることによって、気持ちが落ち着く」という方向に意識を結びつけます。・・・たとえば、いきなり救急車の「ピーポー」という音が聴こえてきたとします。・・・

 ・・・その「ピーポー」という音を、自分の瞑想に役立てるにはどうすればいいかというと、その救急車を自分が呼んだと考えてください。たとえば家族の一人が危篤状態に陥り、あわてて救急車を呼んだとします。そうすれば、救急車の「ピーポー」という音が聴こえてきたとたんに、イライラするどころか、ホッと安心することになるのです。・・・

 瞑想中に聴こえる音というのは、どういう気持ちで聴きとるかで、まったく違った内容になってしまいます。たとえどんな音が聴こえてきても、すべて自分にとって役に立つ音だという認識で聴きとってしまえば、どんどん理想的な瞑想状態に入り込むことができるのです。そして、その「音」が自分の身体の精妙な部分に刺激を与えて、瞑想の深みへと引き込まれる、という解釈をすれば、たとえどんな音が聴こえても瞑想はよい状態に向かうことになるのです。

 

何のために瞑想するか

今を生き抜く絶対不敗の心と体を得るために 「男の瞑想学」

 この辺りも興味深かったです。

 

P44

前田 TM瞑想をして5年ほどたった頃から、・・・瞑想して体験しているビジョンと、現実がごちゃごちゃになってわからなくなったことがあったんですね。

 ・・・

 いま目の前に現実の世界、出来事があるように、瞑想しているときにも同じように別の現実が見えてるんです。「あれ、いま瞑想中なのに、なんでこんなに見えてんの?」と驚くんだけど、瞑想から醒めても同じように現実の世界が見えてる。それで、今はどっちにいるのかっていうことが、わからなくなってくるですよ。

 ・・・

 瞑想中は目をつぶっているんだけど、いろんなところへ行っていろんな人と話をしたりとか。そのときに瞑想中に会った相手から、「きのう来て話をして、急にいなくなったね」とか言われたりして。それで自分はびっくりしたんです。瞑想が進歩したと思って多少いい気になっているうちに、ある日戻れなくなったみたいな感じで、いま自分が現実と瞑想の世界のどっちにいるのかわからなくなったんです。・・・

成瀬 もともと、そういう素質があったんじゃないかな?

前田 ええ、自分は小さな頃から、「自分自身というのは着ぐるみの中にいて、そこから外を見ている」という感覚があって、実は今でも抜けないんですよ、その感覚は。だけどその時(瞑想をしているとき)は、一瞬だけ〝外へ出られた〟という解放感があったんです。・・・けど、調子に乗ってるうちになんだかわけがわからなくなってきて……。

成瀬 ああ、なるほど。

 ・・・

前田 ・・・あるときは「一週間くらい連絡とれなかったけど、どうしたの?」って言われたりね。・・・

成瀬 本人の主観としてはどうなってたの?

前田 ちゃんと生活してたつもりだったんですけど、「一週間、連絡がとれなかった。どうしたんだ」って会社の人間からも言われて……。いろんな友達からも、「連絡が取れなかったけども、なんかあったんか?」ってね。自分としては、現実に普通に会ってたはずなのに。で、今、こうして話しているのが現実なのか、さっきまでちゃんと生活していたと思っていたのが現実なのか、混乱しちゃって〝これは怖いな〟と。解放感はほんとに心地よかったけど、すごく怖くなって「しばらく瞑想はやめよう」と思ってやらなかったんですよ。

成瀬 またベーシックな集中の練習からやり直せば、そういう嫌な体験もなくなってくるんだけどね。現状認識、現状把握能力はどこまでも高められるんですよね。

 ・・・

 瞑想にすぐ入れる人と、なかなか入れるようにならない人がいるんだけど、前田さんの場合は、やっぱりもともと瞑想的な体質は持ってるね。さっきの〝着ぐるみの中から世界を見ている〟って子どもの頃から感じてたって言ったけど、そういう感覚自体は小さい頃は誰でも感じているはずなんだよ。だけど、普通は年をとるにつれそういう感覚を忘れてしまう。それを忘れずにいまでも感じているというのは瞑想にとってすごく重要なことなんだよね。

