酒場とコロナ

酒場とコロナ: あのとき酒場に何が起きたのか

 dancyuの連載がまとめられた本。

 お店を開けられない状況で思うこと、考えること、できることをすること・・・みなさんすごいなあと感じながら読みました。

 

P6

 本書は、コロナ禍が酒場に何をもたらしたか。その一点を追いかけて、酒場の人々を訪ね、時期を変えて聞いた話を一冊にまとめたものである。

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 ・・・酒場を愛するすべての人たちと一緒に、あのとき何が起きたのかを、もう一度眺め渡してみたいと思う。

 

P72

 吉祥寺駅北口から歩いて5、6分。吉祥寺通り沿いのビルの3階に、「BAR WOODY」はあります。この場所に店を開いたのは1999年5月。オーナーバーテンダーの田中雅博さんは、ひとりで切り盛りしてきました。うまい酒を飲ませようという実直な姿勢と、親身になって人の話を聞く人柄が愛されて、地元のみならず、わざわざ電車を乗り継いで訪ねてくれるバー好きのお客さんも少なくない。

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 この店は、酒の店です。軽いつまみは出すが料理まではいかない。それでも田中さんは自家製の燻製をこしらえたり、小腹のすいた客にはホットサンドをつくってくれたりと、気の利いたものを出してくれる。ナッツ類ひとつをとっても、いい加減なものは出さない。酒類提供は午後7時までという条件がついたときには、こんな配慮もした。

「7時までに酒を出し終えて、それを飲んだら8時までに店を出てもらうということですよね。お仕事の後に来ていただけるお客さんは、何も食べずに来ても到着が6時半くらいにはなります。それから大急ぎで飲んで、店を出たとして、8時には飲食店は閉店ですから、外ではもう何も食べられない。だから、あのときには、お蕎麦とかパスタとかさっと茹でて出してました。蕎麦は乾麺ですよ。それを茹でてチューブのわさびと蕎麦つゆでぱっと食べていただく(笑)。気を遣ったお客さんが、来るときに乾麺買ってきてくれたこともあります(笑)」

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「あまり、タラレバでものを考えないようにしているんですけど、もし、この店をやめたら、オレはどうなるんだろう、って思う」

 田中さんは今、59歳。自身もよく飲み、かつ、数々の吞ん兵衛たちをさばいてきた田中さんも、来年は還暦なのです。

「何ができるか。お金をいただける仕事って考えると、実は、今の仕事しかない(笑)」

 そう笑いながら田中さんは、今できることをやるだけですとも言う。

「カクテルの練習、研究ですね。たとえばサイドカーというカクテルで、どうしたらもっとブランデーのコクを出せるか、オレンジ感をつよく出せるかを考える。お金をいただいている以上、今でも及第点のカクテルをお出ししているとは思いますが、それでも、なかなか100点はとれない。どうしたら、100点になるか」

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「うちのハイボール、うまいんですよ」

 営業休止中だから出せないが、この店に来るのは初めてという取材スタッフのひとりに、田中さんは冗談交じりに言うのですが、それも日ごろの研究あればこその話です。

 店には、ハウスワインならぬ、ハウスウイスキーがあります。ニッカとサントリー。これで水割りやハイボールをつくるのですが、ニッカはブラックニッカをベースにニッカウヰスキーを何種類かブレンド。サントリーの場合は、角をベースに、サントリーウイスキーを何種類かブレンドするという、いずれもオリジナルです。そして、1杯のハイボールを、田中さんは実にていねいにつくる。ああ、これは、普通の「角ハイ」じゃないなと、角ハイに目のない人にもそう思わせる1杯に、仕上げるのです。

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「お客さんからメールをいただくんですよ。おいしい弁当を買っていくから一緒に食べないかとか、お酒はなしだけど、今日は、近くでランチしませんか、とか。嬉しいですよ。本当にありがたい。それから、若い人のほうが、長いメールをくれたりします。お酒飲めないけど、ちょっと顔見に行っていいですか、なんて書いてきて、本当に、わざわざ様子を見に来てくれたり。若いんですよ。平成生まれ。いいですね、平成生まれ(笑)。僕はゴルフも釣りもやらないから、以前から休みの日に何人かで集まることはないんですよ。でもその分だけ、ひとりひとりとの関係が濃いのかもしれない。一対一の関係ですね」

 心根のやさしいバーテンダーに、やさしいお客さんがついている。みんなで集って大いに語らうことはできなくても、会えない今も一対一でつながっている。酒場本来の姿なのかもしれません。

 

P87

 訪れたのは2021年8月20日の午後。・・・明治期に創業した酒場は関東大震災のとき、火災によって焼失。その後、家族で懸命に働いて、昭和3年に建てた現在のお店で、昭和の戦争も生き延びてきた。

「祖父母から聞いた話ですが、戦争中、お酒や食料も手に入らなくなるまで営業をしていたときは、マッチ棒で、その日のお客さんの数を数えていたそうです。それくらい、お客さんも少なくなってしまったんですね。そんな戦争のとき以来なんですよ。これだけ長い期間、店を閉めたのは」

 戦後も「みますや」は頑張り続けた。周囲の店が暖簾を下ろした後、最後に灯りを消すのが「みますや」だった。かおりさんには、夜中まで店を開けていた3、4歳のころの記憶があるという。

「父も中学時代から店を手伝い、私も高校から大学まで店に出て手伝いました。子供のころは居酒屋の娘であることが嫌だなと思っていたのですが、店に出ると、お嬢ちゃんなのかい?と声をかけられ、昔、お父さんはこうだったとか、おばあちゃんが帳場に座っていたよねとか、たくさん話をしてくださる。店をつぶしちゃダメだよ、頑張るんだよと、声をかけてくださる。そのとき、いい商売なのかなってはじめて思えた(笑)。一日汗して働いた方々に、うちの暖簾をくぐったら年齢も職業も関係なく、ポケットマネーで、安くておいしいものを召し上がっていただきたい。父が昔から言っていることですが、これがあったから今までやってこられたのだと思います。父ももう歳ですし、コロナのこともあるから今は店には出ていません。それで私が帳場に座るのですが、店を開けているときに、あそこから見ていると、お客さんたち、とても楽しそうなんです。仲間内で他愛ない話で大声で笑ったりね。ああ、父はこういう光景をずっと見ていたんだなって、最近、感じることですね」

 

P145

 オープンした昭和46年は西暦にすると1971年。つまり、「鳥平」にとって今年(2021年)は、錦糸町で50年の、記念の年なのです。だからこそ、裕子さんの胸にも、陸さんの胸にも、創業夫妻が頑張ってくれたこの店を守ろうという、強い気持ちが湧いているのかもしれません。

裕子「お客様の前でも言い合いになるくらい、よく夫婦で喧嘩していました。父は80歳まで、母は82歳まで店に出ていました。喧嘩相手がいなくなったからか、母も、がくっときて。だから今は、母の様子を見てから、この店長の下にも子供が3人いますから、そちらの学校のことなんかもあって、一日はあっという間に過ぎてしまいます」

 もとより裕子さんは店の代表者。陸さんに店長を任せつつ、店の経営も見ている。超多忙な日常の中で、いつか夜は明ける。そう思えた理由は何か。伺ってみました。

裕子「たぶん私の性格(笑)。楽観的なのかな」

陸「僕も、おんなじです(笑)」

裕子「じゃあ、もとは、父の性格かもしれませんね。私は若い頃、外で働くようになったとき、父に言われたことがあるんです。どんなにいい時も、どんなに悪い時も、同じ状況は続かないからねと。この父の言葉はその後の人生の中で、ああ、本当だなと思うことがあって、心に染みついています」

母の味、だいたい伝授

母の味、だいたい伝授(新潮文庫)

 阿川さんのエッセイ、楽しく読みました。

 

P198

 餅はなぜ、正月特有の食べ物なのだろう。今年初めのニュースでも、正月に餅を喉に詰まらせて救急搬送された高齢者が都内で二十人近かったと報じていた。毎年のことだ、餅を食べたら喉に詰まるであろうことは、年齢や普段の咀嚼状況から判断すれば容易に予測できるだろう。でもまあ、お正月だもんね、おばあちゃんに食べさせてあげようよ。おばあちゃん、気をつけて食べてね。家族もよくよく注意していたはずなのに、やっぱり詰まるときは詰まる。どれほど苦しいことだろう。「餅詰まらせニュース」を耳にするたび、ウチも気をつけようと誰もが心に期すはずだ。それでもなお、日本人は正月に餅を食べずにはいられない。

