食べる私

食べる私 (文春文庫)

 面白い本でした。

 

 どんな内容か、巻末の「あとがきにかえて」には、こんなふうに書かれていました。

P389

 食べものについて語れば、人間の核心が見えてくる。

 その理由は簡単だ。食べることは、生きること。・・・

 ・・・

 本書は、二〇一三年三月号から足かけ三年、「オール読物」に掲載された「この人のいまの味」をまとめた一冊である。・・・

 ・・・各界のこのひとが食べものを語れば、人間の真実に触れる瞬間がもたらされるのではないかという予感だけを杖とした。連載時、第一回目をデーブ・スペクターさんにお願いしたのも、この意図を明確にしたいという思いがあったからだ。かねがね、デーブさんの食べ物にたいする関心のなさには、人間理解への手掛かりが顔をのぞかせているように感じていた。じっさい、「食事に費やす時間がもったいない」「うどんは重い」「ふたりの時間がもったいないから、妻に手料理は求めない」……オリジナルな言葉の数々が痛快だった。そして、アメリカで少年時代に食べていた「バターで炒めて黒くなったマカロニチーズ」をなつかしみ、焦げて油臭いバターの味を「僕にとって、それ、グルメ」と断言するとき、異能のひとの孤独な幸福感に接したように思われ、痺れた。あるいは、光浦靖子さんが「ふだんは自分のためのやっつけ料理ばっかり」「料理は飽きちゃうっつうか、めんどくさーい」と線の細い声でつぶやくとき、自己の飼い慣らしかたに触れてはっとさせられたものだ。料理との距離感が、芸人としての光浦さんの個性をべつの角度から照らし出している。

 

 こちらは、光浦さんの回で印象に残ったところです。

P202

「声を発するのが誰よりも嫌いで、誰よりも恥ずかしいっていうフラストレーションとコンプレックスがすごすぎて、罪滅ぼし、ずーっと懺悔しとる感じ。それで人格を保っとる感じです。

 私は運まかせで生きてるもんで、自分で何か手に入れようと思ってやったことが、うーん、もしかしたらないかも?全部が偶然」

―でも、光浦さんは、そこの感覚だけは絶対間違えないんだと思います。

「うん。それはたぶん、良い子にしてるから神様が悪いようにはされないんだろうなと思って(笑)。

 何が楽しいかなあ、何が楽ちんかなあ、その感じを求めて生きていくと、人生がいい方向へ流れていったんですね。だから、今回も自分が楽しいと感じる場所にふわふわ流されようと思って。流されたら、今回は手芸でした」

 

 光浦さんの手芸を初めて見たとき、その激しい魅力にたちまちもっていかれた。フェルト、リボン、ビーズ、スパンコールなどを駆使したブローチ一個一個に乙女のキモチがぎゅっと詰まって、胸騒ぎがしてくる。・・・光浦ブローチには、小学生のころ夢中になった手芸との邂逅を果たした喜びもいっしょに詰まっている。「なにが面白いのかわからないが、脳ミソから気持ちよくなる汁がバンバン出てくる。しかも初心者とは思えないほど上手にできる。(中略)やばい、やばい、やばいっ!」。小学生のときと同じ、やばい面白さを手に入れた幸福感が伝わってくるのだ。

 ・・・

 

 「手芸やってるときは、スイッチが入ったらもっとやりたいもんで、ぎりっぎりまで。私、深夜にやりだすんですが、完成できんかったとき、もう目が痛くて開かんところまでやるんですよ。もう物理的に無理だってところで針をポイッて置いて、そのままバターンと寝て、次の日ペッと起きて、顔洗う前にちらっと見ると、ああ気になる、そのまま始める……物理的にスパンッて目だけ休めるという睡眠。幸せですねえ。起きてもまたやりたーいと思ったときなんか、もううきうきですよ」 

違う?同じ?誤差?

赤塚不二夫生誕80年企画 バカ田大学講義録なのだ! (文春e-book)

こちらは養老孟司さんのお話です。

 感覚は違いを感じとっている、言葉は同じにする・・・とても興味深かったです。

 


P204

 ・・・去年の12月に北海道大学の数学者の津田一郎さんが『心はすべて数学である』という本を書かれました。・・・

 私は前から思っていたんですが、数学って非常に大きな特徴があるんです。それは何かというと、「強制了解」なんですね。どうしてかというと、ピタゴラスの定理が気に入らなくても、一生懸命考えて証明してみると、成り立っちゃうんです。どうしても成り立っちゃうから「強制了解」と言うしかないでしょ。

