ゆっくり、いそげ カフェからはじまる人を手段化しない経済

ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~

 健全って、こういうことかな?と思いつつ読みました。

 

P54

 人はいい「贈り物」を受け取ったとき、「ああ、いいものを受け取っちゃったな。もらったもの以上のもので、なんとかお返ししたいな」と考える人格をも秘めている(と思う)。

 これは、前に述べた「消費者的な人格」とは真逆の働きをする。自分が手に入れるものより、支払うものの方が大きくなるわけだからだ。これを「受贈者(贈り物を受け取った人)的な人格」と呼ぼう。

 面白いのは、世に「消費者的な人」と「受贈者的な人」とがいるわけではないということだ。事はそれほど単純ではなく、きっとあらゆる人の中に両方の人格が存在し、時と状況によってそれぞれが発現するのだ。

 だから、問題になるのはお店がお客さんの中に眠るどちらの人格のスイッチを押すかということ。

 ・・・

「ああ、いいものを受け取っちゃったな」と感じてもらえたなら、レジで一〇〇〇円を支払うとき、「ああ、一〇〇〇円なんて価値じゃないな。もっと支払ってもいいのにな」とすら感じてもらえるかもしれない。

 となれば、そのお客さんはまたお店に来てくれるかもしれないし、まわりに「いいお店があってね」と紹介してくれるかもしれない。

 もしくはお店に返ってこなかったとしても、その「受け取った」ことによる「健全な負債感」は、その人をして帰り道に路上のゴミをも拾わせるかもしれないし、電車ではおばあさんに席を譲る気持ちにさせるかもしれない。

 つまり、「いいものを受け取る」ことは、その人を次の「贈り主」にすることなのだ。

 

P107

 二〇一一年夏、一通の手紙を受け取った。差出人の名前は長原祐子さん。

 聞けば長原さんは国立音楽大学のご出身で、後輩たちの演奏の機会にと西国分寺の駅から少し歩いたところにあるご自宅を開放され、丁寧に小さなクラシックコンサートを積み重ねてこられているという。

 とても美しい文字で、四ページにもわたってしたためられたその手紙には、彼女の音楽の持つ力への思いと、小さな演奏会をクルミドコーヒーで開きたいとのメッセージが添えられていた。

 それまでにも何度もお店を訪ねてくださっていた長原さん。「自分たちのコンサートのためにお店を使わせてくれ」という提案とは少し違い、文章のはしばしにはぼくらが大事にしようとしていることへの理解があり、「音楽があることで、クルミドコーヒーが、西国分寺での日々が、いかに素晴らしくなるか」といった、一緒に未来を思い描くような記述があふれていた。

 ・・・

 長原さんの手紙は、自らの目的のためにぼくらのお店を「利用」しようとするものとは少し違い、ぼくらのお店を、ぼくらがお店を通じて実現しようとしていることを「支援」してくれようとするものだった。

 だからぼくらも、長原さんを、長原さんの思いを「支援」したいと思った。

 

P113

 自分が目の前の相手に、どう力になれるか。

「支援する」姿勢は一面において利他的な行為であることは事実である。ただそれは、「自分の利益を犠牲にする」ことと必ずしもイコールではない。「支援する」姿勢は、相手の「支援する」姿勢をも引き出すことで、多くの場合自身に返ってくる。昔からの知恵にならって言えば「情けは人のためならず」。

「支援する」ことは「支援されること」なのだ。実際に今、クルミドコーヒーは、音の葉コンサートやクルミド出版に、多く助けられている。

 ・・・

 明治期に〝society〟という言葉が入ってきた当時、これにどういう日本語訳を当てるかが議論になったという。結果的には「社会」という語が普及・定着し、今もぼくらはこの言葉を使っている。ただ個人的にはこの訳語は、「どこか自分とは遠く離れたところにある大きな何か」を指すニュアンスがあるように感じ、あまり好きになれない。「社会」に自分が含まれている感じがしないのだ。

 そして実はかつて、〝society〟に当てる訳語としてもう一つ「人際交流」という候補があったという。なるほど、と思う。つまり「私とあなたの関わり」の集合体とでもいたところか。

 

P162

 クルミドコーヒーの評価として、ときに「一人ひとりがいきいきと働いている」「お店で働く一人ひとりの顔が見える」というように言っていただけることがある。

 それは本当にうれしくありがたいことで、実際この間、お店が安定的な成長を遂げてくることができたのはきっと経営戦略がすぐれていたからだとか、革新的な商品を扱っていたからとか、そういうことではなく、ひとえにメンバー全員の現場でのがんばりのおかげだと言うべきだろう。

 世の働き方の選択肢は、ともすると「お金にはなるけれど、やりたいことではない(自分の主体性は発揮できない)」と、「やりたいことだけれど(自分の主体性は発揮できるけれど)、お金にはならない」の究極の二択に見えてしまいがちだ。

 でも、働き方にも、それらの間の選択肢があってもいい。

「自分の主体性が発揮でき、大変だけれどよろこびがあって、経済的にも持続可能(かつ成長可能)」。

 それを実現するカギが、組織の内部・外部両面にわたって、交換の原則をテイクからギブへと切り替えることにある。

 