 この際、免許証返納と同様、「そろそろ危ういぞ」と予感したら、あるいは家族が「ウチのおじいちゃんはもう食べないほうがいい」と判断したら、「今年の正月を最後に、餅を自主返納いたします」と宣言するよう国で奨励してみてはいかがだろうか。

「餅を喉で逆走させる心配があります」

「嚥下のアクセルとブレーキを間違えて、まだ喉を通過しない大きさにもかかわらず喉に向かって暴走したようです」

 運転免許証と餅をセットで返納する法律ができたら、家族はホッと安心するけれど、本人はさぞや情けないにちがいない。私とて、免許証はいずれ返納しようと思っているが、餅を諦めろと言われたら、たぶん、泣く。

 高齢者病院に入院中だった父が正月を迎えたとき、

「白味噌の雑煮が食いたい」

 毅然と呟いた。父の気持はよくわかる。そうだろうそうだろう。毎年かかさず我が家で元旦に食べていた雑煮を口にしたい。そう願うのは無理もない。家族としても、「それは無理です。食べさせませんよ」などと厳しいことは言えなかった。

 幸い、その病院は料理の持ち込みが自由であった。少量ならばお酒をたしなむことさえ許されていた。私は自宅で、かつて母が担当していた白味噌雑煮を作って持っていくことにした。

 まず大根、ニンジン、里芋を適当な大きさに切ってそれぞれに茹でておく。鶏肉も一口大に切り、醤油、砂糖、酒で味をつけて下煮する。別鍋に鰹出汁を取り、白味噌を少しずつ溶かし込む。

 白味噌の濃さには好みがあり、私はやや薄味のほうが好きなのだが、父は濃い目を好んでいた。そして肝心の餅についても、父は丸餅を所望した。が、丸餅を買ってくるのは面倒なので手元の四角い餅でごまかす。

 餅は焼かず、湯の中でとろとろになるまで柔らかくしておく。白味噌出汁の味が調ったら、そこへ大根、ニンジン、里芋と、甘味に煮ておいた鶏肉を投入し、最後に餅を入れて鍋底が焦げないよう気をつけながら、熱々になるまで温める。

 さて出来上がった白味噌雑煮を、私は父の病室へどうやって持っていったか覚えていない。病院で温め直してもらったのか。あるいは少し冷めた雑煮を父の口に運んだのか。そのあたりの記憶が飛んでいるが、何より気がかりだったのは餅の大きさだ。

 そもそも父が入院生活を始めるきっかけになったのは誤嚥性肺炎を起こしたことである。高齢になり、喉の嚥下能力が落ちたせいで食べ物や水分を喉から食道へ運ぶことができず、間違って気管へ流し込んでしまう。そのとき一緒に道を間違えた雑菌が肺にたまり、肺炎を起こす。

 高齢者が誤嚥性肺炎を起こしたら、それこそ命取りになりかねないと言われていたが、一ヶ月にわたる絶食と流動食生活を経て、父は見事に復活した。晴れて普通食が食べられる身となった父は大喜びである。さっそく「鰻が食いたい」と言い出した。

 いやいや、それは危険過ぎるでしょう。鰻の小骨が喉に引っかかって誤嚥性肺炎を再発させたら大変だ。私は病院のお医者様のもとへ飛んで行き、訴えた。

「父が鰻を食べたいと言うのですが、ダメですよねえ」

 娘がお伺いを立てれば、

「それはちょっとご遠慮願います」

 そう返答されるに違いないと確信していた。ドクターストップがかかれば父も諦めるだろう。ところがその先生……というか病院の会長様(よみうりランド慶友病院の大塚宜夫会長)はケロリとおっしゃったのである。

「よろしんじゃないですか?」

 加えて言葉を続けた。

「食べたいという意志があることが大事です。食べたいものはたいがい喉を通るのです」

 その一言に私は感動した。そうか、あれはダメこれもダメという前に、おいしいものを食べたいという意欲を尊重すべきなんだ。なんと患者の気持に深く寄り添った哲学であろう。おかげでその後、私は父の病室へ鰻の蒲焼きを頻繁に運び込むはめとなった。

 鰻は柔らかいから、小骨にさえ気をつければ老人の喉を通りやすい。しかし今回は餅である。変幻自在。どちらへ伸びてどこにペタリと張りつくかわからない。私は緊張した。雑煮を食べさせたことが原因で父が息を引き取ることになったら、娘の私は殺人罪に問われるかもしれない。しかし、目を閉じてひたすら静かに「餅が食いたい」とお経のように繰り返す父を諦めさせるのも忍びない。

 私は雑煮の中に沈む餅を取り上げて、できるかぎり小さく切り分け、だいたい一センチ角ぐらいのちびっこ餅にして、おそるおそる父の口へ運んだ。

 父が弱々しく口を開く。そこへスプーンですくった餅と味噌出汁を用心深く流し込む。そしてしばらく様子を窺う。

 詰まったか?無事に喉を通り過ぎたか……?長い時間をかけて口の中で咀嚼していた父の表情がゆっくりとほどけ、

「うまい」

 その一言にどれほど安堵したことか。もし父が顔を真っ赤にしてもがき始めたら、私は病院の掃除機を持ってきて父の口にノズルを突っ込み、餅を吸い上げる覚悟であったが、そんなことをせずに済んでよかったよかった。

 喜んでいる場合ではない。そう遠からぬ将来、必ずや私も餅を喉に詰まらせる日が訪れるのである。嚥下機能が低下する前、今のうちに餅をたっぷり楽しんでおかなければなるまい。そう思ったせいか、この正月はいつにもまして餅をたくさん食べた気がする。

 もちろん最初は雑煮。白味噌雑煮。白味噌雑煮に飽きたらお澄まし雑煮。具は、大根、ニンジン、里芋に加えてほうれん草か小松菜を入れ、さらに餅は焼く。焼き餅の香ばしさが出汁の中で広がって、これまた美味である。

 おせち料理や雑煮を食べ尽くしたのち、昼飯時になると、

「どうする?ラーメン?うどん?」

「そうだ。お餅があるね」

 しばらくは餅を楽しもう。フライパンで餅を焼き、風船のごとくに膨らんできたら醤油を入れた皿の上に置く。醤油の染み込んだ餅に海苔を巻き、いわゆる「磯辺焼き」で食すのもいい。私はそこへこっそりバターを差し込む。動脈硬化の気がある私はあまりバターを食べてはいけないのだけれど、ちょっとだけね。熱々餅の真ん中に穴をあけ、そこへバターをちょっとだけ。溶け切る前に海苔で巻き、両手でつまみ上げて、

「あちあちあちち。ふう。やっぱりバターと醤油と餅は合うねえ」

 喜んでいると、

「おっと、おっとっと」

 下からバターが垂れてくるので要注意。

 さらに身体に悪いことをするつもりになれば、そこへ砂糖をちょっと。ちょっとだけね。これもまた美味である。

 ・・・

 先日、若いお母さんが、まだ一歳になったかならぬかの赤ん坊を抱いているところに出くわした。まあ、なんて可愛らしいのでしょ。コロナ禍の中にある今、あまり近づいてはいけない。が、あまりの可愛らしさに思わずそのモチモチ腕を触りたくなった。もちろん、触りませんでしたけどね。小さな身体なのになんという太くてモチモチとした腕であろう。眺めているだけで幸せな心地になる。もはや我が身のどこを探しても見当たらぬモチモチ。

 そうか、と私はそのとき合点した。モチモチもっちりには、人を幸せにする力がある。だからモチモチ餅を正月に食べるのか。カサカサの手をさすりながら私は誓う。今年は一年じゅう餅を食べてモチモチしよう。

病気と折り合う芸がいる

病気と折り合う芸がいる

 養老孟司さんの考えに触れると、なにかが少し修正されるような感じがします。

 

P4

 この30年間で世界中の昆虫が8割ほど減っている。人間の子どもの数も減っているように、地球全体で生き物が住みにくい状態に変わってきている。だが、みんなそのことをあまり深く考えない。

