自然とは・・・

住職さんは聞き上手 釈徹宗のだから世間は面白い

 この辺りのお話も印象に残りました。

 

P162

釈 ・・・少し前にこんな話を聞きました。ご自宅で仏教塾をされているある和尚さんのところへ、五〇代前半ぐらいの奥さんが相談に来た。「自分は嫁いでからずっと、病弱で入退院を繰り返す義理のお母さんを介護してきた」というので、「大変でしたねえ」というと、それは大変じゃないと。

久坂部 ほう。

釈 そのお義母さんはすごくいい人で、お世話をいやだと思ったことは一度もない。お母さんが食べこぼしたものを食べるのも平気、というほどの間柄だったそうです。ところが、このお義母さんが認知症になった。食事を持っていったら、「あんた誰?」といわれたというんです。奥さんはこれにショックを受け、いくらなんでも、何十年も世話してきた自分にそれはないだろうと怒りがおさまらない。

 そこで、その和尚さんがいいことをいうんですよ。「認知症は脳が壊れる病気で、壊れていくのはお義母さんのせいじゃない。また、腹の底であんたを悪く思っていたということでもない。『あんた誰?』と聞かれたら、『初めまして、セツコと申します。今日からよろしくお願いします』といいなさい」と。

久坂部 ははあ、なるほど。

釈 一年半ほどしてまたその奥さんがやって来て、「母が亡くなりました。和尚さんにいわれたとおりにしてよかった。『初めまして』と挨拶すると、母も機嫌がいい。私も腹が立たず、最後まで憎み合わずに済みました」といったそうです。明日は入院するという日、朝食をもっていったら、「ありがとう、世話になったな。あんた、心優しい、ええ人や」といわれたと。「でも、あんたが足元にも及ばんええ人がおる」「誰ですか」「うちの嫁やねん。あの人にありがとうがいえへんかったのが心残りや」。それで泣けて泣けて。

久坂部 短編小説みたいですね(笑)。

釈 「そのお嫁さんはいまどこにいるんですか」と聞いたら、「もう死んだ」と答えたらしいんですけど(笑)。・・・

 ・・・

 ・・・

久坂部 ・・・パプアニューギニアにいたとき、こんなことがありました。国内で唯一手術のできる病院から麻酔医がいなくなり、手術ができなくなったという記事が新聞に出た。日本なら間違いなくパニックですよね。でも、あそこの人々は仕方ないと受け入れる。社説に「パプアニューギニア人は問題を解決することより、受け入れることに慣れている」と書いてあって(笑)。でも、よく考えれば、「受け入れる」は問題の万能解決策です。だから、ニューギニアの人たちは顔が穏やか。イライラ、ギスギスしていない。

 問題を解決したいと願う限り、ああしたい、こうしたい、あれはダメ、これもダメと思って苦悩するしかなくなります。あるがままを受け入れれば、その苦しみから解放され、肩の力も抜けて「今」を本当にやりたいことに使える。ただし、これはなるようになる方法だから、決して安全ではありません。パプアニューギニア人の寿命も、日本人より二〇年近く短い。でも、リスクも含めて受け入れていかなければ、永遠に悩みは尽きないんじゃないでしょうか。

釈 受け入れた先に絶望しかないかというと、「その先にある喜び」みたいなものもありますからね。・・・

 

P238

高 ・・・『歎異抄』について語ると何日もかかりそうですが、・・・最大の特徴は、まさにいま述べた「自然」です。世間ではよく、親鸞のたどり着いた境地として「自然法爾」をいいますが、親鸞は晩年の和讃などで、この「自然」という言葉を一文字ずつ読み解いていますよね。「自は、おのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむということばなり。然というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず」と、「自」とは何か、「然」とは何かを、繰り返し、巻き返し捉え直している。

 ・・・

釈 ・・・親鸞は、人間も含めた全ての要素が合わさることで「自然」という状態を生み出していると考えていたと思います。親鸞の和讃に「宮商和して自然なり」という言葉があります。「宮商」とは西洋音楽でいうドレミファソラシのことで、この世界のあらゆる要素を表している。それらがハーモニーのようになった状態が「自然」だと。そういう大きな命の流れとして、この世界を見ていたと思います。