 世界中誰が考えても、そういう答えになっちゃうということは、数学は理性の徹底的な普遍性を示しているわけです。・・・

 ・・・

 津田さんはちゃんと言っています。「一人一人は遺伝子が違うし、育ちも違う。だから人って、自分と考え方が違う」と。これって当たり前ですよね。そういうことを津田さんが何と言ってると思います?津田さんは、「それを数学的に言うと、要するに『誤差』だ」って言うんです(笑)。要するに、他人と自分の意見が違うのは、「誤差」であると。文句があったら、私じゃなく、津田さんに言ってくださいね。

 でも、この手の考え方って、古くからあります。・・・

 ・・・

 ・・・プラトンは何て言ったか。プラトンは「イデア」ということを言いました。プラトンの「イデア」が何であるかを証明するときには「リンゴのイデア」がいいんです。リンゴって具体的に見たら、性質が無限にあるんですよ。だって、赤かったり、黄色かったり、青かったり、大きかったり、小さかったり、すっぱかったり、甘かったりいろいろでしょ、具体的なリンゴというものは。だけど、みなさんはそれを見て「リンゴだ!」とすぐわかるわけで。そこでプラトンは「世に完全無欠のリンゴというものがあって、それは具体的に存在するすべてのリンゴのすべての性質を備えている。実在しているものは、そういうものだ」と考えたんです。

 じゃあ具体的にみなさんが買ったり食べたりしているリンゴというものは何かというと、それは「リンゴのイデアが不完全に実現されたものだ」と。不完全でしょ。だって性質が限定されているわけですから。本当に存在しているのは、完全無欠のリンゴのほうだと。別の言い方をすると、「概念のほうが実在する」と言ったんですね。でも、普通の人はそれを認めないです。「リンゴは言葉だろ?」と。「不条理だ」と。だからアリストテレスはこう言いましたよ。「実在するのは個物だ」と。

 プラトンには有名な「洞窟の比喩」というのがあって、「みなさんは洞窟の入り口につながれている囚人で、ただし、洞窟の壁しか見えない」と言いました。だから、みなさんの見ている実在というのは、実は自分の影だと。実体、つまりイデアはこっち側にあるんだけど、それは見えないんだよ、と。そういう抽象的なことを「実在だ」と考える人をなんと呼ぶかというと、私はかつてから、それを「〝数学者〟と呼ぶ」と定義しています。

 なぜなら私は東大にいた頃、数学の先生と酒を飲んだときに、面と向かって「先生、数学の世界は実在ですか?」と聞いたことがあるんです。たちどころに返事がきました。「実在ですよ!」と。この中で、数学の世界が実在だと思っている人います?(手があがらない)ここに数学者は一人もいませんな。

 数学の世界が実在だって言われても、みなさん方は信じないでしょうけど、それは本当の数学者を見たことがないからです。津田さんは数学者なんですよ。津田さんにとって実在するのは普遍的な心であって、みなさんの心は、それが不完全に実現されたものです。要するに、「誤差」なんですよ、数学的に言えば。確かに違いますよ。遺伝子も違うし、育ちも違うんだから。でもそんなものは誤差に過ぎないと。僕はそれがわかって気持ちよかったです。誤差だよな、確かに(笑)。

 ・・・「実在」っていうのは、みなさんの脳が勝手につける性質です。どこにつけるのか?毎日金勘定している人には、金が実在です。だけどあんなもの、本当はどこにもありませんよ。昔は貝殻だったし、私は戦後の新円切り替えを知っていますから。・・・

 お金なんて、私にとっては極めて抽象的なものなんです。お金が現実だと思っている人、かなりいるでしょ。その「もの」が実在だと思っているかどうかを検定する、簡単な方法があります。それは、その人がそれにかかわっているときに、その人の行動が変わるかどうかでわかるんです。「お金が落ちてたら拾う」という人にとって、お金は実在です。僕は、虫が這っていたら拾います(笑)。普通の人は虫を拾いません。だから普通の人にとって、虫は実在ではないんです。知識としては知っているけど、私にはかかわりがないと思っている。実在をそのように定義すると、その人が見えてきます。

 数学者は非常に特異な実在を持っていまして、存在しているのは普遍的な心であって、我々の心はそれを不完全に、部分的に、代表して存在しているんですよね。「俺はそんなもの納得いかない」って、当たり前ですよ。実在はみなさん勝手につけているんですから。・・・

 ・・・

 ・・・

 脳みそには昔からいろんな見方があるんですね。一つが「全体論」と言いまして、脳全体が何かをしている。もう一つは「局在論」と言いまして、脳の部位ごとにそれぞれが担っている機能があるという。・・・

 局在していることは確かだし、みなさん常識だと思っているかもしれませんが、たとえば高校生くらいの若い人が、仮に左側の脳に卒中を起こすとします。しばらくは右半身が不随になりますが、数年経ちますと、完全に元に戻って普通になります。つまり、脳が勝手にリハビリして治っちゃうんです、若いから。