 ・・・

 人は居心地がいい状況から外されると、元に戻そうとする。それまで当たり前だと思っていたことを考え直そうとする。人と自然の問題を自分のこととして考えるようになれば世界はよくなる。僕はもう時間がないので、みなさんが考えてくれればと思う。

 

P30

 この本の取材で、死の恐怖をどう克服したらよいのか、という質問がありました。それに対して、「死がどういうものか想像することは、おもしろくないですか?」と答えました。

 虫仲間の池田清彦君(生物学者)と話したときのジョークですが、極楽に行って、きれいな花はいっぱい咲いているけど、よく見たら虫が一匹もいない。それは僕らにとっては地獄だなと。

 蜘蛛はいるかもしれません。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は、蜘蛛の糸を使って犍陀多を地獄から引き上げる話でしたから。でも昆虫はいないような気がします。

 ・・・

 冗談はこれくらいにしておきますが、死を考えるのは確かにめんどうくさいものです。でも逆に言うと、現代人は死を考えるのを怠けているのではないかとも思います。

 中世のキリスト教修道院では、「メメント・モリ」と一方が言うと、「カルペ・ディエム」と返す、というあいさつがあります。

 メメント・モリは「死を思え」、カルペ・ディエムは「その日を摘め」という意味のラテン語です。

「いつか必ず死ぬことを忘れるな」「今日の花を摘むように、今日を十分に生きよ」と声を掛け合うわけです。修道院というのは、死や生について深く考える場所ですが、これが昔の人の考え方なのだと思います。

 ・・・

 では死とは何でしょう。例えば、フライデーと出会う前のロビンソン・クルーソーは無人島でひとりぼっちでした。その彼が生きているか死んでいるかは、私たちにとって無関係のことです。

 一方、ロビンソン・クルーソー自身にとっても、彼の生や死は関係ありません。しかし、そこにイヌが一匹いたら違ってきます。

 イヌは「今日のエサは誰がくれるんだろう」と思うでしょう。そのとき、死の問題が発生してくるのです。

 ところが多くの人は、死は物理的な、客観的な事実だと思い込んでいるので、そのことに気付きません。

 どういうことかというと、死は社会的な概念なのです。そのことが世界の常識として定着していないので、死というものがわからなくなってしまうのです。

 自分が死んだとき、自分が自分の死について考えることはありません。むしろ死は社会的なものだから、僕は遺族に任せろと言っているのです。

 もはや本人はいないし、自分と関係のない人にはまさしく無関係なわけですから、自分の死についてあれこれ考えても仕方ないわけです。

 ・・・

 そもそも僕は、5年前に心筋梗塞を起こしたとき、死んでいてもおかしくなかったのです。

 何しろ心筋梗塞で入院していたとき、僕の前に、あの世へのお迎えが来ましたからね。

 心筋梗塞の手術でICU(集中治療室)に入ることになったとき、検査室の大きなテレビモニターにお地蔵さんが映っているのが見えました。

「鎌倉に六地蔵というのがあるけど、これは五地蔵だな」とか、ぼんやり考えていました。

 そのうち、モニターから五体のお地蔵さんが、端から一体ずつ順番に抜け出てきました。それを眺めているうちに、「ああ、お迎えが来たんだ」と思いました。

 退院してから、お坊さんに聞いたら、地蔵菩薩はあの世への道案内をする仏だと教えてもらいました。

 やっぱりお迎えだったんです。あのままお地蔵さんに着いていったら、本当に死んでしまったのかもしれません。

 麻酔薬の影響で、少々せん妄(意識障害)状態が生じていたのかもしれませんが、この体験のおかげで僕はあの世行きの予行演習ができたと思っています。

 

P95

 宗教は死の概念を人々に教えてくれるから、それぞれの意識の中で死というものをすっきり解決できるという人がいます。宗教を信じていると、死を恐れることがなくなるという人もいますね。

 でも、そういう前提ができてしまうのはおかしいと僕は思っています。死の概念というものが、一人一人にわかるはずがありません。わかると思っている人は、自分が理解できない世界が存在していること自体が許せないのでしょう。

 死というものを自分はわかっていないといけないとか、自分は世界のことをわかって当たり前だと思っている人は、死についても自分でわかっていないといけません。だから宗教を持ち出すのではないでしょうか。

 そうではなく、死は社会的なものだから、遺族を含め第三者に任せるしかないのです。お葬式にしろ、法事にしろ、遺った人たちの問題でしかないからです。なぜなら本人はもういませんし、その人と無関係の人には関係のないことですから。

 宗教を否定する人たちは、宗教をなくしてしまえと言います。でも「なくせ」ということ自体、宗教が存在していることを認めているわけです。

 僕は宗教というものをそもそも認めていないから、「なくせ」とは言いません。僕が認めていなくても、宗教は存在しますし、お葬式や法事には役割があります。・・・

 

P111

 僕は何かを判断するとき、居心地がよいかどうかを考えます。日々の生活の中で一番大事なのは居心地のよさでしょう。

 働き過ぎて過労死する人は、自分の居心地のよい場所がわからなくなっているのではないでしょうか。

 僕も東大医学部教授をやめるとき、自分にとって居心地のよいというのはどういう状態なのかを考えました。

 ・・・

 その当時、先輩の教授が「ここはがまん会だからね」と言っていたのをよく覚えています。そう言う人は、そこが居場所だと思っています。大学が共同体化しているのです。

 会社なんかも「がまん会」のようなところがあるのではないでしょうか。それで、がまんできずに自殺する人もいる。会社の都合ではなく、自分の都合を考えてください。そうしないと、本当に死んでしまいますよ。

 

P114

 最近、クマが人を襲う事件が多発しています。山林の手入れを怠ってきたからだという人もいますが、それは部分的な問題ではないでしょうか。

 ・・・

 少なくとも、最近の野生動物が多少イラついていることは、間違いないような気がします。

 例えば、彼らが以前暮らしていたところにも、人工的な音がいろいろ聞こえるようになってきました。

 そうした人間の文明生活が野生動物に与えている影響のほうが大きいのではないかと、僕は思っています。

 カナダでは数年前から、ホッキョクグマが人を襲うようになりました。

 調べてみたら、音が原因だということがわかりました。

 ホッキョクグマの生息する地域は寒いので、そこに滞在する人間は小屋を建てて発電機を使って暖房します。発電機からはブーンという音が出ます。あの音がずっと聞こえているから、クマがイライラするのではないかと言われています。

 

P125

 高田好胤(薬師寺元管主)さんが言っていますが、大事なことは、偏らない心、こだわらない心、とらわれない心、この3つです。

 僕の生き方はその典型でした。僕はゾウムシに偏り、ゾウムシにこだわり、ゾウムシにとらわれて生きてきましたし、今もそうしています。

 だから、偏り、こだわり、とらわれ、がどういうことなのか、自分自身がよく知っているのです。

 そこから、ようやく知足(満たされていることを知ること)というものがわかるようになりました。「足るを知る」というのはそういうことなのです。

 自分でよく知っていなければ、ただの説教です。自分が何に偏り、こだわり、とらわれているかがわかれば、そこから足るを知るとはどういうことか、自ずとわかってくると思います。

 

P189

中川 AIが進化すれば、感情もつくり出せるのではないでしょうか?