P233

 先の成果と利益の数式に戻ろう。

 もう一つの提案は、分子を目的にするのではなく、分母を目的にすること。

 多くのビジネスにおいては、利益や利回りを目的としている。となると当然それを最大化するために、初期投資はできるだけかけず、回収までの期間は短く、ランニングコストもかけないで―となっていくのが論理的な帰結だ。

 別の言い方をすれば、自分/自社の利益を手に入れようとすること、つまりテイクすることがビジネスの動機になっている構図がこの数式にも表れているといえる。

 それを逆転させてみてはどうか。

 目的を、動機を「ギブすること」にしてみる。

 かけるべき時間ちゃんとかけ、かけるべき手間ひまをちゃんとかけ、いい仕事をすること。さらにはその仕事を丁寧に受け手に届け、コール&レスポンスで時間をかけて関係を育てること。つまり「贈る」ことを仕事の目的にする。

 そして分子を「結果」と捉える。

 自分たちが本当にいい仕事をできていれば、受け手にとっての価値を実現できていれば、それは受け手の中に「健全な負債感」を生む。そしてそれに応えよう、応えなければいけないという気持ちが、直接・間接に作り手に利益をもたらす。

未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学

未来のソフィーたちへ: 「生きること」の哲学

ソフィーの世界」の著者が、いま伝えたいこと。

 興味深く読みました。

 

P16

 わたしはおとなたちに疑問を投げかけてみた。ぼくたちが生きてるのって、変じゃない?世界が存在するって―そもそも、何かが存在するって、変じゃない?

 ・・・

 おとなたちは、まるで変なのはおまえだとでも言うように、こちらを見るばかりだった。

 ・・・

 父や母や先生たちは、世界のことを―この世界のことを!―結局のところまったくふつうだと思っているようだった。少なくとも、口に出してはそう言っていた。でも、わたしにはわかる。もし嘘をついているんじゃなければ、おとなたちはまちがっているんだ。

 自分が正しいことはわかっていた。わたしは、おとなになんかならないと心に決めた。この世界をあたりまえだと受け入れてしまうようなおとなには、けっしてなるものか。

 それから何年もあとになって、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画「未知との遭遇」を観た。

 この映画の原題は「Close Encounters of the Third Kind(第三種接近遭遇)」。どういう意味かというと、まず空に浮かぶUFOを目撃したら、それは第一種の「遭遇」だ。異星人が宇宙から来訪したことを示す物理的な証拠を見つけることは、第二種の遭遇にあたる。そして、ラッキーにも(あるいは不運にも)異星人と直接コンタクトしたら、それが第三種遭遇だ。なるほど、すごい!

 けれどもその晩、映画館を出ながら、わたしは気づいた。異星人とのコンタクトなんて、そんなのたいしたことじゃない。だって、わたしは第四種の遭遇を経験しているんだから。

 そう、わたし自身が、謎だらけの異星人なんだ。そう思うと全身に震えが走るのがわかった。

 あれ以来、幾度となくそのことを考えてきた。毎朝目覚めるたびに、わたしのベッドには「異星人」がいる。そしてそれは、わたし自身なんだ!

 

P29

 そのときも、わたしはいつものように森を歩いていた。高い木々に囲まれた細い小道をたどりながら、水音を立てて流れる小川に沿って進む。小道は、緑の生い茂る谷のあいだを抜けるように続いていた。ゆるやかな丘になっていて、初めて来る場所だ。

 新しい場所を訪れると、まったく新しい考えが浮かんできたりするものだ。わたしは、ひたすら歩みを進めながら考えていた。自分はいま、考えているぞ、と。そもそもなぜ、そんなことが―つまり、考えるなんてことが可能なんだろう?わたしの頭のなかで神経細胞神経細胞のあいだに火花を散らせているものの正体は、いったい何だ?神経細胞は、一千億個もあって……

 そのとき、ひとりの男が後ろからやってきて、わたしの横に並んだ。背の高い、とてもたくましい体つきの男だ。男は首をかしげるようにして、探るような目でこちらを見下ろした。そして、ちょうどいましがたわたしが考えていたことへのコメントとしか思えない言葉を発したのだ。

「そういえば、天の川にも一千億個以上の星がある」、彼はそう言った。

 わたしはぎょっとして、深い青色をしたふたつの瞳を見上げた。すると、背の高い男はふたたび探るような目でこちらを見た。いや、実際はどうかわからないが、そんな気がした。

「もっとも、『天の川』というのも、宇宙にある一千億以上の銀河のうちのひとつを、この地の人びとがそう呼んでいるだけだがね」

 男は小さくうなずいてみせると、大股でわたしを抜き去って木々のあいだに消えていった。

 わたしは呆然と立ちつくしていた。まちがいない。わたしはいま生まれて初めて、他人の心を読める人間に出会ったのだ。あの見知らぬ男はきっと、こう伝えるためだけに話しかけてきた。わたしはいま、きみのなかにいる。きみの頭のなかにいるんだ、と。

 そのことを不安には感じなかった。むしろ、よかったと思った。とてつもなく強い喜びの感情がわたしを包んだ。

 それは、すべてを変えるきっかけだった。わたしは新しい時代の入り口に立っていた。思考と感覚の新たな時代の入り口に。

 わたしはいわば、自分が血と肉だけでできているのではなく、同時に何かべつの、もっと大きなものの一部であることに気づいたんだ。そう、魂の共同体の一部なのだと。なんて誇らしい喜びだろう!