 それで思い出したんですけど、・・・小川鼎三先生という脳の大先生がおりました。私の先生の先生です。・・・小川先生が机の傍らに置いてあった脳の標本について「キミ、これどう思う?」と聞かれたんです。見ると、小脳がないので「小脳がありませんね」と答えると、「そうなんだよ、この人、生きてるとき何してたと思う?日本舞踊のお師匠さんだよ」と。

 日本舞踊を踊るのに小脳はいりません。・・・小脳がなくても、意識に関係はありません。・・・じゃあ、みなさんの小脳は何のためにあるのか?私に聞かれても知りません。

 脳ってそういうところがあるんです。全体として上手に動けばいいんです。・・・

 ・・・

 ・・・

 ・・・動物と人とどう違うかということが、ある程度はわかってきた気がします。それは何かというと、極めて簡単で、入力の感覚というのが何をするかを考えてみますと、世界の〝違い〟を見ているんですよ。

 ・・・感覚が何をしているかというと、世界の〝違い〟がわかることです。当たり前だよ、今、明かりをちょっと暗くしたら誰でも気がつきますよ。

 においがするでしょ。においって、いいにおいだとか、悪いにおいだとか、焦げ臭いとかいろいろ言うんですけど、要するににおいがしてくるってことは、それまでそのにおいがしてなかったってことなんですよ。状況が違ったんです。・・・

 ・・・

 感覚の根本は、世界の〝違い〟がわかることなんです。人の意識が何をしたか。その〝違い〟を〝同じ〟にするということを始めたんです。これは、動物はしないことです。たぶん動物は〝同じ〟にできないんです。

 ・・・

 動物を調べますと、調べた限り、全部「絶対音感」を持っていました。人間の子供もそうに違いないです、動物ですから。同じ周波数の音が聞こえたら、同じ耳の部分が動くんだから「あそこが動いたな」くらいはわかりそうじゃないですか。だから私は、自分がわからないことが不思議でした。何で俺にはわからないのかと。

 ・・・

 絶対音感を消してしまった原因が、「言葉」です。母親の言う「太郎」と父親の言う「太郎」は、違う言葉だと思ったけど、どうやら俺のことだと。両方とも俺のことなんだな、とわからないといけないですから。みなさん方、一体何を聞いているかと自分でちゃんと考えたことあります?

 その能力が発展して、何が起こったかというと、人間だけが音痴になります。音痴は私の定義によると、音の高さが違っていても、同じ歌だと信じて歌える能力です。・・・

 「〝同じ〟にする」というのは、人間だけが持っている特殊能力です。これは驚くべき能力で、さっき言いましたように、どんなリンゴもリンゴなんです。「〝同じ〟にする」。これを「概念」と言います。動物は、〝同じ〟にしません。だから、「感覚」である。・・・

 

バカ田大学講義録なのだ!

赤塚不二夫生誕80年企画 バカ田大学講義録なのだ! (文春e-book)

 赤塚不二夫生誕80年企画として、架空の「バカ田大学」を実在の大学で開講するというイベントがあったそうで、その書籍化されたものを読みました。

 読んでいると不思議と連想がふくらむようなお話が多かったです。

 こちらは坂田明さんのお話です。

 

P130

 まず、私が着てる白衣はですね、さかなクンが描いてくれたんです。

 今日のテーマは「役立たずの在り方とミジンコについて」なんですが、世の中に役立たずという者がいるっていうのは、みなさんご存知ですよね。「役立たず」と小さいときに言われたことのある人は手をあげて。大人になってからも言われた人は?

(会場ぱらぱらと手があがる)

 アハハ!それは立派なことなんですよ。なぜならば、役立たずという役をやっているわけですよ。そのことがとても大事なことなんです。

 簡単に言えば、100点を取った人はなぜ嬉しいか?0点のやつがいるからだよ。ねっ?0点の人がいなかったら、100点を取っても嬉しくない。この落差が大事なんです。落差をつめて自分が上に上に立とうとする人もいるし、別にいいやって人もいる。いろんな人がいるわけです。世の中の役割分担ってことなんです。ですから役立たずな人は「役立たず」っていう役をやっていて、その役にずっと甘んじるかどうかというのは、その本人の問題であります。まわりの問題ではありません。

 で、たとえば、「先生」と呼ばれたりしている人もいますけど、そういう人も全部役割を演じている。全部がえらい人だったり、全部が私のようにフリーランスー僕はどっか勤めているわけじゃない、給料取りじゃない。日雇いで暮らしているアホたれですけどー、そういう人間ばっかりだったら社会のしくみが成り立たないわけです。ですからみんなそれぞれの役割があって、役割がとても大事なのであります。

 世の中には、このようにたくさんの役割があるわけですが、赤塚先生のことは、誰も真似できません。赤塚先生の真似をしようとしたら、失敗しますからやめましょうね。あの人は人生があんなふうだったから、あんな人になったので、そうでないとああはなりません。

 僕は基本的にミュージシャンなんですけど、でもなぜミジンコの話をするか?