養老 僕が今、気になっていることが2つあります。1つは、人によって現実が異なることをどう説明すればよいのかということ。もう1つは、その根本になっているものは何だろうということ。後者は情動、つまり感情だと僕は思っています。

 最近の心理学では、情動は社会的なものだとされていますが、僕が学生の頃は、感情は個人の中にあるものだと習いました。でもそうではなくて、感情とは間主観的な存在で、人と人の間にあるもの、それが結論です。

 ・・・

 ・・・わかりやすく言えば、感情というのは、その場の雰囲気なんです。

 ・・・

 AIで感情がつくり出せると思うのは、ある意味、感情は間主観的ではなく、個人の中にあるという昔の考え方に戻ってしまうわけです。

 

オランウータンに会いたい

オランウータンに会いたい

「なぜヒトだけが『寝かしつけ』をするのか?」が面白かったので、こちらも読んでみました。

 

P10

 オランウータンは「地球上で最大の樹上にくらす動物」、「最も出産の間隔が長くて、死亡する確率の低い哺乳類」、「昼に行動する(昼行性)霊長類で単独でくらすのはオランウータンだけ」などなど、「唯一」、「最○○」といった、ほかの霊長類にはない変わった特徴をいくつももっています。

 

P85

 オランウータンの大人オスには、2つのタイプがあります。この2つは外見も行動もちがいます。

 ひとつは「フランジ・オス」。フランジとよばれる、顔の両側に大きく張りだした部分や、大きなのど袋を持っていて、特有のカビくさいにおいを発します。もう一方は、これらの特徴がなく、一見メスのように見える「アンフランジ・オス」です。

 フランジ・オスはメスの2倍の大きさですが、アンフランジ・オスは、メスと同じくらいの大きさのものもいれば、フランジ・オスと同じくらいの大きさの個体もいます。フランジ・オスは単独で生活し、フランジ・オスどうしが出会うと、ときには相手を殺してしまうほど、激しいケンカをします。野生のフランジ・オスはみんな指や顔をケガしていて、無傷のオスはまずいません。いつも激しいケンカをくり返しているのでしょう。

 一方、アンフランジ・オスは、ほかのアンフランジ・オスや若者といっしょに行動することもあり、ケンカもめったにしませんし、ケガもしていません。フランジ・オスも、アンフランジ・オスに対してケンカを挑むことはほとんどないようですが、アンフランジ・オスたちはフランジ・オスをさけるように行動しています。

 ・・・

 じつは動物園で1頭だけでオスのオランウータンを飼っていると、10歳を過ぎるとすべてのオスがフランジ・オスになります。ということは、遺伝的にはすべてのオスがフランジ・オスになれるはずです。

 しかし動物園でも、何頭かのオスをいっしょに飼育していると、フランジ・オスは1頭だけで、ほかのオスはアンフランジのままで、フランジになれないという現象が見られます。野生でも20年以上、アンフランジのままだったオスが知られています。

 では、何がアンフランジからフランジになるきっかけになるのでしょうか?

 オスがまわりのオスと自分の強さをくらべて、「オレは強い、勝てる!」と思えると、フランジ・オスに「変身」できるようです。アンフランジがフランジ・オスに変身するのにかかる期間は約1年、男性ホルモンや成長ホルモンなどの値が急上昇することはわかっていますが、「何がきっかけで」ホルモンのスイッチが入るのかは、今もよくわかっていません。

 野生下で20年以上アンフランジだったオスは、その地域でいちばん強かったフランジ・オスがほかのオスに負けた後、急にフランジ・オスに「変身」したそうです。動物園でも、飼育係がマッチョな男性から女性に変わったら、アンフランジ・オスがフランジに変わった例があります。・・・

 ただし、アンフランジ・オスからフランジ・オスへ変身できるのは1回だけで、一度フランジ・オスになったら、アンフランジ・オスにはもどれません。決して後もどりできない、一生に一度の選択です。

 メスにモテるけど、命がけのガチンコ勝負をして傷だらけで生きる孤独なフランジ・オスと、メスにモテないけどのんびりくらせるアンフランジ・オス、みなさんはどちらの生き方を選びますか?・・・

 

P98

 ・・・「オランウータンは昼行性霊長類で唯一の単独性」とお話してきました。

 そもそも、なぜ、昼行性霊長類はみんな群れをつくるのでしょう?

 いくつか理由があり、そのひとつは「捕食者(天敵)から身を守るため」です。

 ・・・

 2つ目の理由は「食べ物をめぐる競争に勝つため」。・・・

 ・・・

 ・・・食べ物をめぐる競争の中、1頭だったらライバルたちに追い払われて何も食べることができないかもしれません。でもなかまといっしょに大きな群れをつくれば、ライバルをけちらして、お腹いっぱい食べることができます。それが群れのよいところです。

 ではオランウータンはどうして1頭でくらしていけるのでしょう?

 それは「大きな体で木の上で生活している」からです。

 オランウータンを襲うことができる捕食者といえばトラです。・・・

 ・・・

 スマトラ島では、トラに襲われたと思われるオランウータン(大人オス)の遺体が発見されたこともあり、大きな体で高くジャンプもできるトラは、オランウータンにとっても油断できない天敵のようです。

 地上近くには、このような危険がありますが、木の上にいる大きな動物を襲う捕食者(肉食動物)はほとんどいません。

 ・・・

 オランウータンが現在、単独でくらしている理由が、もうひとつあります。それは、東南アジアの熱帯雨林では、果実が少ない時期がとても長いことと関係しています。大きな体で群れをつくると、群れのメンバー全員がお腹いっぱいになるためには、たくさんの食べ物、とくに栄養豊富な果実が必要です。

 ・・・

 ・・・数年にわたって果実がほとんど実らないこともある東南アジアでは、オランウータンは群れでいることがむずかしくなり、単独で生活するようになったと考えられています。

 

P109

 ・・・野生のオランウータンの社会には「いじめ」はほとんどありません。嫌いな相手には「近寄らない」のが基本。

 好ましいと思う相手に近寄って、相手もOKならいっしょにいられるし、嫌な場合は、相手が逃げていきます。毛づくろいやあいさつのような目立つ行動がなくても、「いっしょにいるということは、たがいを受け入れている」それがオランウータンの社会です。

 そんな一見関係性がうすく、さみしいようで、でもなんとなーくですみそうな、ゆるい社会でくらすオランウータンですが、動物園という閉じられた小さな空間では、また少しちがってきます。

 大人のメスどうしでも相性のよい個体と悪い個体があり、相性の悪い個体どうしをむりにいっしょにすると、強い個体が弱い個体をいじめることがあります。わたしも昔見たことがありますが、弱いメスがひたすらおびえたすがたで、「ゴホッゴホッ」と強いメスに向かって、怒ったときの声を出していました。

 一方で、自分の娘にいじめられていた新入りの(血縁のない)メスをかばった、おばあさんオランウータンもいました。こうした野生では見ることができないすがたを観察していると、オランウータンも目立ちはしませんが、高度な社会性をもっていことを感じることができます。

 

P126

 オランウータンのメスは15歳くらいで最初の子を産みます。その後は、平均7年に1回、1頭の子どもを産み、それから死ぬまで子どもを産み続けます。オランウータンの寿命は60歳くらいです。双子はめったに生まれません。野生下で観察された例は3例のみです。

 ・・・

 ・・・母親はひとりで子どもを育てます。

 おばあちゃんも親戚もママ友もいません。下の子が生まれると上の子は独り立ちするので、オランウータンの子どもはみんな「ひとりっこ」。お母さんの愛情と関心をひとり占めして育ちます。

 ・・・

 出産ももちろん木の上。ネストの中で出産するのがふつうのようです。生まれたばかりのオランウータンの赤ちゃんは体重が1500グラム程度で、みなさんが生まれたときの半分ぐらいの大きさです。生まれてすぐの赤ちゃんは、お母さんの体毛をにぎってつかまりますが、まだつかむ力が弱く、首もすわっていません。

 そのため最初の1ヶ月ほどは、お母さんがいつでも赤ちゃんの体を、手や太腿で支えています。

 お母さんは常に脇腹に赤ちゃんを抱きつかせているので、赤ちゃんはいつでも好きなときに好きなだけ、母乳を飲むことができます。

 ・・・

 ここでみなさんは、ふしぎに思うかもしれません。オランウータンの子育てには、わたしたちにはおなじみのあの人がいませんね?そうお父さんです。オランウータンのお父さんは、子どもとはまったく関わりあいません。遺伝的(生物学的)に父親であるだけです。

 ・・・

 オランウータンの子育ては、子どもの世話から守ることまで、お母さんがすべてをたったひとりで行います。・・・

 

P144

 オランウータンは7年に1回、1頭の子どもしか産まないので、メスが一生に産む子どもの数は6頭ほどです。・・・こんなに少ししか子どもを産まないで、どうしてオランウータンは今まで生き残ってこられたのでしょうか?