 あのほんの数秒を、わたしはきっと生涯忘れないだろう。ほんとうに幸せだった!

 ところが次の瞬間、わたしはベッドの上ではっと目を覚ました。そう、あの謎の男との出会いは、すべて夢だったんだ。

 ただひとつ、あの男がたしかにわたしの頭のなかにいたという、その事実を除いては。

 ・・・

 でも、・・・がっかりすることはない。人間の―天の川銀河の渦をなす星のひとつに生きるわたしたち人間の意識が、この宇宙でいちばんの神秘であることに変わりはないのだから。・・・

 

P101

 だれかとだれかが出会うには、時間と場所の両方がぴったり合っていないとだめだ。

 

P115

 あらゆる倫理の重要な基礎となっているのが黄金律、言わば「おたがいに与えあう」という原則だ。これは「自分が他人にしてもらいたいと思うことを、他人に対してしなさい」というものだ。だがいまや、この原則は横の関係、つまり「わたし」と「他人」だけに当てはめていいものではない。そこには縦の関係性も存在するのだということに、わたしたちは少しずつ気づきはじめたんだ。つまり、きみたちは自分たちが前の世代にしてほしかったことを、次の世代に対してしてあげなくてはならない。

 

 

 

先生、ちょっと人生相談いいですか?

先生、ちょっと人生相談いいですか? (集英社インターナショナル)

 たまたま寂聴さんの本を続けて読みました。

 帯に瀬尾まなほさんも仰天!って書いてありますが、たしかに・・・

 

P17

比呂美 先生はそのあと、今度は九十歳過ぎてガンの手術して、それから心臓を手術なさったわけですよね。そのときの気分はどんな感じでしたか?

寂聴 大病してもね、かならず治るのよ。もうどうしたの、これって感じ(笑)。

比呂美 ですよね。普通、九十四歳で心臓の手術してベッドにいたら、もう立ち直れないってことになってもおかしくないでしょ。どうやって元に戻られましたか。

寂聴 それが不思議なのよ。そうだ、寂庵でお堂を任せている係の人が「それは観音様が守ってくださるのです」って言うの。でも私は観音様に守っていただくほどお経も上げていない。「ちっとも拝んでないの、あなたが一番よく知ってるじゃない」って言ったら「私が毎日お水を替えて、私が拝んでますから」って。ハハハハ。

 

P63

比呂美 ・・・先生ご自身は、男に暴力をふるったことおありになりますか?

寂聴 ないわよ。力が弱いもの。本とか何か、投げつけるくらいね。

比呂美 まあ、それはさすがです。あたしはありますよ。死んだ夫が元気に生きてたころですけど、噛みつきました、ガブリって。腕に歯型がついて紫色になっちゃて。夫に通報されたら、アメリカだと大事になるところだったんですけど。

寂聴 よっぽど腹が立ったのね。

比呂美 もうね、嚙みつかざるを得なかったんです。英語で大ゲンカになって、英語ではたちうちできなくなって、追いつめられて、逃げ場がなくなって。

寂聴 それで嚙みついたの。ヒャヒャヒャ……(爆笑)。

比呂美 相手は三十近く年上だし、殴っちゃいけない、蹴ってもいけないと思ったら、つい口が出ちゃった。ガブリとやりながら「窮鼠、猫を噛む」ってこのことだと思いました(笑)。

 

P118

比呂美 小田仁二郎さんとは先生は四十代前半くらいまで八年ほど、お付き合いなさってたんですよね。

寂聴 そうよ。奥さんのいる家庭と私の家と、一週間の半分ずつ、行き来していたの。小田さんは「触手」みたいな、純文学の小説しか書けないから、小説家としては素晴らしいんだけど、仕事はないのよ。私のところに来るときは、食べるものでも着るものでも全部、私が出していたわね。

 ・・・

 ・・・新潮社に齋藤十一っていう名物編集長がいて、純文学作家を大衆作家にするのが趣味な人だったんだけどね。小田さんに「週刊新潮」に小説を書けって言ってきたの。そんなの、どだい無理なのよ。

 ・・・

 それを小田さんが引き受けたのよ。奥さんにも長い苦労をかけた、子どもも大学にやりたいからお金が儲けたいっていうのもあったでしょう。それで、四苦八苦しながら時代小説なんか書いて、そうしたら突然ものすごいお金が入って来たのね。原稿料が。それをふたつに分けて、半分を家に持って帰って、それでも十分やっていける額よ。残りをね、私にくれたの。それでいやになったのよ。

比呂美 お金をくれたことが、ですか。

寂聴 そんなカネ、自分のために使いたくもないから。彼に大島の着物だの、英國屋のスーツだの、舶来の靴だのあつらえて、ぱーっと使い切ってしまった。

 

P120

比呂美 あたし去年、石垣りんさんの詩集を編んだんです。戦後すぐのはやっぱりプロパガンダのように、わかりやすく平和の尊さなんか書いていたのが、時代が平和になったら、自分の身の回りのこと、家族だ、きんかくしだ、しじみ汁だ、そういうふうに変わっていく。視点が変わると、詩がグッと深まってくるんですよ。

寂聴 ふんふん。小説でもそれはたぶん同じじゃない?