 ・・・

 僕はミジンコの研究者ではなく、観察者なんです。ミジンコと共に生きている。

 ・・・

 ミジンコは命が透けて見えるんです。顕微鏡で見るともっと透けて見えます。

 ・・・

ポインターで指しながら)これが眼です。これは卵に見えるでしょ、卵です。これは心臓で、これが脳です。脳があるからえらいってことじゃないですよね。みなさんわかってますか。大事なことですよ。ミジンコに脳があるからえらいってことじゃない。脳があったりチンポがついているから、いろんな苦労が絶えないわけです。

●わ!ミジンコだ!

 顕微鏡で初めて生きてるミジンコを見たとき、思ったことが、「わ!ミジンコだ!」なんです。生きてることが凄いと思って、感動した。感動するというのは、心が揺れ動くことで、心が揺れ動くことが楽しいのよ!・・・

 ・・・

 タイリクミジンコ。これも黄色いのが卵に見えるでしょ。卵に決まってる(笑)。体が緑に見えるでしょ、ミジンコの諸君は何を食べているかというと、植物プランクトンバクテリアを食べている。食べた植物プランクトンの色が、緑色なんです。・・・

 似たようなミジンコにオカメミジンコというのがいますが、卵が脱皮、変態して、お母さんと同じ形になっていきます。お腹を持ち上げると殻が開いているので、ここから泳いで子供が出てくる。

 こんなふうに、「ミジンコはミジンコをしていた!」ここを人間に置き換えてみてください。「人間は人間をしていた」と、こうなるとヘビーな話になる。僕はミジンコにかこつけて、このことを考えてきた。人間はいったい何をしていたのか。人間が人間をするためにはどうすればいいのかを、僕は考えているわけです。

●命が透けて見える

 普通人間の顔を見たって、命が透けて見える人はいませんね。ところがミジンコはこうやって全部見えちゃう。もし人間の命が透けて見えたら、・・・「あっ、カレー食ったな、エビカレーだろ?」とかね(笑)。いやでしょ?そんな人生。何食ったかわからないからいいんであってね。ところがこの諸君は全部見えます。なぜ体が透明か?それは魚とかのエサになりたくないからです。できるだけ相手から姿を隠して、透明になろうとしている。・・・できるだけ透明にして、食べられないようにしてるんだけど、どんどん食われてしまう。

●コップの中に宇宙が見えた

 嘘だろう⁉まあ、錯覚です。しかし、そう見えた。コップの中にミジンコを入れて虫眼鏡で観察するとですね、ミジンコに焦点が合うと背景が無限大になる。無限大なんていうのは、宇宙のように見えるのよ。「わ、宇宙だな!」と、思ったんですよ。

 ・・・

 ・・・去年、東北大学の占部城太郎という先生が、実は日本にいるダフニア・プレックス、和名はミジンコという種類は、アメリカから入ってきた、たった4匹の子孫だと、その4匹というのは、北米にいたときにすでにほかの種と混血していて大体700年から3000年前に入ってきたと、そういう「えーっ!」というふうなことを発表しました。

 そして尚且つ、この連中が交尾をした形跡はない。遺伝子を調べてみたら、交尾をしていない。その占部先生は、自分の研究室でミジンコがメスだけで受精卵をつくるということを実験で証明したと言ったんです。・・・

 だから、科学というのは幻想なんですよ。・・・

 ・・・客観なんてどこにも存在しませんよ。みんな、自分の興味のあることしか見ていませんから。どっかの風景を見たってね、全部は見ちゃいませんよ。客観的にものを見るのは無理なんです。・・・そしてみんな色眼鏡をかけています。それでいいんですよ。

 自分の感じた世界というのが「世界」だと。つまり、客観性の反対です。・・・

今をあきらめない

感覚過敏の僕が感じる世界

 この辺りもなんて立派な、と・・・驚いてばかりでした。

 

P204

 「将来が不安」

 そのように思われる方も多いでしょう。

 僕のことをお話しすれば、未来のことはわかりませんが、おそらく今と変わりなく感覚過敏の課題解決に取り組んでいると思います。自分がやりたいことだけで十分な収入を得て生活できるかはわかりませんが、それを目指して高校生の今も基盤をつくっています。

 といっても、会社の事業がうまくいかない場合もありますし、僕のやりたいことがまったく変わって今とは違うことをしているかもしれません。それでも、おそらくですが、僕は自分の居心地のよい場所を選んで働くでしょう。