 最近、オランウータンの赤ちゃんはほとんど死なずに大人になる(メスの15歳までの生存率は94%)ということがわかってきました。野生動物としては驚異的に高い生存率です。これより高い生存率は、現代の先進国のヒトだけです。・・・

 最先端の医療も、清潔な家もないのに、オランウータンはどうしてこんなに高い生存率をほこっているのでしょうか?その秘密は「大きな体で、樹上で、単独で生活」するというライフスタイルにあります。

 地上近くでくらす多くの動物は、地上を歩いているときに、ヒョウやライオンなどの肉食動物に襲われる危険といつでもとなりあわせです。体が小さいと樹上にいてもワシやタカなどの猛禽類やヘビに襲われることがあります。でもオランウータンは大きな体で高い木の上で生活しているので、こうした捕食者に襲われることはほとんどありません。

 ・・・

 さらに樹上は、地上にくらべて細菌などの病原菌が少ないと言われています。・・・オランウータンは単独性なので、1頭が何か病気にかかっても、ほかの個体にうつることがほとんどありません。

 ・・・

 オランウータンは、早く子どもを独り立ちさせて、次々と子を産むよりも、1人ひとりの子に長い時間をかけて手厚く子育てすることで、子どもたちの生存を確かなものにし、より確実に子孫を残すという子育てを何百万年もしてきました。

「よく見る人」と「よく聴く人」 共生のためのコミュニケーション手法

「よく見る人」と「よく聴く人」 共生のためのコミュニケーション手法 (岩波ジュニア新書 975)

 目の見えない広瀬さんと耳の聴こえない相良さんが、広い意味でコミュニケーションを考察しようとされた本。

 なんとなく既視感がありつつも、興味深く読んでいたら、2年前に一度読んでいました(;^_^A

 

P30

 ろう学校の教員になる、という目標がなくなり、何をしたいのかもよくわからなくなってしまった中でも、「人と関わる仕事がしたい」という気持ちだけは、消えてなくなりませんでした。

 ・・・

 そうしているうちに、手話ができるJTBグループ会社の社長とお会いする機会に恵まれました。社長は、ご自身の話されることを全て手話で伝えてくださり、当時出会った企業関係者の中でも最も印象に残った方です。そして、「JTBグループ会社には、聴覚障害をもつ社員がたくさんいるけれども、離職率が高く、悩みを抱えている社員も多くいる。その理由を探りつつ、聴覚障害をもつ社員の精神的なサポートが必要とされている」というお話を伺いました。

 当時の私は、具体的にはわからないけれども社長とのやり取りの中で、「この会社を通して、人と関わる仕事ができるかもしれない。教員を目指していたけれども、一度企業で経験を積むことも良いのではないか」という気持ちが膨らみ、JTBの筆記試験と面接を受け、採用に至りました。・・・

 ・・・

 ・・・入社した年の秋頃、母校の技短から、米国研修旅行に同行してほしいという思いがけない依頼が届きました。この依頼が、旅行会社での私の位置づけを大きく変えるきっかけとなっていったのです。

 私に依頼をしてくださった一番の理由は、私にアメリカ留学の経験がありアメリカ手話(ASL)ができるからで、日本人学生とアメリカ人学生の間のコミュニケーションサポートをお願いしたいということでした。・・・幸い、職場の理解もあって、通常の仕事とは別に、特別に許可していただけることになり、初めてサブ添乗の仕事を行うことになります。・・・

 ・・・

 ・・・初めてのサブ添乗の仕事は、想像以上に様々なことがありましたが、誰ひとりケガもなく、無事に帰国でき、本当にほっとしました。そして、この種の海外視察交流ツアーの添乗が翌年も、そのまた翌年も続くことになります。

 ・・・

 毎年3月に私が添乗する聴覚障害学生さんの北欧視察ツアーは、10年以上も続くことになりますが、その中で、フィンランドに本部のある世界ろう連盟(WFD)を訪問する機会が増え、WFD事務局ではスタッフが不足しているという話を何度も聞くようになります。

 私は、どうしてもWFDのことが気になり、自分にも何かできることがあるのではないかと考え始めました。そして、社内のボランティア休職制度を使って、ヘルシンキに位置するWFDで、半年間のボランティアを希望しました。休職中は、お給料は止まりますが、何よりも「新しい経験」をしたい気持ちが強く、休職することに迷いはなかったです。

 この経験を通して世界中の様々な人と出会い、ASLだけでなく、国際手話も身に付けるきっかけとなります。そして、海外で仕事をすることにますます興味が湧き、WFDでのボランティア経験が、次の進路へと繋がっていくのです。

 

P42

 今、もしも「普通」とは何ですかと尋ねられたら、僕は明確に答えることができません。「普通」の意味を問い直すきっかけを与えてくれたのが盲学校での生活です。小学校時代、同級生たちと同じように行動できないことに僕はプレッシャー、違和感を抱いていました。「目が見えにくい自分は普通ではない」という思いが、ある種の劣等感を惹起したのは確かでしょう。

 しかし、盲学校では目が見えないこと、点字を用いることが「普通」なのです。どこにいるかによって、どんな集団に属するのかによって、「普通」の意味は変わってくる。そもそも、「普通」なんて存在しないんだ。僕が異文化を調査対象とする文化人類学の研究者となった遠因は、おそらく盲学校で経験したカルチャーショックにあるのではないかと思います。マイノリティ(特殊)の立場から、マジョリティ(普通)にインパクトを与える。こんな僕のライフワークの出発点は盲学校にあるといえるでしょう。

 

P126

 人間と言語は深く密接な関係にあります。私は、人生の途中で聴力を失い、それまで行っていた音声でのコミュニケーションができなくなったことで、ひどく落ち込んだ時期がありました。・・・しかし、その後思いがけない展開が繰り広げられていき、手話言語学の仕事を行い、今では、全国そして世界の人たちと繋がるようになりました。

 聞こえなくなってできなくなったこと以上に、聞こえなくなって得られたもののほうが大きいと思えます。もっと言えば、聞こえなくならなければできなかったことがたくさんあります。・・・言語調査に行くことを考えてみても、耳が聞こえていたままだったら、自分が自由に使える共通言語がない場所に、一人で1か月以上も滞在できたでしょうか。話が通じないことが恐くて、おびえている自分が頭に浮かびます。

 聞こえなくなってから、音声言語以外での様々なコミュニケーション経験を通して、工夫をすれば、少しでも手話経験がある人となら誰とでもコミュニケーションが取れる、と自信がついたような気がしています。そして今では、行きたいと思った国、地域に、どこにでも一人で行けてしまうような不思議な自信があります。

 これまで培ってきた手話でのコミュニケーションを応用して、視線、ちょっとしたしぐさ、表情、ジェスチャー、相手が発したことを真似してみる。そんなやり取りを通して、通じなかったことが通じるようになるそのコミュニケーションの過程が、とても楽しいです。

 

P137

 以前、僕は拙著のタイトルで「5-1=6」を提案したことがあります。この書名は、「読み方が曖昧で、読者が混乱する」という編集者の意見でボツとなりました。不思議な数式は、「五感のうち一つを使わないことにより、人間は新しい価値観・世界観に出合う」と僕の信念を表現したものです。「6」の背後には僕自身の実体験、そして盲人芸能者たちの「行き方=生き方」があります。琵琶法師・瞽女・イタコは目が見えない弱者だから保護されてきたわけではありません。豊かな震動(音・声)で「目に見えない世界」の大切さを示す職能者として、彼らは尊重されてきたのです。

 ・・・

 ・・・僕たちが白杖を片手に一人で道を歩く際、音・におい・風、さらには足裏で感じる路面の微妙な変化など、全身の触角(センサー)を総動員して情報をとらえます。身体の各所に分布する感覚器は、白杖と同じ触角です。触角で得た情報をつなぎ合わせて、僕たちは「見えない道」を進んでいきます。・・・僕たちは一歩ずつ足を踏み出すことによって道を作っているともいえるでしょう。・・・

 目の見えるみなさんが道を歩く時、視覚以外の感覚をどれくらい使っていますか。目で簡単に道の安全を確認できるので、音・におい・風などを無意識のうちに無視している。聞こえるはずなのに、聴いていない。そういったことが意外に多いのではないでしょうか。「晴眼者=五感」「全盲者=四感」というのは浅薄な思い込み(多数派の錯覚)であり、じつは両者は「使っている感覚の割合が異なるだけ」なのです。

「ありがとう」を世界の言葉で! 多国籍老人ホーム

多国籍老人ホーム

 日本語を勉強して介護士の資格を取って、こんな風にがんばってくれている方々がいるのだなと、ありがたく思いました。

 