 高さんのご本に、自死を望む子どもに向かって、「死にたいと思っているのは頭か。頭だけが思っているなら、頭だけ死ぬか。足の裏はどう思っているか聞いてごらん」と言われたお話が出てきますよね。その子は見るからに危うい状態にあったけど、半年ほどして「足の裏の声が聞こえるまで歩きます」という手紙をくれたと。これは大変仏教的なお話です。仏教では、決して脳だけを特別な位置に置きません。心も体も刻々と変化する要素の集合体で、それが大きな命の流れをつくっていると考える。親鸞のいう自然にも、そういう意味があると思います。

 もう一つ、親鸞自然法爾には、仏さまの願いの力によって、自然と往生に導かれていくという意味があります。われわれはこの肉体と自己をもつ限り、仏に任せたつもりでもまた次々と迷いが湧いてきて、ふらふらと揺れながら暮らしていくわけですが、揺れてもいい、間違いなく自然の法則に導かれていくから、という思いが込められていると思います。

 ・・・

 ・・・

釈 阿闍世は、古代インドにあったマガダ国で父王を殺害したと伝わる王ですね。マガダ国の首都王舎城で起きたその事件は、さまざまな仏典に「王舎城の悲劇」として取り上げられています。阿闍世は凶悪な性質で、貪りと怒りと愚かさに満ちていた。あるとき提婆達多という悪友にそそのかされ、父である頻婆娑羅王を幽閉し、死へと至らしめてしまいます。しかし、その後、父殺しの罪に苦しみ病んでしまう。全身にできものができて熱と悪臭を放ち、苦しみ抜いた末、ついに釈迦と出会って救われます。

 ・・・

 親鸞は「王舎城の悲劇」の登場人物たちを、菩薩の仮の姿を表す「権化の仁」と表現しています。おそらくは阿闍世を、自分を導くために現れてくれた仏のようにも見ていたと思います。

 ・・・

高 ・・・「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とはまことに根源的です。阿闍世は親殺しにして、まさに仏さまに他ならないといっていいのでしょうか。そこに鎌倉の地獄を通して生まれた、親鸞の思想の深さがあると思います。・・・

釈 親鸞の目線は、常に社会の最下層の弱者と共にありました。「いし・かわら・つぶてのごとく我らなり」といっていますが、自分のこともそのへんに転がっている石ころのようなものと見ていた。このことの意味を、もう一度考えなければなりませんね。

住職さんは聞き上手

住職さんは聞き上手 釈徹宗のだから世間は面白い

 釈徹宗さんと、様々な分野の方との対談集。

 興味深い話がいろいろありました。

 

P9

 読み返してみると、その時のお相手の声や表情や仕草が脳内再生される。時には対談終了後の雑談に興味深い話が聞けることもあった。たとえば、羽生善治さんが、軽口のように「AIの棋譜はわかるんですよ。棋譜を見ると、『あ、これは人工知能が指した将棋だな』って」と言うので、「人間が指したのと違うんですか?」と尋ねると、「ええ、なんて言うのかな。ほら、翻訳ソフトで英語から訳した日本語って、わかるでしょう?あんな感じです」。私を面白がらせようというトピックスだったのかもしれないが、やけに妙味のあるお話だった。

 

P57

釈 以前、東大の先生と機械を使って人がどんな音を心地いいと感じるかを調査したら、お寺の本堂では、その寺の住職がいちばんいい音を出せることがわかりました。何十年もそこでお経を上げ続けていると、声が建物と連動してくる。響く音階や、そこでの体の使い方が自然に身についてくるらしくて。

いとう その心地いい音って、倍音じゃないですか。

釈 そうです。仏教には元々、倍音声明という独特の読誦法もありますけど、それは瞑想法の一つなんですね。・・・

 ・・・

いとう ・・・じつは僕、高校三年のときに最初の精神的危機を迎えまして。希望していた大学に受かったものの、一種の燃え尽き症候群で、それから入学するまでの間に人生初のうつがきた。毎日、死ぬことしか考えられない。

 そのとき土取利行さんという音楽家のホーミーのライブに行って、買ってきたCDを家で聴いていたら涙が出てきたんです。びい~、びい~、びい~っていう倍音が聴こえてくるだけなんですよ。でも、おそらく太古の人類は、さえぎるもののない大地の上で宇宙から届く音を体で受け止めていた。仮に生きていることに何の意味もなくても、この音みたいに自分も同じバイブレーションに貫かれていることを感じられたら、それでいいじゃないか、と。で、一時間ほど泣いたら治っちゃった、うつ病が。