 ・・・

前田 ・・・その他にも子どもの頃には、今考えると神秘体験だったんだろうなということはありましたね。でも一番は、〝これが自分だ〟っていうことがどうしても信じられないんですよ。今でも着ぐるみに入っているみたいな感覚も含めてね。

成瀬 その感覚は、瞑想能力を高めるのに重要だね。なんでも常識的なことを鵜呑みにするのがよくないんですよ。・・・可能性としては、この壁の向こうが見えてもいい、ということなんです。

 つまり瞑想能力が高まると、常識的な制約から解放されてくるから、どんな非常識と思われるような方向に可能性が広がってもいいわけです。自分の体を上から見たってかまわない。それは、裏返してみれば自分の体を着ぐるみと感じて、内側から見ているのとイコールですよね。

 ・・・

 常識を鵜呑みにしている人は、「オレの体は、オレそのものだよ」だけだけど、そうは思えないっていう感性の方が、瞑想では重要なんだよね。前田さんは瞑想を学ぶ上で凄く重要な感性を持ってますよ。

 

P68

前田 なんで瞑想をするといろいろ起こるんでしょうね?

成瀬 通常の状態では、心は波立っているわけです。瞑想をすることによって心を落ち着けるっていうことは、波立っているものを落ち着かせることによって、その奥にあるものが見えるっていうことですよ。海と同じで波が立っていると底が見えないですよね。だけど、凪になると底が見えるわけです。心の状態も同じなんですよ。

 瞑想で波立っている心をフラットにすることによって、奥底が見えてくる。そこに宇宙もあるし、自分の本質も見えてくる。自分のことがわかれば他人のこともわかるだろうし、社会生活をどのように生きていけばいいかもわかるだろうし、人間関係のこともわかる。ということは、日々の生活が楽になって愉しくなる。人生を謳歌できるようになっていくはずなんです。

「何のために瞑想するか」というと、偉大な瞑想の達人になるためじゃなくて、日々の生活が快適になるため、充実した人生を生きるためなんです。瞑想の達人になるために瞑想してもしょうがないよ、そんなものは。

男の瞑想学

今を生き抜く絶対不敗の心と体を得るために 「男の瞑想学」

 前田日明さんもヘミシンクを愛用されてると知って調べたら、瞑想についての対談本が出ていたので読みました。面白かったです。

 

P3

前田 瞑想をやり出すとね、人間の持っている認識上の常識がいかにいい加減かっていうことがわかりますね。時間や空間に対する認識で当たり前と思っていることが、実は当たり前じゃないんだということがわかってくるんです。

 

成瀬 瞑想してると、だんだん解放されていくんですよ。で、解放されていくプロセスで人間の感覚がそれまでの常識の枠から外れていくんです。だから自分の体の感覚がなくなることもあるし、時間とか空間の認識も、いままでの常識的な枠で捉えられていたものから解放されるんだよね。

 

P11

前田 写真とか見るとペラペラの薄い服を一枚着て、高度が四〇〇〇メートルという富士山の頂上より高いところで氷河に一時間も二時間も瞑想するって、「やれ!」って言われても、できないですね。

成瀬 寒いところで瞑想するために、ツンモという体温を自在にコントロールするヨーガのテクニックがあるんですよ。ヨーガのテクニックは、人を驚かすためにあるんじゃなくて、必要があって開発されてきたんですよ。だから超能力的なテクニックも、必要がなければ生まれないんです。

 

P23

前田 家族ぐるみでつきあいをするようになって驚いたんですけど、そういう信じられないことをしながらも、ちゃんと奥さんがいて、お子さんを全員成人させて、その上でヨーガを極めている。実はそこが一番すごいと思ってるんですよ。

成瀬 (笑)

前田 武道の世界でも凄い人はいっぱいいると思うんですけど、多いのは「武道ひと筋で、世間のことはわけがわかりません」という人が多い(笑)。でも成瀬さんはそうじゃない。そういうところが凄いですよね。

