健全って、こういうことかな?と思いつつ読みました。
P54
人はいい「贈り物」を受け取ったとき、「ああ、いいものを受け取っちゃったな。もらったもの以上のもので、なんとかお返ししたいな」と考える人格をも秘めている(と思う)。
これは、前に述べた「消費者的な人格」とは真逆の働きをする。自分が手に入れるものより、支払うものの方が大きくなるわけだからだ。これを「受贈者(贈り物を受け取った人)的な人格」と呼ぼう。
面白いのは、世に「消費者的な人」と「受贈者的な人」とがいるわけではないということだ。事はそれほど単純ではなく、きっとあらゆる人の中に両方の人格が存在し、時と状況によってそれぞれが発現するのだ。
だから、問題になるのはお店がお客さんの中に眠るどちらの人格のスイッチを押すかということ。
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「ああ、いいものを受け取っちゃったな」と感じてもらえたなら、レジで一〇〇〇円を支払うとき、「ああ、一〇〇〇円なんて価値じゃないな。もっと支払ってもいいのにな」とすら感じてもらえるかもしれない。
となれば、そのお客さんはまたお店に来てくれるかもしれないし、まわりに「いいお店があってね」と紹介してくれるかもしれない。
もしくはお店に返ってこなかったとしても、その「受け取った」ことによる「健全な負債感」は、その人をして帰り道に路上のゴミをも拾わせるかもしれないし、電車ではおばあさんに席を譲る気持ちにさせるかもしれない。
つまり、「いいものを受け取る」ことは、その人を次の「贈り主」にすることなのだ。
P107
二〇一一年夏、一通の手紙を受け取った。差出人の名前は長原祐子さん。
聞けば長原さんは国立音楽大学のご出身で、後輩たちの演奏の機会にと西国分寺の駅から少し歩いたところにあるご自宅を開放され、丁寧に小さなクラシックコンサートを積み重ねてこられているという。
とても美しい文字で、四ページにもわたってしたためられたその手紙には、彼女の音楽の持つ力への思いと、小さな演奏会をクルミドコーヒーで開きたいとのメッセージが添えられていた。
それまでにも何度もお店を訪ねてくださっていた長原さん。「自分たちのコンサートのためにお店を使わせてくれ」という提案とは少し違い、文章のはしばしにはぼくらが大事にしようとしていることへの理解があり、「音楽があることで、クルミドコーヒーが、西国分寺での日々が、いかに素晴らしくなるか」といった、一緒に未来を思い描くような記述があふれていた。
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長原さんの手紙は、自らの目的のためにぼくらのお店を「利用」しようとするものとは少し違い、ぼくらのお店を、ぼくらがお店を通じて実現しようとしていることを「支援」してくれようとするものだった。
だからぼくらも、長原さんを、長原さんの思いを「支援」したいと思った。
P113
自分が目の前の相手に、どう力になれるか。
「支援する」姿勢は一面において利他的な行為であることは事実である。ただそれは、「自分の利益を犠牲にする」ことと必ずしもイコールではない。「支援する」姿勢は、相手の「支援する」姿勢をも引き出すことで、多くの場合自身に返ってくる。昔からの知恵にならって言えば「情けは人のためならず」。
「支援する」ことは「支援されること」なのだ。実際に今、クルミドコーヒーは、音の葉コンサートやクルミド出版に、多く助けられている。
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明治期に〝society〟という言葉が入ってきた当時、これにどういう日本語訳を当てるかが議論になったという。結果的には「社会」という語が普及・定着し、今もぼくらはこの言葉を使っている。ただ個人的にはこの訳語は、「どこか自分とは遠く離れたところにある大きな何か」を指すニュアンスがあるように感じ、あまり好きになれない。「社会」に自分が含まれている感じがしないのだ。
そして実はかつて、〝society〟に当てる訳語としてもう一つ「人際交流」という候補があったという。なるほど、と思う。つまり「私とあなたの関わり」の集合体とでもいたところか。
P162
クルミドコーヒーの評価として、ときに「一人ひとりがいきいきと働いている」「お店で働く一人ひとりの顔が見える」というように言っていただけることがある。
それは本当にうれしくありがたいことで、実際この間、お店が安定的な成長を遂げてくることができたのはきっと経営戦略がすぐれていたからだとか、革新的な商品を扱っていたからとか、そういうことではなく、ひとえにメンバー全員の現場でのがんばりのおかげだと言うべきだろう。
世の働き方の選択肢は、ともすると「お金にはなるけれど、やりたいことではない(自分の主体性は発揮できない)」と、「やりたいことだけれど(自分の主体性は発揮できるけれど)、お金にはならない」の究極の二択に見えてしまいがちだ。
でも、働き方にも、それらの間の選択肢があってもいい。
「自分の主体性が発揮でき、大変だけれどよろこびがあって、経済的にも持続可能(かつ成長可能)」。
それを実現するカギが、組織の内部・外部両面にわたって、交換の原則をテイクからギブへと切り替えることにある。
P233
先の成果と利益の数式に戻ろう。
もう一つの提案は、分子を目的にするのではなく、分母を目的にすること。
多くのビジネスにおいては、利益や利回りを目的としている。となると当然それを最大化するために、初期投資はできるだけかけず、回収までの期間は短く、ランニングコストもかけないで―となっていくのが論理的な帰結だ。
別の言い方をすれば、自分/自社の利益を手に入れようとすること、つまりテイクすることがビジネスの動機になっている構図がこの数式にも表れているといえる。
それを逆転させてみてはどうか。
目的を、動機を「ギブすること」にしてみる。
かけるべき時間ちゃんとかけ、かけるべき手間ひまをちゃんとかけ、いい仕事をすること。さらにはその仕事を丁寧に受け手に届け、コール&レスポンスで時間をかけて関係を育てること。つまり「贈る」ことを仕事の目的にする。
そして分子を「結果」と捉える。
自分たちが本当にいい仕事をできていれば、受け手にとっての価値を実現できていれば、それは受け手の中に「健全な負債感」を生む。そしてそれに応えよう、応えなければいけないという気持ちが、直接・間接に作り手に利益をもたらす。