 たくさんの人が集まるような職場に毎日何時間もいることは僕には苦痛だと思いますので、そのような選択はせず、居心地のよい職場や働き方を探します。探しても見つからないのなら自分でつくるでしょう。

「自分で居場所を選べる人間、つくれる人間はいいよな」と思われるかもしれませんが、実は高校生になってアルバイトをしてみたくて、人生初のアルバイトの面接で僕は落ちました。自分で選んでも相手から選ばれないという現実に直面して絶望的な気持ちになる日もきっとあるはずです。僕も落ち込みましたから。

 自分の居場所が見つからず、誰からも選んでもらえない。もしそういう状況になったら、やっぱり僕は起業を選択するように思います。

 起業を別世界のことと思っている人は、「起業とか居心地のいい場所をつくるというのは、特別な人だからできるのでしょ?」と思うかもしれませんが、特別なことではないと思います。

 感覚過敏がつらくて私立中学を退学してフリースクールに居場所を変えたように、僕は働く場所も居心地が悪いと思うなら変えてしまうでしょう。

 不登校という問題を深刻にとらえてしまう人もいると思いますが、集団の学校生活が特性や感受性などに合わないときは、自分の居場所を変えてしまっていいと僕は思っています。

 それは逃げでもなければ負けでもありません。むしろ前進です。

 自分で仕事の場をつくるということは自分の力で稼ぐことでもありますので、確かに誰もがうまくいくとは言えませんし、起業をすすめたいわけでもありません。

 ただ、自分に合う働く場所がないと落ち込む必要はないですし、一般的な職場で働けないからと言って自分が無能だとか思う必要もないことは伝えたいです。世の中がまだ感覚特性にあった環境をつくれていないだけです。

 僕はこんな考え方をしますが、ほかの人に同じようにすればいいとすすめたいわけではありません。しかし、お伝えしたいことはあります。それは、

「感覚過敏を理由に今も未来もあきらめないでほしい」ということです。

「今」をあきらめないこと。これは僕の生き方の軸になっています。僕が感覚過敏研究所を立ち上げようと思ったのも、「僕は感覚過敏を理由にあきらめている」と気がついたからです。

 感覚過敏だから友だちと遊びにいくのをあきらめる。

 感覚過敏だから友だちとレストランに行くのをあきらめる。

 感覚過敏で着られる服が少ないからおしゃれをするのをあきらめる。

 そうやって、あきらめることが当たり前になっている生活を変えたいと思ったのです。

 だから、感覚過敏があることで、学校や就職、友だちづきあいや結婚などを、無意識にあきらめているのなら、あきらめない道を探してほしいと思っています。

 必ず、道はあるはずです。

 

 僕は感覚過敏は才能だと思っています。ただ、ある感覚過敏の方に言われたことがあります。

「自分に才能があるなんて夢を持って期待するのがつらいので、感覚過敏は才能だなんて言わないでほしい」と。

 そのとき、ポジティブすぎる考えは、時に人を苦しめるのかもしれないと思いました。

 それでも僕は、感覚過敏は才能だと思っています。

 ただ、この社会においては、感覚過敏であることのつらさが強すぎて才能にすることは難しいとも思います。だからこそ、僕は感覚過敏のつらさを解消するものをつくりたいと、研究開発もがんばっています。

 僕は水の味の違いがよくわかります。レストランで出される水が水道水だったら飲めません。ある日、家の水の味がいつもと違うと思ったら、ウォーターサーバーが壊れていたことがありました。

 ある人は、いつも食べているカップラーメンの味が違うと思って製造会社に電話したら、なんと後日、その工場のラインに故障箇所が見つかったというエピソードを持っています。

 ・・・

 小さな変化に気がつける敏感さ、それが感覚過敏の才能だと思うのです。「いつもと違う」に敏感なのです。・・・

 ・・・

 僕は、感覚過敏の人がストレスなく服を着られるようにと、縫い目が外側でタグがない服をコンセプトにしたアパレルブランド「KANKAKU FACTORY」と展開しています。

 服づくりをして気がついたことが、「生地はロットによって厚みも風合いも違う」ということでした。

 ・・・

 生地づくりのベテランなら触った瞬間に違いがわかるでしょう。実は僕もわかってしまいます。

 同じ品番の生地を注文しているのに、前回のものとは違うと感じてしまうのです。品質的には誤差の範囲内だと言われても、僕にはまったく違う生地にしか思えません。

 こうして僕はベテランではないとわからないであろう生地の仕上がりの違いがわかります。工場にひとりいるとかなり優秀な品質チェッカーになれると思います。

 ・・・

 鋭敏さとは違うかもしれません。でも違いのわかる人間なのです。モノづくりにおいて最高の能力です。

 もちろん、これからAI技術も進化し、同一品質のものをつくり続けることができてしまうかもしれません。その世界で、感覚過敏を才能にして生きていけるのでしょうか?