成瀬 僕はやっぱり、普通に社会生活ができないのでは瞑想の達人にはなれないと思うんです。瞑想の達人、ヨーガの達人であるということは、最高にコントロール能力があるはずなんです。コントロール能力があるっていうことは、通常の生活と修行の切り替えができるっていうことですよ。

 ・・・

 コントロール能力さえあれば、当然、修行も瞑想もできるし、普通の生活もできる。税金も払えるわけですよ(笑)。それを、サラリーマン生活ができなくて、「オレには向いてない。もっと自由になりたい!」ってヒマラヤ行ったりしても、それは成功しないですよね。いまの時代はサラリーマンをやる方が修行としては凄いんだから、「とりあえずはそっちをやんなさい」と(笑)。それがわからないで逃げてもダメだよって言います。

 まずは、サラリーマンなりの社会生活を普通にこなしながら、瞑想を始めればいい。逆に瞑想でコントロール能力がつけば、どんな仕事にも役に立つから。仕事にも役立つし、人間関係にも役立つ。人生を愉しめるようになるんですよ。

 

P30

前田 パソコンを使ってネットサーフィンをしてると、キャッシュがたまって誤作動するじゃないですか。

成瀬 ああ、わかるわかる。

前田 人間の脳もそうだと思うんですよ。ふだん、いろんな人とつきあって、いろんな情報に触れて処理しているうちに、処理しきれなくてストレスとしてたまっていくんじゃないですかね。ある程度以上にそんなストレスがたまったら、うつ病だの、心身症だとかいったストレスに関係する病気になるんじゃないですかね。

 瞑想っていうのは、そのキャッシュを取るという効果はすごく高いと思いますよ。ほんとにスッキリしますよ。

成瀬 それは凄く良い例えだよね。結局、瞑想を身につけて、瞑想能力が高まるということはどういうことかっていると、毎日を快適に過ごして、充実した豊かな人生を歩むことに、瞑想能力を使えるんですよね。使えるっていうか、瞑想能力が高まればそういうことができるようになるわけ。

マンガでわかる 人を見抜く技術

マンガでわかる 人を見抜く技術 20年間無敗、伝説の雀鬼の「人間観察力」

 タイトルは強い印象ですが、人として大切な姿勢やさしさが書かれているように思いました。

 

P73

 生きとし生けるもの、地球上の生物すべてが〝自然の波長〟、あるいは〝宇宙の波長〟といってもいいかもしれないが、その波長の中で生きている。

 我々人間も、その波長の中で生命として生き、体を使って動いている。その中であまりに不必要な動き、違和感のある動きをしていると波長を感じることができなくなり、自然の波長とは遠く離れた無駄な動きばかりになってしまう。

 

P82

 麻雀では、4人のプレイヤーが13個の牌を手牌として持つ。そして、山から順に牌を1個ずつ取っては、手牌の中から1個を捨てていくという行為をくり返す。

 各プレイヤーの人間性が出るのは、山から牌を取るときではなく、捨てるときだ。13個ある牌の中からどの牌を捨てるか。その「捨てる」という行為の中に、いろいろな意味が含まれている。勇気や的確な状況判断によって牌を捨てることができればよいのだが、実際の勝負の中ではそれがなかなかできない。捨てるという一打一打の中に、その人の危うさ、汚さ、緩さ、曖昧さ、臆病さが入り交じってくる。

 捨てる、あるいは切るという行為は、臨機応変で、適材適所で、柔軟で……と、すべてを備えていないとできないのだ。

 牌を捨てるという行為には、弱気、疑い、損得勘定など人間が持つ欲、いやらしい部分がすべて出てくる。

 だから、雀鬼会ではその捨て方、切り方、少しでも美しくなるよう、牌を切る練習ばかりしている。まずは動き、そしてその次に考え方。思考、動作といった心身の両面で、できるだけよい形で牌を切れるように、メンバーたちは日々鍛錬に励んでいる。