比呂美 詩を作っていて、自分の詩の形ができてくると、それを知らず知らずのうちに追いかけちゃう。自分で自分の真似をすることが、怖いなあと思う。

寂聴 私は六十年、七十年と書いてきて、自分で作りあげた形、スタイルみたいなのを無意識のうちに壊す、というのを繰り返している気がする。

比呂美 ここ十年だけみても、そうしてらっしゃいますよね。でも、それは無意識になさっているんですか、はー。ため息が出ます。

寂聴 自分でいやになるのよ、いつまでも同じような小説を書くことが。コツを覚えてしまうと、ダメなのよ。

比呂美 まさに、それです!自分の真似をしたら、自分で「真似した」ってすっごいわかります。で、それは、しちゃいけないんです。文学ってみんなそうだと思いますか。

寂聴 そう思う、やっぱり。コツっていうのはあって、みつけたら「やったぁ」と思うものだけど、それは一度しか使えないのよ。

 

P132

比呂美 先生、好きな男について伺いたいんですけど。想像ですが、先生が女真っ盛りのときと、しなくなった後では、好きな男のタイプが違うのではないでしょうか。

寂聴 そんなことない。

比呂美 そうなんですか。セックスしないってなると、男の見方も全然違うんだろうと思ってました。心惹かれるタイプは変わりませんか。

寂聴 私と仲良くなった男はダメになるのよねえ。私がひじょうにあれこれよくしてあげるんだけど、大成した男はひとりもいない。自殺したり、ものにならなかったり。

比呂美 ダメ男がもともとお好きなんですか。

寂聴 だからね、放っといても成功するようなタイプっていやなのよ。

比呂美 顔がいいとか、頭がいいとかは。

寂聴 私、昔からデブでハゲは嫌い。

比呂美 先生って面食いなんですね。あたし、ハゲ大好きです。

寂聴 セックスが強いんだってね。

比呂美 それ俗説では(笑)。ハゲ、かっこいいじゃないですか。あとヒゲも好き。そしてね、いい匂いのする男が好きなんです。いい匂いとはつまり、腋臭なんですよ。源氏の「薫大将」も「匂宮」も……。

寂聴 あ、あれは腋臭ね、絶対そう。

比呂美 でしょう?だからあの話が落ち着いて読めなくって。いったいどんな匂いなんだろう、とか思って(笑)。・・・

 ・・・

比呂美 あたし、そりゃ先生に比べたら小さなスケールですけど、男からはなんにも貰ってなくて、ただ男に貢いできたかも。

寂聴 あげたのよ、いろいろと。あなたも男と仲良くして、ものやお金という意味では男は何もしてくれていないよね。

比呂美 いやぁ、もしかしたらいろんなものを貰った、得してきたのかも。自分の作品のことしか考えない悪魔のような生き方だとか、自分の文学はこっちだと思ったら譲らない芯みたいなものとか。別の男からも、ものの考え方を教わったような気が。

寂聴 ふんふん。今日聞いただけで、あなたの男の話が四人出たわよ。

比呂美 三人ですよ(笑)。まあ、だから、お金はなくなったけど、損はしてないかなと。後悔もないですね。ねぇ先生、後悔しませんよね。

寂聴 そうね、不思議ね。後悔してないね。やっぱり好きだったんでしょうね、相手を。

 

 ところで明日はブログをお休みします。

 いつも見てくださってありがとうございます(*^^*)

寂聴さんに教わったこと

寂聴さんに教わったこと (講談社文庫)

 瀬尾まなほさんの文章は、水を飲むようにすーっと読めるなーと思いました。

 それにしても、新しいことをしないとつまらない、と思える98歳・・・すごいです。

 

P160

 5本の連載を抱えた98歳現役作家。体力は衰え、書くスピードも落ちているけれど、まだ筆をおかない。

 そんな中、先生は突然、「何か新しいことでもしないとつまらなくて」と絵を始めることを思いついた。絵の具や筆、イーゼルなど道具も一式そろえて満足そうだ。

「これからは原稿の仕事が来ても、『瀬戸内は画家に転身しましたので、原稿依頼はお受けしておりません』って断らないといけませんね!」と私が言うとまんざらでもなさそうだ。夢は展覧会を開くこと。

 毎日仕事に追われ、その上新しいことを始めようとするなんて。そのエネルギーはどこから来るのだろう。

 ・・・

 私たちはワレモコウを挟んで向かい合って描いた。茎に付いた毛虫のような形のワレモコウの花を描くのは、簡単そうに見えて思いのほか難しい。先生は私の絵を見て「幼稚園児が描いているみたい」なんて言う。

 完成した絵を並べると、どちらもなんとも言えない出来で2人で思わず笑ってしまった。早速、先生と長く親交のある美術家の横尾忠則さんに見てもらうべく、2人の絵を撮影して送った。