 ・・・とにかくわかったのは、倍音は自分にとって特別な力をもっていること、良いノイズで体を呼び覚ましてくれるということです。

 

P103

釈 ・・・脳機能論のお立場から「語感」を研究されているそうですけど、これはどういう研究なんでしょうか。

黒川 普段あまり意識されていないと思いますけど、言葉は口腔周辺の運動によって発声されています。私たちは、口腔の中に大きな空間をつくったり、舌の上に息を滑らせたり、ためた息を破裂させたり、唇を緩めたりすることで言葉を発している。そして、息が口から滑り出るときに爽やかさを、唇が緩んだときに優しさを感じたりしています。私は、こうした「発音体感」こそ、語感の本質だと考えていまして。

 ・・・

 実は、それは私にとって一〇代からやりたいことでもありました。理由は、自分の名前が「いほこ」だったから。この言葉は「い」で舌を前に出し、「ほ、こ」で息を吐く。

釈 息を吐く音が三回続きますね。

黒川 だから、二回も呼べば、横隔膜が上がり切ってヘトヘトになります。ところが、弟の名は「けんご」。親が叱るために私を呼んでも途中で怒りが消えてしまうのに、弟のほうは呼べば呼ぶほど激高してくる(笑)。そんなふうに人の体に力を入れる言葉と抜く言葉があることを感じて育ったので、高校のころから言葉の物理効果に関心があったんです。

 ・・・

 

P146

釈 ・・・佐藤さんは神学で知性を鍛錬してこられたと思うんですが、宗教には「知性を鍛錬する」という面もありますよね。

佐藤 それはあると思います。例えば、キリスト教神学の歴史を見ると、論理的に整合性が高いほう、つまり、正しいほうが負ける傾向が強いです。

釈 正しいほうが?

佐藤 理屈が通ったほうがつぶされる。

釈 声が大きい者が勝つとか。

佐藤 それはだいたい正しいです。

釈 あるいは権力が強い者が勝つ。そういうことですか。

佐藤 そうです。例を挙げると、一五世紀のボヘミア(現チェコ共和国の東部)に、ヤン・フスという宗教改革者がいました。当時、教会は分裂し、ローマ教皇が三人いた。これについて、フスは「神の代理人が三人もいるのはおかしい」と批判して、教会と対立します。教会は「あなたの考えを聞きたい」といい、フスをコンスタンツという場所で開く教会会議に招く。しかし、フスは「行けば命が危ない」と考えます。

 それに対して、三教皇の一人であるヨハネス二三世が、安導券を出すというわけです。安導券というのは、病院船とか支援物資の輸送船が敵国陣営に入るときに安全を保障するものですね。フスはそれを信じて出掛け、結局、捕まって火あぶりになる。このときの教会側の言い分はこうです。捕まえないと約束はしたが、約束を守るとは約束しなかった。

釈 ううむ、狡猾……。

佐藤 神学論争は、しばしばこんなふうに政治力や軍事力で決着がつけられます。でも、それでバランスが取れる面もあるわけです。敗けた側は「争いには負けたが、俺は正しかった」と思えるし、勝った側はどこか後ろめたい思いを抱くから。

 これは、じつは企業内の権力闘争などにもいえます。正しいことをいう人が、社内で勝つわけじゃない。でも、その人が争いに負けてポストに恵まれなくなったとしても、「自分は筋は通した」と思えれば納得がいきますよね。一方、勝って主流派に立った側にも、どこかに「やり過ぎた」という気持ちがあれば、組織全体としてバランスがとれる。組織にある種の「幅」が出る。

釈 なるほど、面白いですね。

人生は単なる空騒ぎ

人生は単なる空騒ぎ ‐言葉の魔法‐

 ジブリ鈴木敏夫さんの本です。

 たくさんの書が載っていて、字ってこんなに表情があるんだと、改めて新鮮に感じました。

 

P21

シェイクスピアは言った。人生は単なる空騒ぎ。意味など何ひとつない。

ウディ・アレンの映画『恋のロンドン狂騒曲』は、そういう台詞で始まります。元になっているのは『マクベス』の台詞ですが、映画をきっかけに、この言葉が新たな響きをもって聞こえてきました。もともと人生に意味はない。だったら意味を付ければいい。自分の人生は自分で決められる。ある種の実存主義ですよね。ぼくはそういうふうに考えて生きてきました。