 切り方を練習していると、だんだん麻雀に対して美意識というものが出てくる。動作を磨いていくことで徐々に思考にも美しさが出てくるのだ。

 人間なら、誰もが大なり小なりいやらしい部分を持っているものだし、ましてや、それをなくすことなんて誰にもできやしない。それならば、そういった気になる部分が少しでも表に出ないように収めておくようにする。収めたうえでさらに、少しでも美しい動き、思考となるように修正をしていく。それが大切なのだ。

 

P86

 私が考える勝負の三原則は、「臨機応変」「適材適所」「柔軟性」だ。臨機応変はどんな状況にも動じず冷静に対応するということ、適材適所はその場その場にふさわしい行動、動きをとらなければならないということ。そして最後の柔軟性は、肉体的な柔軟性ということではなく思考的な柔軟性、「どう攻めようか、どう受けようか」という考え方の柔らかさを示している。

 

P111

 ・・・今の世の中は、社会全体が格好悪くなってしまっている・・・社会がいろいろな意味で歪み、曲がってしまっている。そんな凸凹だらけの環境の中で生きていくには、人間もその凸凹に合わせなければならない。その結果、どんどん格好悪い人が増えていく。格好よかった人まで格好悪くなっていく。

 ・・・

 世の中に溢れる情報、当たり前だと思っている動き、考え方、それ自体が格好悪いのであって、そうではないほうが格好いいということはたくさんある。

 知識や情報をたくさん身につけていることが仮に格好いいとされることだとしても、そうではないほうが格好いい場合だってあるのだ。知識や情報をあてにするのではなく、インスピレーションを大切にして自然体で生きる。究極の格好よさとは、〝素のままの自分で生きる〟ことだと私は思っている。

 ・・・

 心の病にならないためには、素直になることが大切だ。私は、道場生たちにもいつも「素直になるんだよ」といっている。

 素直になるということは、なんにでも従順に従えということではない。よいところ、悪いところを含め、素直にすべてをさらけ出すことだ。もちろん、それには勇気も必要だ。道場生たちが勇気を出して素直になれるよう、私も素っ裸になっていつも接している。

 

P158

 人を観察するときは皆それぞれのモノサシを使っている。自分のモノサシだけでは相手のことがわからず、どう対応してよいか迷うときは、他の人のモノサシを参考にすることもある。・・・

 ・・・

 果たして自分のモノサシはどのようなものなのか、それを客観的に見ることは難しい。・・・

 だが、一方で他人のモノサシのことはよく見える。常識ばかりでつくられているな、妄想が入っているな、欲や期待が強すぎるな、固定観念が強すぎるな……じっくり観察すると、実にさまざまなモノサシがあることがわかる。

 では、自分のモノサシを改良するにはどうすればいいのか?ポイントは、人間が生まれながらにして持っている素の感性を使うことだ。ところが、この感性はほとんどの場合、常識を植え付ける教育やさまざまな固定観念によって曇ってしまっている。

 だから、人を正しく見て理解するには、まず自分の感性を覆い隠しているものを除くことから初めなくてはならない。

 ・・・

 私が読者のみなさんに望むのは、固定観念に囚われることがない、いかなる変化にも対応できる柔軟な観察力を磨いてほしいということだ。研ぎ澄まされた感性でできたモノサシは、どのような時代や環境をも生き抜く心強い武器になってくれると思う。

 

予測できるはずがない

AIの壁 人間の知性を問いなおす (PHP新書)

 想定外のことが起こるものなんだ、その通りなのに、勘違いしやすいなと・・・。

 

P199

養老 今の人って、物事は予測がつくという考え方をしますね。できるわけないのに、予測できない方が悪いと思い違いしています。世界は論理的、合理的にできているから予測可能なはずだと。予測できない状況というのが非常に不安なんですね。

 村山内閣のときに危機管理に関する委員会ができて、その委員になれと言われたんです。「僕が危機管理?なんで?僕が解剖している人は全部死んじゃってて、危機は終わってるのに」と言ったんですけど、会議に出て何か言えと言われたので、仕方なしに「管理できない状況を危機っていうんじゃないんですか?」って言いました。相手にされませんでしたけどね。予測できるから危機は管理できるはずで、管理しなければならない、というような考え方が主流を占めていたような気がします。でも、危機管理って、その言葉自体が矛盾でしょ。