 すると横尾さんは、先生と続けている雑誌連載の中で「描いても、恥ずかしいと言って、人に中々見せないものですが、セトウチさんはこうして、写真を撮って堂々と送って下さるその無垢な無邪気さが、見る者の感動を呼ぶのです」と書いてくださった。思わず先生と噴き出してしまった。

 夫には「先生はともかく、まなほの絵も送るなんて普通できないよ、恐れ多くて」と言われた。ど素人だからできることなのか。先生は「その非常識さがあなたの面白いところなのよ。面白いと思うか非常識だと思うかは、人によるだろうけれど」と言う。褒められているのか、けなされているのか複雑な気持ちだ。

 横尾さんに褒められて、私たちは大いに浮かれたが、落ち着いて見返すと、やはりなんとも言えない絵だった。先生は「こんなに下手くそだったなんて自分でもがっかりした」とこぼした。

 でも、夢中になっている時間は充実していて、先生もとても楽しそう。「次は何を描こうか」と2人で絵の話ばかりだ。先生が目標にする展覧会の開催には何枚も描かなくてはならない。先生は「遺作展」なんて言うけれど、生きている間に盛大に開催してほしい。私の絵も隅っこに飾って。

 

老いも病も受け入れよう

老いも病も受け入れよう (新潮文庫)

 きのうの本は養老孟司さんでしたが、こちらは瀬戸内寂聴さんの老い方死に方です。

 

P9

 今夜死んでも不思議ではない自分の、老いと死を見つめ、どのように最期を迎えようかと考え続けています。

 結論として、今のところ、「老いも病も死も、受け入れよう」という考えにたどりつきました。闘うことも、逃れる方法もあるかもしれません。でも、私のいま行きついた気持ちは、それが持って生まれた人間の運命なら、すべてをすんなり受け入れようというものです。そしてそれは思いの外に、心の休まる結果を招いています。

 

P16

 八十歳の時に白内障の手術をして、イヤというほど見えるようになりました。その手術は痛くもかゆくもなく、三十分くらいで済みました。東京の病院だったので、ホテル代わりに入院して、部屋に帰り何気なく鏡を見たとたん、私は悲鳴をあげました。

「見て、見て!鏡の中に八十の老婆がいる!」

 廊下から飛んできた秘書は平然と、

「だって、八十の老婆ですもの」

 あれはショックでしたね。見えていなかったものが、見えすぎでした。

 そして八十五歳で加齢性黄斑変性症になって、手術したのに右目はまったく見えなくなってしまいました。

 もっと早く医者にかかればよかったらしいのですが、多忙でなかなか行くことがかなわず、診てもらった時には既に手遅れでした。

 でも心配することはありません。私は仕事柄、今もたくさんの本を朝から晩まで、左目だけで読みます。一年後に目の検査に行ったら、左目の視力は一・二だったのが、一・五に上がっていたんです。ホント!

 今も新聞は眼鏡かけないで読めるんです。片方だけ使っているから、鍛えられて視力がよくなったんでしょうか、医者もびっくりしていました。でもこの目が見えなくなったら、もう仕事はできないし、本が読めなくなったら、生きていられない。いつまでも読書をしたいです。

 

P74

 どの入院の時も、私はすべての見舞いを固く断っていました。日に日にやつれていく自分の姿を、どんな仲良しの同性にも、ましてどのような老若の異性にも見られたくなかったのでした。

 ただじーっとベッドの上に横たわって、痛みにうめきながら数週間を過ごしました。あまりに痛くて、声を上げて泣くこともありました。

 黒柳徹子さんがお見舞いの優しいお電話を下さった時には、つい、

「腰が痛いの。ブロック注射を何度しても効かないし、ずーっと痛くてつらいのよ。もう神も仏もないって感じ」

 と言ってしまったんです。徹子さんが驚いて、

「そんなこと仰っていいんですか?」

 と言ったけど、

「もういいのよ」なんてやけっぱちな罰当たりなことを言いました。

 長命は望んでいないけれど、願わくは、ペンを握りしめたまま、人知れずこっそりと死にたいもの。仏さまはそれくらいは適えて下さるだろうと思っていました。まさか、こんなつらい目に遭わされるとは。

 万一、病が治って、法話を再開できる時は、「みなさん、神も仏もありませんよ!」と言ってやろうと、本気で思っていました。

 とにかく何もできなくて、「痛い、痛い」ばかり言って、新聞と本は少しは読めるものの、書くことは一切できない。・・・

 ・・・

 何週間もじーっと動かないままで、考えてもどうしようもない同じことを繰り返し考えて、だんだん気持ちが沈み込み、おかしくなりそうでした。

 そのうち、「あ、これは鬱になっている」と気がつきました。

 ・・・

「もう死んだ方がまし」などと毎日毎日、考えるようになって、自分が鬱状態になっているとわかってから、ここで負けたらいけない、と思ったのです。

 鬱に負けたら、病気がもっと重くなるとわかっていました。

 ・・・

 気持ちを紛らすために、無理矢理、本を読むことに集中しました。自分が書いた昔の新聞小説などを読んだら、内容をすっかり忘れていて、次はどうなるのかなど、まるで人の小説のようにわくわくできるし、他の作家の書いた良い小説を読んだら「ああ、負けちゃいられない」と闘争心がわき上がってきました。