P18

 ある日のお昼休み、チャンは大きなタッパーに、山盛りのヒマワリの種を入れて持ってきた。それを手際よく割って、中から白い実を取り出し、片手いっぱいになったところで、

「はい、どうゾ」

 と、私の手にサラサラと実を乗せた。

(これはハムスターが食べるエサだ)

 内心、私はそう思った。けれど、チャンやほかのベトナムの子たちは、笑いながらどんどん口に入れていた。

「オイシイから、食べてみてくだサイ」

 笑顔で言われ、私はそれを口に運んだ。

 とくにおいしいわけではなかった。けれど、私がそれを食べたからか、チャンはうれしそうに別のタッパーを取り出した。

「コレ、食べたことありますか?」

 彼女がそう言ってタッパーを開けると、中にはテカテカに煮込まれたニワトリの足が入っていた。私はたぶん、困った顔をして、無言でそれを凝視していたのだと思う。その反応を見て、チャンやまわりのベトナム人職員たちは大笑いした。

「オイシイのに、日本人はみんなイヤがります。よかったら、食べてみます?」

 せっかくすすめられたので、私は1本手に取った。日本にもそれを食べる地域があることは知っていたけれど、実際に見るのも食べるのも初めてだった。

 甘辛い味つけで、ほんのりニョクマム(ベトナムの魚醤)の香りがした。

「おいしいね」

 私がそう言うと、彼女たちは手を叩いて喜んだ。それを機に、彼女たちはろいろなベトナム料理を「食べて」と持ってくるようになった。

 中でも私は、ベトナムのフルーツポンチのようなスイーツにはまった。それがあると、いつもよりたくさん食べていた。

 ある日の昼休み、私が休憩室に行くと、彼女たちが、

「お誕生日、おめでとう!」

 とかけ寄ってきて、大きなタッパーいっぱいのフルーツをくれた。

 フルーツは全部ていねいに剥いてあって、私が今まで「おいしい」と言ったものばかりが詰まっていた。彼女たちは私の好みを覚えていて、それをいっぱい詰めてくれていたのだ。

 それが不意打ちだったからか、私はうれしくて泣いた。彼女たちはそんな私を見て、笑いながら何度も抱きしめてくれた。

 日本ではちょっと味わえないお誕生日だなと思った。そして、心が喜ぶというのはこういう感じなのだと、改めて思い出したような気がした。

 

P34

 ・・・デニスの役割は、施設のホワイトボードに献立を書くことだった。朝、昼、夕食に加えて、おやつまである献立表を見ながら、漢字とひらがな、カタカナを使って書く大変な役割だ。

 日本語は、ほかの言語と比べて覚える文字数がとても多い。・・・

 こんな大変な言語を覚えてまでやる仕事がこれか、と思ったりしないのだろうか。私はいつも、日本に来たばかりの外国人職員のことが心配だった。日本人がどんどん辞めてしまう職場なのに。彼らだって、思うことは同じなはずだ。

 まだ若いデニスは、毎日何を思っているのだろう。私は勝手に心配していた。

 そんな私の心配をよそに、デニスはどんどん入居者さんと仲良くなり、いろいろな漢字を教えてもらうようになっていた。

 ある日、ホワイトボードに「蓮根の挟み揚げ」「鰈の煮つけ」「豆腐の味噌汁」と、漢字できれいに書いてあった。

 私はそれを横目に見ながら、

「私、味噌汁って漢字で書けるかしら……」

 と思わずひとり言を言った。・・・

 ・・・少し離れたところで楽しそうに入居者さんと話していたデニスと目が合った。

「もしかして、デニスが書いたの?」

 私はホワイトボードを指さして聞いた。

「そうですヨ」

 得意げに言うデニスの横で、

「俺が教えてるから、うまくなったやろ」

 と、本人より得意げに言う男性入居者の中川さん。ふたりは驚く私を見て、大笑いした。

「ここでイッパイ勉強したから、タッチパネルがない店に行っても、料理の名前、わかりますヨ」

 デニスは得意げに言った。

 デニスは入居者さんと話す中で、お世辞や敬語も使いこなし、謙遜までするようになっていった。

「いい青年だなあ」

 中川さんは、デニスをいつもほめていた。

 家族のために日本に来たデニスは、介護の仕事にも一生懸命だった。決してよい給料ではないのに、

「ネパールより、ずっといいヨ」

 と笑う。だから中川さんは、デニスを毎日ほめていた。

 私は、入居者さんがもっと外国人職員をイヤがるかもしれないと思っていた。でも実際には、イヤがる人はご家族を含めてほとんどいなかった。むしろ、偉そうな日本人職員のほうがイヤがられていた。

 ・・・

 中川さんはデニスに、

「努力が報われるといいなぁ。まだ若いし、日本語を覚えてお金が貯まったら、本当にやりたいことをしたらいいんだよ」

 と伝えていた。

「そんなこと言ったら、辞めちゃうじゃないですか」

 ほかの職員がそう言って止めても、中川さんはデニスに言うのをやめなかった。

 中川さんは、デニスから本当にしたいことを聞いていたのだ。

 でも、それを誰にも言わずに、ただ応援していた。・・・

 

P118

 日本人でも、きつい言い方をする人や、大声で雑な指示をする人は敬遠される。仕事をする場で自分の感情をコントロールできない人は、誰かに指示を出す前に、自分の感情をコントロールする訓練をするべきだと、私は常々思っている。

 しかし、人材不足の介護現場では、「日本人だから」という理由だけで、そうした人物にも役職を就けざるをえないことが増えていた。

 ある日、私がコピーをとるために事務所へ行くと、部屋の隅でミョーさんがしゃがみこんでいた。

「どうしたの?」

 体調が悪いのかと思って駆け寄ると、ミョーさんは泣いていた。

「みんなの前で、ものすごく怒られたヨ。私は、あんなにヒドイことをされたのは初めて」

 ショックで泣いていたのだ。誰がやったのか、私はなんとなく想像がついた。けれど、泣くほどショックを受けるなんて、どんな怒られ方をしたのだろうと心配になった。

 施設長に連絡をして、一緒に話を聞くと、ミョーさんは人前で注意されたことに大きなショックを受けているのだとわかった。

 ミャンマーでは、人前で注意されることをとても失礼だと感じる人が多いのだと、そのとき初めて知った。日本人にはよくあることでも、外国人にとってはそうではないことが、きっとたくさんあるのだろう。

 今回のことで、私たち受け入れ側がそうした習慣を知ろうともせず、〝郷に入れば郷に従え〟だけでかかわることには、少し無理があるのだと思った。

 それから私たちは外国人職員に限らず、すべての職員に対して、些細なことでも注意や指導を行うときは別室で行うことにした。その代わり、ほめるときは人前で、

「みんなも真似してくださいね」

 と、大げさなくらいにほめるかかわり方へ変えることにした。

 ただ、それが職場に浸透するまでには、長い時間がかかった。

 ・・・

 それでも時間をかけて続けていくうちに、それは職場環境の改善という、思いがけない効果を発揮した。

 大声で怒鳴り散らすような感情的な職員のほうが、指導を受ける機会が増えたからだ。そうした行為が減ると、日本人職員の退職も減っていった。

 

P173

 介護業界は、ここ数年で急激な多文化共生の時代を迎えた。・・・彼らと働く中で私がもっとも驚いたのは、意外にも文化や価値観の違いそのものではなかった。

 私がいちばん驚いたのは、「みんなに嫌われる人」は世界共通だった、ということだ。

 心ない言葉をわざわざ言う人。大声で威圧する人。すぐに感情的になる人。決めつけて相手の話を聞かない人。他人のものを盗む人。すぐに嘘をつく人。自分の考えを押しつける人。無責任な人。他人をコントロールしようとする人。

 こういう人は、世界のどこに行っても、まともな人からは敬遠される。

 育った国が違うことを理由に嫌いになるわけではない。人となりが悪ければ、どこの国でも嫌われるのだ。そう気づいてから、私は「外国人だから」という考え方を捨てた。もし、トラブルの原因が価値観の違いや文化の違いであるなら、お互いを理解するまでに時間はかかっても、きっとわかり合えるときが来ると思う。

 しかし、感情的な人や威圧的な人は、それを注意されたとしても、吐き出す場所を変えるだけで、根本的に自分を変えようとはしない。

「日本人だから良い人とは限らない」―たくさんの外国人職員からそうした言葉を聞いて、私は日本人を見る目が変わった。良い人そうに見えても、外国人職員に対してだけ態度を豹変させる人もいたからだ。

 ・・・

 世間では、介護の現場に日本人職員が増えてほしいと言われることがある。けれど、現場が本当にほしいのは、国籍ではなく〝人間性の良い人〟だ。

世界へ飛び出た100人の日本人

【電子特別カラー版】世界へ飛び出た100人の日本人(集英社インターナショナル)

 魅力的な方ばかり、興味深いエピソードいっぱいでした。

 

P25

―・・・ノルウェーで「すごい!」と思ったことは?