 それは僕にもわかりません。ただ、テクノロジーが進んだ世界では、感覚過敏があるないにかかわらず、人が担当する仕事というのは変わっていくと思います。誰もが進化した社会の中で、「自分の才能とは何か」を自問自答しているかもしれません。

 そのような世界では、もはや、才能なんて気にしなくてもいいのかもしれません。

「才能があったほうがいい」という価値観すら幻想かもしれないのです。

 才能なんて言葉に踊らされなくても、「あ、この感じいつもと同じで心地いいな」と小さな喜びを感じられること自体がすごいことなのかもしれません。

 人は、当たり前に変わらずに存在するものを感じることは少ないのですから。

わかってもらえても、もらえなくても

感覚過敏の僕が感じる世界

 困っていると伝えることは必要、ただ期待しすぎず、というバランス感覚、この若さでよく・・・と驚きました。

 

P190

「感覚過敏のある子どもが将来のために何を準備したほうがいいか」について、明確な答えを僕は持っていません。

 ただ、自分の困っていることを「困っている」と伝える力は必要だと言えます。

 おとなも子どもも年齢関係なく、人はなかなか「自分が困っていること」や「助けてほしいこと」を伝えません。それは、誰かに迷惑をかけたくないと思う気持ちが強いからかもしれませんし、そんなことを言って嫌われたらどうしようという不安からくるのかもしれません。

 ・・・僕は、まず自分が困っていることを伝えられるようになることが、感覚過敏だけでなく多くの困難をうまく処理できる秘策だと思っています。

 黙っていて誰かが察して手を差し伸べてくれることは少ないでしょう。何度も言いますが、他人の困りごとの多くは外からは見えないのです。

 SOSを出せるようになるには、自分の弱さを見せたり助けを求めたとしても、他人は自分が心配するほどに嫌な反応をしたり拒絶はしないというマインドセットが必要です。

 逆の立場で考えれば、誰かが困ってると発信しているとき、露骨に嫌な顔をしたり悪態をついたりしないでしょう。自分が弱い立場だと思ってしまうと、「助けて」「つらい」「困ってる」と発言することをためらってしまいますが、そんなあなたをほとんどの人は否定しません。

 そして、もう1つのマインドセットは、人は期待するほどには、理解したり協力したりはしてくれないということです。

 さきほど書いたことと矛盾するかもしれませんが、伝えて理解してもらえたり、協力してもらえたら超ラッキー、知ってもらえただけでもラッキーというくらいの気楽な感じでいることも大事です。

 ・・・

 もう1つできることがあるとすれば、発したSOSを受け止めてくれるコミュニティに身を置くことだと思います。家や学校や職場がそのような場所であればいいのですが、残念ながらそうではない場合もあります。そういうときのために、居場所をいくつもつくっておくことをおすすめしたいです。

 ・・・

 僕は中学3年生のときから、遠隔操作できる分身ロボットOriHimeをつくっているオリィ研究所の所長、吉藤オリィさんが主宰されている「オリィの自由研究部」というオンラインコミュニティに参加しています。

 メンバーは、病気や障害がありながらも前向きに生きていらっしゃる人や、孤独の研究をして寝たきりや障害がある人の生き方や働き方を創造しているオリィさんを応援する方々です。

 僕はこのコミュニティで、主宰者のオリィさんをはじめ、たくさんのおとなに出会い、真面目に障害をテクノロジーで解決できる未来を語ったり、発明アイデアを考えたりする一方で、一緒にVRやゲームで遊んだりしています。

 ・・・

 ある日、コミュニティメンバーの家でカレーを食べる機会がありました。カレーがおいしいと評判の人なのです。

 僕も食べてみたいと思いながらも、心の中に「食べられなかったらどうしよう」という不安がありました。「せっかくの自慢のカレーを食べられなかったら嫌われてしまうかもしれない」と思ったのです。でも、僕が味覚や食感で食べられるものがほとんどないことを知ってもらえている状態です。残してしまう可能性が多かったけど、食べてみたいと伝えました。

 結局、僕は食べられませんでした。でも、素直に伝えたら、カレーチャーハンをつくってくれました。そして僕はカレーチャーハンをおいしくいただけたのです!