 ・・・

 治ったら何がしたいか考えたら、やはり私は小説が書きたいとわかりました。・・・動けないときはとにかく書きたかった。そればっかり一生懸命考えていました。この世で私がしたいことは、小説を書くことだけだったのです。

 

 腰の痛みはどうやっても消えないのですが、リハビリで歩く練習をして、入院生活で落ちてしまった筋力をつけていけば、次第に痛みも治まっていくだろうということで、退院して自宅療養という形にすることになりました。

 ところが、退院前に全身を調べているうちに、ガンがみつかったんです。

 ガンが胆のうの中にあるとわかった時は、「へぇ」って思っただけでした。驚いたとか、困ったとかではなく、平然と受け止めていました。

 医者から、「どうしますか?」と聞かれました。

 摘出手術をするかどうか、ということとわかったので、即座に、「すぐに取ってください」と答えました。

 普通は九十二歳にもなる高齢の人は、身体に負担が大きいのでガンの手術はしないものらしいです。

 でも私は、「人生の最後にまた一つ、変わったことができる」と思ったんです。

 初めてのことになりますから、ちょっとわくわくする気持ちもありました。

 

P144

 病気で動けなくなった時にしみじみわかったのは、思いやりの大切さということでした。思いやりというのは、結局、想像力のことなんです。想像力で相手のつらさを理解して、助けようとすることが大切なんですね。

 ・・・

 私は八十八歳まではどこも痛くなかったんです。それでも法話にいらっしゃる方には腰や足が痛い人がたくさんいるから、「たいへんですね、おつらいでしょうね。お大事になさってください」と話していたんです。

 でも、病気で動けなくなって初めて、私は他人の痛みを本当にはわかっていなかった、私が想像していた痛みの何倍もつらかったのかと、気づきました。

 自分が経験していない痛みや苦しみは、ほんとうにはわからないと、自分の想像力なんて知れているなとつくづく思い知らされました。

老い方死に方

老い方、死に方 (PHP新書)

 養老孟司さんと、南直哉さん、小林武彦さん、藻谷浩介さん、阿川佐和子さんの対談本です。

 

P54

―「老いてからの死」について、もう少し踏み込んでもらいたいのですが、死を受容する方法を、以前のご著書でも書かれていますね。

南 九十歳を超えること、ですね。それは、実際に見てきて、そう思うからです。九十五歳までいけばもう確実ですね。もう考えるのが面倒くさくなるのか、あんまりくよくよしなくなるんじゃないのかと。僕の知る限り、檀家とか知り合いの住職で九十歳を超えて、えらく苦労して死んだという人は、見たことがない。

 ・・・

 最近では、九十四歳の老僧が、朝、読経したまま逝ってしまったということがありました。「すごい、坊さんの理想だ」と思いました。読経の際にいつも鳴る木魚が急に止まったから、家族が見にいったら、亡くなっていたそうです。他にも、たとえば檀家で九十六歳だったおばあさんが、一家でご飯を食べてたときに、ふと動かなくなった。茶碗が空になっているのに黙っているので、家族が「おかわりは?」と聞いても、答えない。つっついたら、茶碗が落ちたそうです。

 他にも、寝ているうちに逝ってしまったというような話ばかりです。そして本当に、いい顔をされています。住職をやって三十年近くになりますが、そういう方々を見てきた結果から、言えることなんです。

 

P61

南 ・・・先生の「手入れの思想」はじつに偉大な思想だと思っています。この「手入れ」という発想はどこから得られたのですか。

養老 やはり女房がやることを見ていて、でしょうか。よく「手入れ」をする人なんですよ、庭や家とかを。でも、昔は借家に住んでいましたから、かわいそうだなと思ってね。一生懸命に手入れをしても、借家だと他人の家ですからね、結局は。それで、家を買おうと思ったし、毎日のそういう「手入れ」というのは大きいなとも思ったわけですよ。

南 そうでしたか。

養老 そうです。「手入れ」をしているのを見ていると、結局、「自分」なんだなと思うのです。

南 なるほど。周りの環境との仕切りがなくなってくる、みたいなことですね。

養老 そうです。そうすると、それを大事にしてあげないと、本人を認めていることにならないわけですから。まあ、理屈で言えば、そういうことになるんでしょうね。

南 仏教で「縁起」といいますが、その「縁」というのは、関係性のことで、それを、概念で言ってもダメですね。会話をするとか、何か具体的に、身体的な行為として関わっていくことが、「関係する」ということの、人間にとっての実質的な意味になる。環境と自分との隔たりがなくなるというのは、要するに、具体的な行為できちんとつながっているから言えることで、観念で済む話ではありませんね。

 

P76

小林 養老先生は何かサプリを飲まれていますか?