 同調圧力が全然ないですね。周りの目を気にしなくてもいい。日本は「世間体」重視ですが、ノルウェー語では「世間体」を意味する言葉すら、パッとは思い当たらないですね。

 ・・・

―そのほか、ノルウェー生活で驚いたこととかありますか?

 子ども向けの吹奏楽のレッスンが終わったときに、「私、この子の母親です」って一人の女性がAという子を迎えに来たんですね。そして、その後すぐに別の女性が来て、「Aの母親ですけど、子どもを迎えに来ました」って言われて、え⁉やばい!さっきの母親は別人で、Aは誘拐されたのかも!って、パニックになって……。そしたら、その二人目のお母さんが「私セカンドママなんで、心配しないで」って。

―なるほど。二人は同性パートナーで、両方母親だったと。

 そうなんです。ノルウェーでは同性婚が実現していて、子どもも持てます。それが普通で、私もある程度認識はしていたんですけど、いざこういうことが起きると驚きますよね。

 

P30

―スウェーデンの教育現場の雰囲気はどうですか?

 主体的に考えて行動する学生が多い気がしますね。先ほど話した平等意識にもつながるんですが、基本的に先生と学生の関係はフラット。・・・

―そういった傾向はビジネスシーンでも同様ですか?

 はい。私の勤務する大学のトップは学長ですが、「学長」と呼んだことはなく、基本的にはファーストネームで呼んでいます。そこに役割の違いはあれど、上下関係はありません。スウェーデンの平等主義は男女、年齢、社会的な階層に左右されない。日本のように上下関係が強い国から来ると、慣れるまでは戸惑いがあると思いますが、私はこちらの方が合いますね。

―上下関係が強い社会にはなにか弊害があると思いますか?

 困っている人の声が届きづらいのではないかと思います。権威がある人の発言力は強くなり、そうでない人は弱くなりますよね。スウェーデンでは発言する人の立場と意見の内容を区別して考えることが多いので、立場によってなにかを言いづらいということは少ないと感じます。

―逆に、権力を振るいたい人には都合が悪いわけですね。

 スウェーデンのよいところは、権力を持つ人ほどオープンな姿勢でいることが多い点です。これは政治家もそう。分け隔てなく人の話を聞けるような人でなければ、そもそも評価されず、組織をまとめる立場には当然つけないのです。

 

P32

―・・・移住を決意した理由はなんですか?

 年齢に関係なく、建築の設計に集中できる環境が大きな理由ですね。当時の日本の建築事務所は徒弟制度のような文化が残っていて、上下関係を気にしながら仕事をしなければならなかった。いわゆる下積みですね。私なんかはいちばんの下っ端でしたから、ひたすら設計図の窓枠を描かされたり、お茶汲みをすることもありました。一方、フィンランドでは建築家は設計以外の仕事はしなくていいんです。20代でも自由に設計の仕事に集中することができる。先輩/後輩という上下関係も存在せず、所長をファーストネームで呼び止めて設計上の意見を聞いたりできる。そんな環境に居心地のよさを覚えていくうちに、だんだん日本に帰ることが億劫になっていきました。・・・

―フィンランドで働いて、驚いたことはありますか?

 当時から女性の建築家が多いことには驚いていました。フィンランドでは性別で職業が制限されることはないので、女性がさまざまな業種で活躍しています。・・・

 2019年にフィンランドで30代の若い女性が首相になり、世界でも話題になりましたが、彼女は就任挨拶で「この国の教育制度がなければ私は首相にはなれなかった」と話していました。フィンランドでは教育機関の学費がすべて無料なので、生まれた環境や年齢、性別に関係なく夢を追えるんです。

―大人の学び直しも、よくあるのでしょうか?

 それは当たり前ですね。たとえば、私の妻の妹は子どものときから看護師になりたいと思っていたそうですが、違う仕事をしているうちに、結婚して、子どももできました。でも、40代になり、子どもたちも手がかからなくなったタイミングで、看護学校に入ったんです。彼女はいまでは看護師として働いています。もちろんこのケースでも看護学校の授業料は無料です。

 ・・・

―お話を聞いていると、フィンランドに憧れない人はいないように思うのですが……?

 でも、「どんどん成り上がって人の上に立ちたい」みたいな人には合わないと思います。フィンランドは相対的な勝ち組、負け組が生まれづらい社会になっていますから。お医者さんと工場勤務の方の給与も、多少の差はあれど、日本に比べれば誤差のレベルです。むしろお金を稼げば稼ぐほど累進課税で税金をたくさん納めることになりますから、「勝ち組」になりたい人はこの国では厳しいと思います。この社会をポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるかは人それぞれですね。

 

P50

―海外移住に心理的なハードルはありませんでしたか?

 むしろチェコの方が心地よく生きられると感じましたね。

 もともと私は引っ込み思案で、人の目を気にする性格。違和感があっても自分の意見を言えず、同調圧力の強い日本社会に浸っていたんですが、チェコに来て少し変わったというか。

 今でも覚えているのが、チェコの友人とごはんを食べたとき。「私もそれにする」って友人と同じメニューを選んだら、「いま、周りに合わせたでしょ」ってその友人に言われたんです。

―うわ、それはびっくりしますね。

 はい。指摘すること自体にも驚いたんですが、それ以上に自分が無意識に人に合わせていたこと、それに自分で気づいていなかったことがショックでした。些細な出来事ですけど、それがいまでも心に残っています。こんな感じで「自分の意見を持っていい、自分の選択で生きていい、自分自身を肯定してもいい」というマインドセットにしてくれたのがチェコなんです。

 チェコでの生活は、こういう大切なことすべて教えてくれたような感覚があるんです。複数の国と国境を接しているので、いろんなルーツを持つ人がたくさんいます。外見もバックグラウンドも多様だからこそ、日本のような「普通」があまり存在しない。

 ・・・

―仕事面で文化の違いを感じることはありますか?

 残業で怒られたのには驚きました。働きはじめて半年間で合計40時間くらい残業したんですが、日本ではそんなに多くない方なのに大問題になって、上司から直接指導を受けました。

―なんで怒られるんですか?

「あなたには健康に働いてほしいから、このまま体調崩したら大変だし、仕事を嫌いになってほしくない」って言われました。でも日本人の感覚だと、今日中にやらないといけない仕事があったら、帰れないですよね。それを上司に言ったら「それでも帰らないといけないんだよ」って言われました(笑)。

 あと、「土日に仕事のメールが来たら、返信しないといけないじゃないですか」とも言ったら、「それは返信するあなたが悪い」と。・・・

「仕事が生活を脅かしてはいけない」という意識をとても強く感じますね。・・・

 

P117

―カーボヴェルデとはどんな国なんでしょうか?

 アフリカ大陸の西にある小さな島国です。・・・

―そんなカーボヴェルデに移住した経緯とは?

 私はもともと・・・ダンス講師、ダンサーとして活動していました。でもそこにコロナ禍が到来して・・・この状況下でも前々からの夢に向かっていく自分の背中を見せたい、と思うようになりました。

 そこで、「HIPHOPダンスで世界タイトル獲得を目指す」とみんなに宣言して、HIPHOP文化の根底にあるものを理解しようと、黒人国家が多いアフリカへの移住を決めました。

 カーボヴェルデを移住先に決めたのは、好奇心ですね、情報が少ない国に冒険しに行ってみたいという気持ちが大きかった。あと、カーボヴェルデでは米が主食で、マグロの名産地だと知ったんです。私、好物が白米とマグロで(笑)。この二つさえあれば生きていけるなと。もしうまくいかなくても、モロッコやセネガルといった別候補もあるし、日本に帰ってもいい。とりあえず行ってみることにしたんです。

 

P136

―・・・住みたいと思わせるモーリシャスの魅力とは?