 

P25

 学生時代から詩も好きで、よく暗唱していました。いまでもふと口をついて出るものもあります。たとえば、茨木のり子さんの「さくら」。

 

 さくらふぶきの下を ふららと歩けば

 一瞬 名僧のごとくにわかるのです

 死こそ常態 生はいとしき蜃気楼と

 

 人間というものは、死んでいるのが本来の状態。生きている時間は夢うたかたのようなもの。それでも人生は愛しい―名僧が長い修行を経て辿りつくような死生観を、とても端的な言葉で表現している。つくづく感心します。 

「よく見る人」と「よく聴く人」

「よく見る人」と「よく聴く人」 共生のためのコミュニケーション手法 (岩波ジュニア新書 975)

 最後の方に、「『障害とは何なのか。この本を読んで、よくわからなくなった』。そんな読者からの感想が寄せられることを期待しています。」とありました。

 興味深い内容で、読んでよかったです。

 

Pⅵ

 ・・・本書の主題は障害理解ではありません。本文に入る前に、この本は広い意味で人間のコミュニケーションについて考察するのが狙いであることを明言しておきます。親しい友人、家族も究極的には他人です。人はそれぞれ違っていて、真にわかり合うことはできません。でも、わかり合えないからこそ、どうにかしてわかり合おうとする。そこに多種多様な「工夫」が生まれるのです。

 僕や相良さんは健常者(多数派)との違いが大きいため、人一倍「工夫」を積み重ねてきた自負があります。そして、僕たちの「工夫」は、きっと万人にとって「よりよく生きる」ヒントになるはずです。僕たちが期待するのは「目が見えない/耳が聞こえないのに、頑張っているなあ、すごいなあ」という〝感心〟ではありません。周囲との違いの自覚から出発するコミュニケーションのしたたかさ、しなやかさに〝関心〟を持っていただきたいのです。

 

P42

 今、もしも「普通」とは何ですかと尋ねられたら、僕は明確に答えることができません。「普通」の意味を問い直すきっかけを与えてくれたのが盲学校での生活です。小学校時代、同級生たちと同じように行動できないことに僕はプレッシャー、違和感を抱いていました。「目が見えにくい自分は普通ではない」という思いが、ある種の劣等感を惹起したのは確かでしょう。

 しかし、盲学校では目が見えないこと、点字を用いることが「普通」なのです。どこにいるかによって、どんな集団に属するのかによって、「普通」の意味は変わってくる。そもそも、「普通」なんて存在しないんだ。僕が異文化を調査対象とする文化人類学の研究者となった遠因は、おそらく盲学校で経験したカルチャーショックにあるのではないかと思います。マイノリティ(特殊)の立場から、マジョリティ(普通)にインパクトを与える。こんな僕のライフワークの出発点は盲学校にあるといえるでしょう。

 

P66

 イギリスでの4年契約の仕事が終わりに近づき、契約後のことを考え始めていると、「Ph.D.取得を目指しながら、あと2年仕事の契約を延長してはどうか?」とゼシャン先生から提案されました。それは、素晴らしい提案だ、と嬉しくなりましたが、同時に、もう一つ迷うべき進路が出てきていました。それは、国立民族学博物館(民博)から、将来、民博でも手話言語学研究を行いたいので、担当できないか?とお誘いを受けたことでした。

 ・・・一人では結論が出せずにいると、アメリカ人の研究者からカウンセリングを勧められて、人生で初めてカウンセリングを受けました。

 カウンセラーに自分の心の内を話していくうちに、自分が求めているのは、「同じところで生活を続けるのではなく、新しい環境に飛び込んで、何もないところから新しいものを築き上げていくことだ」と気づきました。

 ・・・

 それまでの人生でこれほど迷ったことはありませんでしたが、一度決めてしまえば、そこに向かって進んでいくだけ。気持ちが楽になりますね。人生は、選択の繰り返しですが、「選択」できるということ自体、幸せなことですね。

 

P164

相良 駅で障害者割引の手続きをする時、インターフォンのボタンを押すと、駅員の顔も見えず、スピーカーから音声だけで案内されることがあります。聞こえないので、結局、窓口の人を呼ぶのですが、それも窓越しの話は音声だけでよく理解できず、最終的に筆談になって、すごく時間がかかってしまった経験があります。機械で効率よく対応しようとしたシステムなのでしょうけれど、ろう、難聴者にとっては、利用しにくい対応になっています。