養老 一切飲んでいません。老化はしょうがない、いまさら薬を飲んでどうする、という考えです。タバコだけですね(笑)。

―タバコが先生にとってのサプリメントですか。

養老 みんな健康に悪いというから、健康にいいに違いないと思っています。

小林 でも、世界最高齢のフランスのジャンヌ・カルマンさんは、百二十二歳でお亡くなりになったのですが、百十七歳のときにタバコをやめたそうですよ。

養老 それまで吸ってた(笑)。私が聞いた話だと、タバコに火をつけてくれる人を気遣ってやめたそうですね。

 

P198

阿川 体調はいま、おおむね良好ですか?

養老 かゆいだけ。肌が乾燥してます。何がどう関係しているのかは、ちょっとわかんないですね。

 ・・・

 あと、この年になると、いろんな理屈を聞くのがイヤになってきますね。・・・いちいち読むのが面倒くさい。書くのも大変。ああでもない、こうでもないと考えなくてはいけないから。理屈をこねまわすには体力がいります。

阿川 昔はガンガン読めたのに?

養老 できましたね。いまはダメ。理屈自体はわかっても、その裏に何があるかを読むにはすごく体力がいるんです。

 平安時代の昔の人は三十一文字ですませたっていうじゃない。朝廷でみんながちょっと節をつけて五七五七七の和歌を詠んで、自分の意見を伝えたって。呑気でいいよね。それでいて意志の伝達は早い。

 ・・・

阿川 言葉が短いという意味では、加藤シヅエさんがそうでした。加藤タキさんのお母さん。

養老 一度、対談したことがあります。初めてお目にかかったときに、いきなり「あなた、帝大出でしょ。帝大出にはろくなのがいないのよ」と言われたことを覚えています。そこから「うちの亭主は……」と話し始めて、おしゃべりはほとんど俳句になってました。

阿川 やっぱり。若いときからなんですね。私がインタビューしたときはもう九十歳を超えていて、ちょっと足が弱くなられて、耳が遠くなっていらしたけど、おしゃべりは余計な言葉がまったく入らない。短い言葉でビシッ、ビシッとお話しされる。それは見事でした。

 さらにすごいのは、「耳が遠いんだから、聞こえないものは聞こえない」と潔いところ。聞こえなくても決して「え?」と聞き直さないの。しかも延々と話す人には、聞こえた単語だけを拾って、ちゃんと話を広げるんですよ。

 余計な体力を使わないというか。年齢を重ねるにつれて、余計なエネルギーを使わない技術が身につくのかしら。テニスだって、おじいちゃんって走らないんだけど、ちゃんと球に追いついて、確実にポーンと返しますよね。養老さんもそんな感じでしょうか。余計な体力を使わず、でも仕事をちゃんとこなすという。

養老 体力がないからダメなんですよ。人の話も聞きながら、自分で五七五にまとめてるところがありますね。

 

P206

―お母さんの介護はどのくらい続いたんですか?

阿川 二〇二〇年に九十二歳で亡くなるまで、九年半ですね。

―何かコツのようなものを会得されたのですか?

阿川 一つは、母の世界に乗ること。たとえば「あの赤ん坊、どこ行ったの?」と言いだしても、「何言ってるの?うちに赤ん坊なんていないでしょ」とは言わない。「いま、二階で寝てるわよ」とか「さっき、お母さんが連れて帰ったから大丈夫よ」と言う。それで納得するんですよ。

 ・・・

養老 うちと同じじゃないですか。僕、女房に何を言われても、言い返さずに、そうですかって話に乗ってます。

阿川 それはいまに始まったことではなく、昔から?

養老 ずっとそうです。

阿川 じゃあ、もう訓練はできてるんですね。

養老 もし女房が認知症になっても、このままでいいんだなって。いま、阿川さんの話を聞いていて思いました。

阿川 言いたいことを言わずに、ガマンしていると、ストレスがたまりませんか?

養老 たまりませんよ。僕は女房や娘の言うことを否定しないうえに、彼女たちに対して何か主張しようとも思わないから。

阿川 反論もされない。昔からですか?

養老 親にもそんな感じでしたから、けっこう昔からです。

阿川 それが養老さんのサバイバル術か。上には上がいた……。

養老 自分の欲が強いと、なかなかうまくいきませんよ。

阿川 「自分が正しいと思っているのに、どうして理解してもらえないの?」って言い出すと、ぶつかるんですよね。

養老 自分のことなんか、人に理解されなくて当たり前と思ってりゃいい。・・・

妻より長生きしてしまいまして。

妻より長生きしてしまいまして。~金はないが暇はある、老人ひとり愉快に暮らす

 立場や年代が違うものの、共感するところが多かったです。

 

P17

 ここ2,3年のことだが、私は毎日朝が来ると、なぜか心がワクワクする。何にワクワクしているのかわからないが、これまではいろんなものに縛られながら生きていたのだと思う。