 このように、自分の不安やできないことを受け止めてくれる人が家族以外に増えていくことが、子どもの将来の準備として大事なことだと思います。

 僕が運営している感覚過敏コミュニティも、感覚過敏がある人や家族にとって安心できる居場所の1つになればいいなと思っています。

 

kabin.life

感覚過敏の僕が感じる世界

感覚過敏の僕が感じる世界

 こんなに大変な世界を生きているんだ・・・ということに驚き、また、思考のバランス感覚のすばらしさにも驚きました。

 

P90

「食べられないものが多いのは人類の絶滅回避プログラムだ」と言ったのは僕の母です。

 母自身、僕が食べないことに悩んだり苦労したりしたみたいで、かつ、食べない僕を小さいころはずいぶん叱り、その部分での後悔が大きいようです。

 母とは、僕が感覚過敏研究所を立ち上げてから毎日のように感覚過敏の話をします。感覚過敏について社会にどのように知ってもらおうかとか、感覚過敏の解決方法は何かなどいろいろなテーマで話します。

 そんなある日、母が言った言葉が、「食べられないものが多いのは人類の絶滅回避プログラムだね」でした。

 もう少し説明しましょう。多くの人がおいしそうだと食べているものが、実は体に悪いこともある。誰もが夢中に食べているものに毒が入っていることもある。全員が食べれば人類は絶滅するが、食べない人がいれば生き残る人類がいる。

 そうやって味覚は多彩になり、全員が同じ味を好まないように人類は進化しているのではないか、さらに味覚が過敏な人は味の違いもわかるし、食べ物に警戒心も強い。万が一、人類がなんらかの食べ物で死んでしまうことがあっても、食べない人が必ずいるように人類は進化のプログラムをしている、というのが母の持論です。

 本人はいたって本気で考えているみたいですが、同時に、「食べないということに何かポジティブな意味づけをしないとつらいこともあるでしょう」とも言っていました。

 確かに、味覚過敏やそれによる偏食は生きる上で快適ではない。かなり不便です。

 でももし、人類の絶滅回避のために味覚が過敏で生まれてきたとしたら、まぁ、その人生を受け入れようかなと根拠のないポジティブさは発動できるかもしれない。

 そもそも味覚だけでなく、感覚過敏は本当に人類の絶滅回避プログラムかもしれない。人類の大半の人が受け入れるものを回避しようとしているのですから。

 音も光もニオイも味も触覚も。

 誰もが安全と感じるものに「NO」という反応をするのです。NOと言った人間だけが生き残ることがあるかもしれない。

 この話は、話半分で聞いていただければいいですし、でも案外本当にそうかもしれません。大事なのは、この感覚過敏によるつらさ、生きづらさをポジティブにとらえる思考ができるかどうかだと思います。

 僕はこの話を聞いて、そのポジティブさに救われました。自分なりに納得できる❝感覚過敏で生まれたことの意味づけ❞は、生きる上で大事かもしれません。

 

母の視点

 私は長年ボランティア活動でグリーフケアに携わってきました。

 グリーフケアとは、ご家族や大切な人を亡くした人の複雑な悲しみの感情を理解して寄り添いながら回復をサポートすることです。

 ・・・ご遺族を支えるのは、その死別体験の意味づけや人生の再構築にあるという考え方があります。

 つらい別れだったけれども、こういう価値観を私に与えてくれた、こういう考えを私に気がつかせてくれた……。そんなふうに耐え難い体験に意味づけができたとき、人は強くなり、生きていく力がつくのかもしれません。

 ・・・

 ですから、「感覚過敏」にもきっと意味があるのでは?と考えるのは悪いことではないと思っています。息子本人はそう感じていないと思いますが、感覚過敏の課題を解決できる人間だと神様に選ばれたというような意味づけだって可能です。

 ほかにも、調味料の変化に敏感なことから、スパイスのブレンダーになるために過敏に生まれたという意味づけだってできます。

 それが正しいか正しくないかではなく、自分が納得できる意味づけができればよいのです。・・・

 

P104

 最近、環境感受性が高い人たちを表すラベルとしてHSP(Highly Sensitive Person)あるいはHSC(Highly Sensitive Child)という言葉が広まっています。

 ・・・

 感覚過敏は、発達障害や脳神経の疾患による症状として見られる医学用語ですが、HSPは心理学で使用することを想定した研究分野です。

 ただ、ひとつ言えるのは、感覚過敏もHSPも病名ではないので、基本的に病院で診断されるものではありません。よって自己判断してしまうことも多いということです。

 実際、僕も感覚過敏は自己判断です。発達検査は小学生のときに受けましたが、発達障害の診断は出ていません。しかし、自分でも自閉傾向はあると思いますし、感覚特性や脳の特性は本当にスペクトラムです。この線からこっちは感覚過敏で、こっちは過敏でないなんて明確な区切りはありません。

 そういう意味で、みなさんも「私って本当に感覚過敏なのかな?HSPなのかな?」と思われるかもしれませんが、大事なことは、感覚処理で困っていることがあるかどうかだと思います。