広瀬 おもしろいですね。そこも相良さんと正反対で、僕は音声で返事が返ってくると、安心する(笑)。逆に困るのは、障害者割引を使おうとする際、「そこにカメラがあるから障害者手帳を提示してください」って言われることがあるけれども、「そこ」がどこなのかわからない。障害者割引なのに、聞こえない、見えない人が使いにくいって、なんとも「不合理」ですね。

 

P177

広瀬 世間では「障害者」って十把一絡げでとらえられているけれど、相良さんは見ることを大切にするし、僕は聞くことやさわることを大切にします。必要とするサービス、ニーズも違うし、生活様式もまったく異なります。「障害」とは、健常者(マジョリティ)が自分たちとは少し違う身体の持ち主を一括りにして論じるための単なるレッテルです。一口に「障害」といっても、いろんなタイプの人間がいる。「障害」という言葉で個々の人間を評価することはできない。こんな僕たちの素直な思いを多くの人、とくに若い世代に知ってもらうために、本書を企画しました。「障害とは何なのか。この本を読んで、よくわからなくなった」。そんな読者からの感想が寄せられることを期待しています。

「障害」という語で多様なマイノリティを規定するのは無意味だし、やめてほしい。この思いは、本書を締め括ろうとする今も変わりません。ただ、これまで相良さんの各章の原稿を読んできて、強く感じることがあります。「違うんだけど、よくわかる」。こういったシンパシーはどこからくるのでしょうか。本日の対談でも、「盲」と「ろう」の相違を再認識すると同時に、似ている部分、人間として共感できる経験がたくさんありましたね。

 僕は「触覚センサー」という言葉を使っていますが、マジョリティとは違う感覚(いわゆる五感)の使い方をして、世界に触れて情報を得ているのが障害者です。マジョリティは目に頼って情報を得ているけれども、僕は目を使わず、他のセンサーを駆使しています。相良さんも、マジョリティとは違う方法で情報を受発信している。感覚の用い方という点で、僕は相良さんにシンパシーを感じるのだと思います。

 この本のテーマは福祉ではなく、人間のコミュニケーションです。僕も相良さんもコミュニケーションをとても大事にしています。他者とのつながりがなければ、人間は生きていけません。僕も相良さんも見えない、聞こえないという特性が一つのきっかけとなり、コミュニケーションの手段・手法を磨いてきました。語呂合わせで恐縮ですが、障害者は自らの「生涯」を豊かにするために、独自の「渉外」術を編み出し、鍛えています。内に籠らず外に出ることによって、僕も相良さんも人生を楽しんでいる。そんな二人の体験を通じて、人間のコミュニケーションのすばらしさ、可能性を読者に知ってもらいたいと願っています。

舌で「見る」

あなたの脳のはなし 神経科学者が解き明かす意識の謎 (早川書房)

 感覚代行の話、興味深かったです。

 

P238

 私が強調したいのは、私たちが使い慣れているセンサーには特別な意味や根本的な意味はないかもしれない、ということだ。それは進化を抑制されてきた複雑な過去から、私たちが受け継いだものにすぎない。私たちはそれに縛られているわけではない。

 こうした考え方を原理的に裏づける証拠としては、感覚代行と呼ばれるものがある。これは触覚を通じての視覚のように、ふつうでない経路で感覚情報を供給することを指す。脳はその情報をどうすべきか考え出す。なぜなら、脳はデータがどうやって入って来たかを気にしないからだ。

 ・・・最初の実例は一九六九年に《ネイチャー》誌で発表された。その論文で神経学者のポール・バキリタは、目の見えない被験者が―視覚情報がふつうとちがう方法で供給されても―物を「見る」ことができるようになると実証した。目の見えない人が改造された歯科医のイスにすわる。そのイスでは、カメラからの映像が腰を押す小さなピストンのパターンに変換される。つまり、カメラの前に円を置くと、被験者は腰に円を感じる。カメラの前に顔を置くと、被験者は腰に顔を感じる。驚いたことに、目の見えない人はその対象を解釈できるようになり、近づいてくる対象のサイズが大きくなるのも感じられた。彼らは少なくともある意味で、腰で見ることができるようになったのだ。