新井 危機管理という言葉ができることによって、「管理することになっているから管理できることにしよう」というように、話が捻転するのでしょう。「非戦闘地域には派遣しないことになっている自衛隊がいるところが非戦闘地域だ」というのと同じですね。

養老 AIがその筆頭でしょうけど、コンピュータが一番それをやるでしょ。「ああすればこうなる」「こうやったら売れる」「こうやったら、こう動く」と。それが、一番正しいやり方だって答えを出してくれる。合ってるかどうかは別ですけどね。

新井 でも、実は、AIが一番苦手なのが危機管理なんですよ。AIには定常状態しか予測できないんです。だから、ゲリラ豪雨とか地震とか墜落とか、想定外のことは予測できません。なぜかというと、滅多に起こらないことは、統計データにほとんど現れないので学習のしようがないからです。

養老 それじゃ、AIに危機管理は無理ですね。それで、原発事故のときは、今度は「想定外」って言い出した。一方で想定できない方が悪い、という話も出てくる。まあ、原発の場合は、危機管理なんかできっこないんだから、危ないものは作っちゃいけないというのが当たり前でしょうけれど、そういうことにはならなくて、「想定外だった」「いや、予想できたはずだ」という話になっているんですね。

 人生って想定外のことが起きるんですよ。その常識がなくなってしまって、何でも想定しなきゃいけない、というのが圧力になってしまっていますね。子どもの育て方がそうです。わからないことがあっちゃいけない。

新井 まさにおっしゃる通りで、拙著『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』に対して、「子どもたちが文章を読めないことはわかった。でも、じゃあ、どうすればいいのか書いていない」という批判がものすごく多いんですよ。それがショックでした。研究者として誠実にファクトを調査して報告したのだから、それを受け止めて各自、考えたり試行錯誤したりすればいいと思うんです。なのに、問題提起するなら処方箋をセットで寄こせ、と平然と言う。何にでも答えがあって誰かが教えてくれると思っている人があまりに多くて驚きました。

 ・・・

養老 それが今の人に一番欠けていることですね。答えが書いていない、と不満を言うのは、そういうことですね。書いていないから面白くて、気持ちがいいはずなのに。

新井 「バカの壁」って、そういうことだと思うんです。「どうしたらいいか書いていない」と批判するのは、教えてもらわなかったら自分は何もできませんと告白しているようなものなのに、そのことに気づいていないんです。

養老 それ、僕もよく聞かれますよ。

新井 「バカの壁、どうやって乗り越えればいいですか?」

養老 その質問は、数え切れないくらい受けました。直感で言うと、きちんと会社勤めしている人というのは、多分、そういう人ですね。答えが欲しい。そういう人と話していても、あまり面白くありませんね。全員ではないですよ、もちろん。

 人間っていろんなことができるんですよ。それは、身体だけ見ててもよくわかるんです。僕の知り合いに本当にいろんなことをできる奴がいるんですけど、蝶の卵を採るために四〇~五〇メートルの木のてっぺんまでサッと登っていくんです。でも、見つからないときもあるんですよ。そしたら、隣の木に飛び移るんです。まるでサルですよ。彼は言うんです。サルにできることがヒトにできないわけないだろうって。

 最初からできないって決めていたら、何もできませんね。でも、やろうと思ったら、できるようになるかもしれない。誰かに教わるわけじゃないですよ。自分で考える。だから、何でもかんでも教えちゃダメなんです。

 一一歳くらいの子どもをジャングルに連れていくとしますよね。最初は怖がって何もできませんよ。でも、一週間も放り込んでおいたら、元気が出てきたりします。何でも自分で考えてやるようになります。

 そういう意味で、僕は楽天的です。生き物は適応能力が非常に高いんですよ。特に、生死に関わるようなことになると、俄然、能力が出てきます。それから、責任を持たせると能力を発揮します。だから、若い人を育てるのに一番いいのは責任を持たせることだと、いつも言っています。