 目に見えない感覚の処理で日常生活が難しかったり、苦痛をともなっていたりするならば、正直、名前なんてどうでもよくて、その困りごとを解決する方法を考えたいと僕は思うのです。

 しかし、僕がかつてそうだったように、自分に「感覚過敏」や「HSP」というラベルをつけることで、安堵できる人がいるのも事実です。人はラベルによって、自分の枠をつくって苦しむこともあれば、そのラベルで救われることもあるのだから困ったものです。・・・

 

里山のシイナのほぼ片づけ日記

里山のシイナのほぼ片づけ日記

 なんの本だろう?と手に取ったら、購入した古民家を片づける過程が記録された本で、すごい大変そう・・・だけどなんか勇気づけられる・・・YouTubeも、みんな見たくなるだろうなぁと思いました。

 おわりに、にはこのように書かれていました。

 

P120

 この物件でたくさんの物を目にしましたが、そのほとんどが、一般に「ゴミ」と呼ばれる物ばかりでした。なぜこんなに多くの物を溜め込んだのか、最初は不思議で仕方ありませんでした。いらなくなったら捨てればいいのに。そう考えるのが、僕たちの感覚では当然のことだったからです。

 この家は、少なくとも明治時代から何世代も引き継がれてきた歴史があり、年代の古いものから新しいものまで、数多く出てきました。物の状態を見ると、明治から昭和初期を生きた世代と、高度経済成長期を経験した世代とでは、物に対する姿勢が大きく異なる印象を受けました。

 まだ物が貴重だった頃の物品は、作りも扱われ方も、一つひとつ丁寧な印象で、壊れたままにしてあることも少なかった。その頃の物はほとんどが手作りで、素材は木材や金属が中心なので、不要になれば薪にしたり、資源として売ったりと処分が簡単です。

 一方、高度経済成長期以降の物は、プラスチックやビニール製品が爆発的に増え、大半がまさに「ゴミ」という状態で残され、扱われ方も雑だったことが見て取れました。薪にもならず、資源としての需要もない素材の数々。物が貴重だった時代を経験した人なら、ただ捨てることに抵抗を感じたのかもしれません。「まだ使うかもしれない」「ほかに使い道があるのでは」と思って、残してしまうのも不思議ではありません。

 ですが、手に負えなくなった大量の物が、住空間まで埋め尽くし、まるで物に溺れていたかのような光景を見て、物がある豊かさとは一体何なのだろうと、考えずにはいられませんでした。

 物を捨て続け、その物が使われた背景を垣間見た僕たちですが、片づけが終われば逆に、様々な物を作っていく立場になります。

 ものづくりというのは、一種の「環境づくり」で、自分で作り上げた環境は、自分自身にも影響を及ぼすと思います。・・・

 また、ものづくりにおいて、時代が変わっても愛される、品質の良い物を残すことは、希望にもなると思います。・・・

 なので、これから作る物や家、そして環境は、心地よいもの、魅力あるものにしたいと思っています。・・・僕たちはミニマリストではありませんし、散らかすことだって多々ありますが、自分にとって適切な物の量を把握し、周囲の環境がどうなっているのか、時々でもいいので気にかける。大切なのは、物に翻弄されないよう、自分の心をしっかりコントロールし、物と向き合うことだと思います。

 2020年5月に始めた片づけは、約1年半という月日を経て、2021年12月末、ほぼ終了することができました。・・・

 ここまで、地味な作業の繰り返しでしたが、自分たちの理想の暮らしを作り上げていく、そんな楽しさをもって取り組むだけで、一つひとつが貴重な思い出と経験になりました。正直、逃げたいと思うような場面にも出くわしましたが、乗り越えるたびに得られる達成感は心地よいものです。もう一度やるかと聞かれたら、絶対やりたくないのですが、片づけももう終わってしまうと思うと、妙に寂しいこの気持ちは一体何なのでしょう?(笑)

 もしかしたら人生も同じようなものなのかもしれません。辛いこともたくさんあるけれど、正面から向き合って乗り越えて、かけがえのない経験として心に刻み込んでいく。あんな思い、二度としたくないという感情も、経験したからこそ得られたのです。汚いところから目を背けていては、掃除はできず、綺麗になりませんよね。

 いつの頃からか、なんとなく田舎で生活をすることに憧れていました。自然の多い場所で、のんびり穏やかに暮らせたら……。

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 僕らは地方活性化や、農業活性化、自然環境の保護などを第一に謳うつもりはなく、ただ自分にとって、ひいては人間にとって、豊かさを感じる生き方を模索したいと考えています。

 この先どうなるか正直わかりませんが、この本を手に取っていただいた方に「こんな生き方もいいかも」と思ってもらえたら、そして、少しでも何かのきっかけになれたら、嬉しい限りです。

 


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