 まず、治安がよく、生活インフラも整っていること。あと、あまり知られていないですが、モーリシャスは日本とほぼ同じ野菜が手に入るので食生活にも困らないんです。しかも、いろんなルーツの人が住んでいるので、いろんな国の料理も食べられる。そして自然も豊か。文句なしです。・・・

 ・・・

―どんなときに「人種のるつぼ」を実感しますか?

 ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教、そして仏教。それぞれの宗教行事が、それぞれの信者内で完結せず、すべて「国民の祝日」になっていることですね。普通、一つの国に複数の民族が集まると、学校や会社で「○○の人たちは宗教行事で休みです」といったことが起きますが、この国ではそれがない。キリスト教徒もそれ以外の人も、クリスマスはみんなで休むんです。互いの文化をリスペクトして、共有し合うのが、この国が平和であり続ける秘訣なんじゃないかなと思います。

 

P151

 農業をはじめたきっかけは二つあります。一つは、コロナ禍の21年に「食料が手に入りづらくなっている」という話を聞いたこと。二つ目は、その直後にロシアのウクライナ侵攻による影響で、ウガンダでも物価が高騰し、お金があっても食料が手に入らない状況になったこと。こうしたことが重なって、できるだけお金を使わずに暮らせる生活をつくる必要があると感じ、自給自足を目指して農業をはじめてみました。

 ・・・

 農業は手間も時間もかかるのですが、いざやってみるとおもしろいんです。こちらでは、種を植えたら水も農薬も与えず放置します。はじめに畑を耕すのは大変ですが、あとは勝手に育つので、自然のたくましさに毎回驚かされています。

 あと、「なにが起きても大丈夫かも」という気持ちが芽生えてきました。農業は土地と種さえあればできるので、「今後なにか困ったことが起きたとしても、自分達で食料をつくりだして生きていける」という安心感があります。本当の豊かさとは、お金があって裕福なことではなく、たとえゼロからでも自分たちで手間をかけてなにかを生み出せることだと気づきました。夫と「農業は錬金術だね」って話してます(笑)。

 

P170

―世界一周中にアルメニアを訪れたのでしょうか?

 はい。初訪問は2000年でした。・・・

 ・・・

 ・・・首都のエレバンに行き、当時アルメニアで唯一日本語学科があった大学を訪れました。そこの学生たちは日本に行ったこともないし、行ける見込みもないけど、日本語が好きだったんです。・・・当時のアルメニアは貧しい人が多く、ネットもいまほど普及しておらず日本の情報も乏しかったのに、彼らの目はキラキラしていて。自分の悩みがちっぽけに感じました。

 ・・・

―・・・アルメニアに、なぜ移住することに?

 世界一周中の03~06年にコロンビアで3年間日本語教師をして、その仕事にやりがいを感じたんです。その後、日本で資格を取得して、1年間フィリピンでも教えましたが、やはりアルメニアで教えたいと思い、09年にアルメニアに渡りました。・・・ 

 ・・・

―現在はどんなお仕事を?

 いまはIT系の翻訳の仕事をしています。他にも日本企業の社長秘書、日本語教師や観光ガイドなど、いろいろな仕事を組み合わせていますが、不思議と向こうから声をかけてもらうことが多いです。私は「自分から動かない」と決めていて(笑)。

―「自分から動かない」!

 いくら社会が発展しても、漠然とした不安に対して「なんとかしよう」と思うから、人生はしんどくなり、自由に生きられない。「なんとかする」のではなく、「なんとかなる」と愚直に信じて自分らしく生きていれば、結果的になんとかなったりします。・・・

 

P204

―ラオスの男性の優しさはかなりの驚きでしたよね?

 はい。会えばひと言目に「今日もきれいだね」って自然に褒めてくれて、道端で会っただけでも花束やお菓子をくれる人もいます。でも、突然告白して関係を迫ってくるわけでもない。

―それは外国人だから、ということでもないんですか?

 ラオス人同士でも同じです。この背景には母系社会があると思います。ラオスでは結婚後に夫が妻の家に入り、家や財産を女性側が継ぐことも多いです。だから、女性が気分をよくしている方が家庭も仕事もうまく回るとみんな体感で知っているんでしょうね。ラオスはとくに働く女性におすすめですよ(笑)。

―ほかには、どんな人にラオスをすすめたいですか?

「こうじゃないとダメ」に押しつぶされそうな人ですね。働かないとダメ、学校に行かないとダメ、生産性がないとダメみたいな「べき論」に疲れを感じている人。ラオスでは、働いてもいいし、働かなくてもいい。失恋して寺に1週間こもる人もいれば、いきなり屋台をはじめる人もいます。もちろん全員に合うとは思いませんが、数週間でもラオスに身を置くと、肩の力がふっと抜けて、「別の選択肢がある」と体感すると思います。

 

P262

―ラロトンガ島の生活で驚いたことはありますか?

 住所がないことですね。島と村の名前はあるんですが、日本の番地のようなものが存在しないんですよ。なので、郵便物も最寄りの私書箱か郵便局に取りに行くしかないんです。

―なるほど……誰かを家に呼ぶときはどうするんですか?

 ただただ困ります(笑)。うちの近所には目印になるものがないので、なんとなく近くまで来てもらって、あとは電話で誘導するか迎えにいくしかないですね。

 ・・・

 日本の書類に住所を書かなければならないときは困りますね。あと、クック諸島では電話番号が5桁なので、WEB上で記入するときは「番号が短過ぎます」とかエラーが出て、詰むことがあります(笑)。

―ラロトンガ島の魅力はなんでしょうか?

 簡単に言うと、「人が優しく、気候がよく、景色がきれい」ですね。・・・日本と同じくらい、ゴミがほとんど落ちていません。島の人はみんなきれい好きで、家の周りや街がとても片づいています。そして、景色や街と同じくらい人々の心もきれいな気がします。・・・

 

P283

 ・・・ある日、ダイビングでジンベエザメを見に行ったとき、テンションが上がり過ぎて私がサメに触ってしまったんです。でも、サメに触れるのは罰金や禁錮刑の対象でした。そこで、監視員に対して、ガイド役だった友人の男性が「説明不足は自分の責任」とかばってくれたんです。彼とはそれをきっかけに交際するようになり、結果的に婚約。それもあってベリーズに残ることにしたんです。

 ・・・

―ベリーズでの生活をとおして、麻子さん自身の価値観になにか変化はありましたか?

 かなり変わりましたね。最初の10年間で「大事なものの優先順位」が変わった気がします。日本にいたころは「仕事→自分→家族」の順に優先していましたが、自然にベリーズの人々と同じく「家族→自分→仕事」になっていきました。日本で働いていたころには空虚感を感じていましたが、20年経ったいまでは、朝起きたときにきれいな鳥の声を聞いたりだとか、身の回りの植物の些細な変化に気づくだけで幸せを感じるようになりましたね。

―では、ベリーズ生活で衝撃を受けたことは?

 いちばんショックが大きかったのは、いわれのない罪で指名手配されて、刑務所に入れられたことですね(笑)。

―え!一体なにが起きたんですか?

 ベリーズでは、一度結婚したら浮気されようが暴力をふるわれようが、基本的には合意離婚ができません。キリスト教の教えに基づいて、関係を修復するよう促されるだけなんです。

 結婚して10年近く経ったころ、夫と経営方針などで衝突することが多くなったので、「限界だな」と思い、子どもを連れて「家を出るね」と告げたんです。そしたら、夫に言いがかりをつけられて、刑務所に入れられてしまいました。ベリーズでは賄賂などで警察に話を通したりすることもできるので、突然指名手配されて、捕まって、刑務所へ。日本大使館の協力もあって、数日後に出られましたが、あれは驚きましたね。

―大変でしたね……。ベリーズの刑務所内で記憶に残っていることはありますか?

 ある日、隣の独房から差し入れで黒茶色の飲み物を渡されました。「なんだこれ」と思いながら恐る恐る飲んでみたらカカオで、不思議とすごく救われた気持ちになりましたね(笑)。