 これが感覚代行の最初の例であり、そのあと続々と発表された。最近ではこのアプローチが、映像データを音声ストリームや、額または舌への一連の軽いショックに変換するやり方としても具体化されている。

 舌へのショックの一例として、ブレインポートと呼ばれる切手サイズの装置がある。この装置は舌の上に取りつけた小さな格子(グリッド)経由で、ごく軽い電気ショックを舌に与える。目の見えない被験者は小型カメラを搭載したサングラスをかける。カメラのピクセルが舌の上の電気パルスに変換され、炭酸飲料のパチパチのように感じられる。視覚障害の人たちはブレインポートを非常にうまく使いこなせるようになって、障害物コースをうまく通り抜けたり、ボールをバスケットに投げ入れたりできるようになる。盲目のアスリート、エリック・ヴァイエンマイヤーは、ブレインポートを使ってロッククライミングをする。舌の上のパターンによって岩の角や割れ目を判断するのだ。

 舌で「見る」というのがおかしく思えるなら、視覚とはあなたの頭蓋骨の暗闇へと電気信号が流れ込むことにすぎないという事実を思い返していただきたい。通常これは視神経を経由して起こるが、ほかの神経を通って情報が流れられない理由はない。感覚代行が実証しているように、脳はどんなものでも入ってくるデータを取り込み、それをどう利用できるかを考え出す。

 ・・・

 ・・・

 脳が組み込めるようになれる信号の種類にどんな理論的制限があるのか、私たちにはわからない。私たちが望むどんな種類の物理的な体も、どんな種類の世界との相互作用も、可能かもしれない。あなたの延長が地球の裏側の仕事を引き受けたり、あなたが地球上でサンドイッチを食べているあいだに、月の石を採掘したりすることができない理由はない。

 私たちがもって生まれる体は、じつは人間性の出発点にすぎない。遠い将来、私たちは物理的な体を拡張するだけでなく、根本的な自己感覚も広げているだろう。新しい感覚を経験し、新しい種類の体をコントロールするとき、それによって私たちは個人として大きく変わる。私たちの身体適応能力が、感じ方、考え方、そして人となりの土台をつくるのだ。標準仕様の感覚と標準仕様の体という限界がなければ、私たちはちがう人間になる。私たちのひいひいひいひい孫は、私たちがどんな人間で、私たちにとって何が重要だったかを理解するのに苦労するかもしれない。歴史上のいまこの時点の人間は、近未来の子孫よりも石器時代の祖先とのほうが、共通点が多いかもしれない。

偏見とはどういうことか?

あなたの脳のはなし 神経科学者が解き明かす意識の謎 (早川書房)

 今の時代では難しそうな実験ですが、頭でなく体でわかる、貴重な教育だなと思いました。

 

P223

 一九六八年、公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キングが暗殺された翌日のことだった。アイオワ州の小さな町の教師ジェーン・エリオットが、クラスの生徒に偏見とはどういうことかを実地で教えることにした。ジェーンはクラスに、肌の色で判断されるのはどんな感じか知っているか、と尋ねた。生徒たちはだいたい知っていると考えた。しかし彼女は確信がなかったので、のちに有名になった実験を始めた。まず、青い目の人は「この教室でより優れた人」だと告げた。

 

ジェーン・エリオット 「茶色い目の人は水飲み器を使えません。紙コップを使わなくてはいけません。茶色い目の人は校庭で青い目の人と遊んではいけません。なぜなら、青い目の人ほど優秀ではないからです。この教室の茶色い目の人は、今日、襟をつけます。遠くからでも目の色がわかるようにね。一二七ページを開いてください。……みんな用意できた?ローリー以外はみんなできましたね。ローリー、いい?」

子ども 「彼女は茶色い目です」

ジェーン 「彼女は茶色い目です。みなさんは今日、茶色い目の人を待つのにかなり時間を無駄にすることに気づくようになりますよ」

 

 しばらくして、ジェーンが物差しを探してあたりを見回すと、二人の少年が声を上げた。レックスは物差しがある場所を彼女に教え、レイモンドは助け船を出すように言う。「ねえ、エリオット先生、物差しを先生の机の上に置いておくほうがいいですよ。茶色の人たち、茶色い目の人たち、が手に負えなくなったときのために」