自分はトンネルでナビの矢印

AIの壁 人間の知性を問いなおす (PHP新書)

 この辺りも興味深く読みました。

 

P97

養老 そもそも、汎用AIを議論する前に、「意識って何なの?」と。エネルギーなのか、それとも電気なのか、磁気なのか、引力なのか。未だに何だかわかっていないんですよ。科学上の定義がないんだから。意識とは、基本的に物理で定義できる概念ではなく、物理学そのものが存在する場なんです。意識がなきゃ物理なんて誰もやらないんだから。

 意識とは何ぞや、という点を問わずに意識の問題を扱う。それは危ないと僕は思う。僕らは普段、顕微鏡を使っていますから、よくわかるんですが、顕微鏡で全部のものが見えるわけではなく、見える範囲に限度がある。顕微鏡の性能を知らないと、見えているものが正しいか正しくないかすらわからないんですよ。・・・だから、科学を推し進める場合に、まず扱うものがわかっているというのが大前提ですよ。じゃないと、錯覚が見抜けない。・・・

 

P164

養老 郡司くん(郡司ペギオ幸夫)という理学者がいてね、知能には三つあると言うんだ。「人工知能」と「自然知能」と「天然知能」の三つ。それで、『天然知能』(講談社選書メチエ)という本を書いている。「今こそ天然知能を解放しよう!」と言っている。人工知能の対比としての人間の知能なんかを、「自然知能」と言うのはわかる。で、天然知能とは何かというと、一言でいうのは難しい(笑)。郡司くんは、「外部を招喚する」という言い方をするんだけど、要するに話の筋から外れたもの、「文脈」と彼は表現するんだけど、そういう文脈から外れた「徹底した外部」をそのまま受け止めていくっていう。その「外部」にあたる知能が「天然知能」ですね。郡司くんは、「考えるな、感じろ!」というブルース・リーの言葉を引いている。「人工知能と対立するんんじゃなくて、想像もつかない『外部』と邂逅しよう」と、言っていますね。

 そういう意味で、虫は「天然知能」ですから、感じることだらけですよ。存在自体が本当に不思議なんですよね。「何を考えてるんだろう、こいつら」って、見ていて飽きない。

 あと、郡司くんは、「世界は天然知能」とも言っている。これは意識の起源とも関係があって、意識の起源というのは、実はよくわからない。ただ、一種の汎神論のように、世界にもともと内在されているという考え方があります。・・・世界はひとりでに人を生み出し、人の意識を生み出し、それがコンピュータを生み出している。その一連の流れというのが天然知能の賜物なんだと。

 ・・・

 哲学も、科学と密接に関係してきますよね。哲学者で意識の研究をしている人もいるものね。実験室に入って「私」というものを研究している人。あれは、意外に面白かった。彼は「自分なんて空っぽのトンネルだ」って言って。

岡本 メッツィンガーですね。問題となるのは、その空っぽの「トンネル」をどう理解するかということですね。

養老 僕は、その空っぽを肯定的に捉えて、「ナビの矢印だよ」って言うんです。ナビって矢印がないと使えないんだよと。地図上の現在位置を示す矢印です。じゃ、矢印の中に何かがあるかといったら、ないんですよ。でも、矢印があればいいんです。矢印があれば、役に立つでしょ?自分がどこにいるかがわかるんです。矢印がないとわからない。矢印の中に何があるのかと、一生懸命考えても、何もないんだ。僕はそう思っていたから、メッツィンガーが言う「トンネルだ」というのが、よくわかりましたよ。

岡本 ナビの矢印ですね。とても面白いです。メッツィンガーだけを読んでいても、思いつきませんでした(笑)。

養老 現在地の矢印、大事ですよ。だって、昔困ったことがあるんだもの。田舎へ虫を捕りに行くでしょう。すると、田舎にね、ちゃんと絵図があったんですよ。今みたいにグーグルマップがない時代だから。その絵図には山が描いてあって、村役場が描いてある。だけどね、肝心な看板の位置、つまり現在地が書いてないの。だから、アウトなんです。「それで、一体俺は、どこにいるんだよ!」って。