 しかし年齢とともにその呪縛が解け、責任という重い荷物を下ろし、ありあまる時間を自由に使うことができるということを、最近になって実感できるようになった。

 まだ夜が明けきらない早朝。

 いつものように目が覚めると、ぼやけた網膜のピントを合わせながら、まず台所へと向かう。

 冷蔵庫を開け、一杯の冷えた水を飲む。

 地球はまだ寝ている。

 コーヒーを淹れる準備をしながら、今日は何をしようかと考える。

 ひとりっきりの老後は何をしてもいいのだ。

 今日も明日もずっと私は自由……。

 心が開放されている実感。

 この朝のスタートに、私はとてもワクワクする。そのワクワク感が好きだ。

 ・・・

 こうやってワクワクの朝はスタートする。

 グリルでパンを焼き始めると、パンの匂いを嗅ぎつけたゆいまるくんがおもむろに台所へと現れる。

 すっかり老犬になったお前もまた自由だな。

 ゆいまるくんは、歳はとったがまだ子犬の顔をしている。

 犬はずるいな。

 起き抜けのいつもの腰痛も、お前がまだ生きている証だと教えてくれている。

 深呼吸するだけで消えてしまいそうなささやかな毎朝の幸福感。

 コーヒーの香りがまとわりついて、今朝はいっそう気分がいい。

 しかし……、

 夕方になってみると結局どこへも行かず、何もせず、いつものようにたったひとりで一日を終える。

 それをただ繰り返すだけの日々。

 でも、それでいい。

 私には自由な一日であったことが大事なことであり、何もしなかったことも自由の選択の結果なのだ。

 

P118

 先日珍しく、・・・明らかにお仕事絡みとわかるメールが届いた。

 メールを開いてみると、たしかにお仕事のオファーだった。

「私でもまだ需要があるのか……」

 日本の労働者不足もいよいよ深刻だな。

 ただ、今は動画の撮影と編集で手一杯だから、丁寧にお断りの返信を差し上げた。

 ・・・

 ところが!

 お仕事のオファーをしてきた担当君は、私がメールで断っているにもかかわらず、今度は電話をかけてきたじゃないか!

 ・・・

 電話の向こうで熱く語る担当君の話を聞きながら私は……、

 そんなに?俺いいすか?

 と思った。まるで日本に私しか人材がいないかのような言い方だ。

 んなわけないじゃないの~。

 と、また丁重にお断りしたのだが、担当君は本当に残念そうだった。

 ・・・

 若い頃からサラリーマンとして働いてきた私の経験が、この歳になっても必要とされる。

 そうか。

 誰でも同じことを一生続ければ、それ相応のプロフェッショナルにきっとなるんだなと思った。

 そう考えると、なんだか私がサラリーマン人生を続けてきたのは間違いだったような気がしてきた。

 ・・・

 私がもし別のことを一生かけてやり続けていたなら、私はその別の何かでプロフェッショナルになれていたかもということだ。

 別の何か?

 ・・・

 サラリーマン以外のプロになってみたかったな~。どんな好きなことでも、仕事となるとそんなに甘くないのはわかっている。

 フリーの仕事も、想像よりは自由はないかもだ。

 別の道を歩いた66歳の私はどうなんだろう。今より自由なんだろうか?

 今の自由は、サラリーマンを続けてきたから得られたもの?

 そうだな。

 どの道を歩いたところで、結局たどり着くところはそこだな。

 今を自由に生きられるかどうか。

 人目につくような派手な仕事では、もしかすると自由などないかもしれない。

 きれいな花壇に並んで咲く花よりも、道端の雑草のほうが自由に生きているように見えるもんな。

 この原稿を書いている今の時間は午前7時11分。

 さあ!酒でも飲むか!

 人生うぇ~い!

 

P126

最高の人生の見つけ方』という映画のタイトル通り、死期が近いふたりが「死ぬまでにやりたいことリスト」通りに、旅に出たり、ライブに行ったり、美味しいものを食べたりというストーリーである。

 ・・・

 ・・・最高の人生とはスカイダイビングをしたり、ももクロのライブに行ったり、インスタ映えする巨大パフェを食べたり、エジプトでピラミッドを見たりすることなんだろうか?

 死ぬ前にやりたいこととは、みんなそうなんだろうか……。

 やれば楽しいことなのだろうが、それをやったから人生に悔いなしとは感じないと、私は思う。

 私が年老いて悔いなく死ねるために必要なこととは、今日のささやかな一日を大切に生きること。

 チッ!

 じじいが何をきれいごと抜かしてやがると言われそうだが、べつに好感度を上げようとしているわけじゃない。

 死ぬ前に何がやりたいかと聞かれたら、私はこう答えると思う。

 亡くなった妻との長い結婚生活を振り返ってみて、幸せを実感したのはふたりで行った海外旅行でもなければ、贅沢な外食でもない。

 毎日のささやかな日常だったのだ。

 妻の手料理で晩酌をする。

 今日一日の出来事をふたりで話す。

 ふたりで行ったワンコたちの散歩。

 休日に出かけた公園で飲んだビール。

 特別なダグなどついていない、ありきたりの日常。

 でも、それが宝物だったんだと、妻が亡くなってからようやく気づかされた。

 だから……。

 私が死ぬ前にやりたいこととは、

「いつもと同じように料理を作り、観葉植物に水をやり、そしてお風呂に入ったらいつものビアバーに行ってビールを飲む。ゆいまるくんにご飯をあげたら、ベッドでウイスキーを飲みながら映画を観る。そしていつものようにふたりで寝る」。

 人生の最後はそうやって終わりたい。

 

 

 ところで4,5日ほどブログをお休みします。

 いつも見てくださってありがとうございます(*^^*)