 私は最近、いまでは大人になったその二人の少年、レックス・コザックとレイモンド・ハンセンとじっくり話をした。二人とも青い目だ。その日の自分の行動がどんなだったか覚えているか、と尋ねると、レイはこう言った。「私は友だちにものすごく意地悪でした。人より上に立ちたいがために、茶色い目の友だちをわざわざいじめました」。当時、自分の髪は完璧にブロンドで、目は真っ青で、「完璧な小さいナチでした。ほんの数分前、数時間前にはとても親しかった友だちに、意地悪をする方法を探したのです」と回想している。

 翌日、ジェーンは実験の条件をひっくり返した。クラスに次のように告げている。

 

「茶色い目の人は襟をはずしていいですよ。そしてその襟を、青い目の人につけてください。茶色い目の人は休み時間を五分余計にもらえます。青い目の人はどんなときも校庭の遊具を使ってはいけません。青い目の人は茶色い目の人と遊べません。茶色い目の人のほうが青い目の人より優秀なんです」

 

 レックスはその逆転がどんなふうだったか話してくれた。「世界を取り上げられて、打ち砕かれるのです。そんなふうに世界を打ち砕かれた経験などありません」。下に見られる集団にいたとき、レイは人格も自己もすっかり失った気がして、自分がまったくの脳なしに思えた。

 私たちが人間として学ぶ最も重要なことのひとつは、他者視点の獲得である。そしてふつうは子どもがそれをきちんと練習することはない。他人の立場に立つのはどういうものかを思い知らされると、それで新たな認識経路が開ける。エリオット先生による教室での演習のあと、レックスは人種差別発言に対して気を配るようになった。自分の父親に「それは適切じゃないよ」と言ったことを覚えている。レックスはその瞬間をなつかしく思い出す。それで認められたように感じ、自分が人として変わり始めたとわかった。

 青い目と茶色い目の演習の素晴らしいところは、ジェーン・エリオットがどちらの集団が上になるかを切り替えたところだ。そのおかげで子どもたちは大きな教訓を学べた。すなわち、ルール体系は恣意的だということだ。世のなかの真実は一定不変ではなく、もっと言えば真実ともかぎらないことを、子どもたちは学んだ。この演習は子どもたちに、政治的意図のまやかしを見破り、自分自身の意見をもつ力を与えた。それはまちがいなく、子どもたち全員に身につけてほしいスキルである。

 教育は大虐殺を防ぐのに重要な役割を果たす。内集団と外集団を形成したいという神経の欲求―そしてこの欲求をプロパガンダであおる計略―が理解されないかぎり、大規模な残虐行為を生む非人間化への道を断ち切ることは望めない。

 このデジタル・ハイパーリンクの時代、人間どうしのリンクを理解することはかつてないほど重要である。人間の脳は根本的に相互作用するように生まれついている。私たちは見事なほど社会的な種である。私たちの社会的欲求は操られることもあるかもしれないが、それでも人間のサクセスストーリーの中心に堂々と鎮座している。

 自分は皮膚を境に終わっていると、あなたは思っているかもしれないが、あなたの終わりと周囲の人たちの始まりを区別する方法はないと感じられる。あなたのニューロンと地球上のあらゆる人々のニューロンは、巨大な変化するスーパー生命体のなかで相互作用している。私たちがあなたとして定めているものは、大きなネットワークのなかのネットワークにすぎない。人類の明るい未来を望むなら、人間の脳がどうやって相互作用するかを研究し続ける必要がある―その危険と機会の両方を。なぜなら、私たちの脳の配線に刻み込まれた真実を避けることはできないから。私たちは互いを互いに必要としているのだ。

主導権は誰にある?

あなたの脳のはなし 神経科学者が解き明かす意識の謎 (早川書房)

 脳も、人間も、不思議だなあと・・・

 

P104

 あなたと私が一緒にコーヒーショップにすわっているとしよう。おしゃべりをしながら、あなたは私がコーヒーをすするためにカップを持ち上げることに気づく。その行動はごく当たり前なので、私がシャツにコーヒーをこぼしでもしないかぎり、ふつうは気にとめられることもない。しかし、認めるべき功績は認めよう。カップを口に運ぶのは至難の業なのだ。ロボット工学の分野ではいまだに、この種の仕事をスムーズに実行させることに悪戦苦闘している。なぜ?この単純な行動は、脳によって綿密にまとめ上げられている何兆もの電気インパルスに支えられているからだ。

 ・・・

 イアンは一九歳のとき、胃腸に来る流感が重症化したせいで、まれなタイプの神経障害に見舞われた。触覚だけでなく、(固有受容覚と呼ばれる)自分の手足の位置について脳に伝える感覚神経も失ったのだ。その結果、イアンは無意識に体を動かすことがまったくできない。筋肉はどこも悪くないにもかかわらず、これから一生、車いす生活を強いられることになる、と医師から告げられた。人は自分の体がどこにあるかわからなくては、どうしても動きまわれない。あらためて意識することはめったにないが、私たちは世界と自分の筋肉から受け取るフィードバックのおかげで、一日中刻一刻、複雑な動きをすることができるのだ。

 しかしイアンは、病気のせいで動けない人生を送るつもりはなかった。だから立ち上がって前進したが、目覚めて生活しているあいだずっと、自分の体の動きすべてを意識的に考えなくてはならない。自分の手足がどこにあるか自覚がないので、体を動かすには集中して意識的に決意しなくてはならない。視覚系を使って手足の位置を監視する。歩くときは、できるだけよく足が見えるように頭を前に傾ける。バランスを保つために、必ず腕を後ろに伸ばすようにする。足が床に触れるのを感じられないので、一歩の正確な距離を予想し、倒れないように踏ん張りながら足を床に下ろす。一歩一歩が意識によって計算され、調整されている。

 自動的に歩く能力を失ったイアンは、ほとんどの人が当たり前と思っている、ぶらぶら歩くときの奇跡的な筋肉の協調を、はっきり認識している。周囲の人はみな、とても滑らかに切れ目なく動きまわっているので、そのプロセスを制御している驚くべきシステムにまったく気づいていない、と彼は指摘する。

 ・・・

 ・・・人間の体の美しさだけでなく、それを見事にまとめ上げている無意識の脳の力にも、あらためて驚嘆してほしい。ごく基本的な動きでも精緻な細かい部分は、人の目に見えないほど小さい空間で行われている、人には理解できないほど複雑な何兆もの計算によって実現している。人間の脳力に近い性能をもつロボットは、まだできていない。そしてスーパーコンピューターは膨大な光熱費を食うが、私たちの脳は六〇ワットの電球ほどのエネルギーで、計り知れないほど効率よく、やるべきことをなし遂げる。

 

P138

 ありがたいことに、脳が計り知れないほど複雑であるということは、現実には予測可能なことは何ひとつないことを意味する。底に何列もピンポン球を敷いた水槽があるとしよう。球の一つひとつが、仕掛けられたバネ式ネズミ捕りの上で、微妙にバランスを取っている。上からもう一つピンポン球を落として、それが着地する場所を数学的に予測するのは比較的簡単なはずだ。しかし、その球がそこに当たったとたん、予測不能な連鎖反応が起こる。ほかの球がそれぞれのネズミ捕りからはね上げられることになり、それがまた別の球の引き金になり、すぐに状況の複雑さが爆発的に増す。最初の予測のエラーはどんなに小さくても、球が衝突して側面に跳ね返り、ほかの球の上に着地するうちに、どんどん拡大されていく。すぐに、球のある場所についての予測は、まったく不可能になる。

 私たちの脳はこのピンポン球の水槽のようなものだが、もっとはるかに複雑である。水槽には二、三〇〇個のピンポン球を収めることができるかもしれないが、あなたの頭蓋骨には水槽の何兆倍という相互作用が収められていて、あなたが生きているあいだずっと、刻一刻と弾み続ける。このような計り知れないエネルギーのやり取りから、あなたの思考、感情、そして決断が生まれる。

 しかも、これは予測不能なことの序の口だ。個々の脳は、ほかの脳がひしめく世界に埋め込まれている。夕食の食卓を囲む空間で、または講堂の隅から隅までで、あるいはインターネットのおよぶ全範囲で、地球上の人間のニューロンすべてが互いに影響をおよぼし、想像もつかないほど複雑なシステムをつくり出している。ということは、たとえニューロンが単純な物理法則にしたがっていても、実際には、個々人が次に何をするか正確に予測することは、つねに不可能なのだ。

 この途方もない複雑さから、ひとつの単純な事実だけは理解できる。すなわち、私たちの人生の舵を取っているのは、私たちが意識することもコントロールすることもできない力である。