アジア未知動物紀行

アジア未知動物紀行 ベトナム・奄美・アフガニスタン (講談社文庫)

 高野秀行さんの本、あ、まだこれ読んでなかった、と発見しました。

 今回も面白かったです。

 未知動物探索もさることながら、今この世界に生きていて、でも知らないところにいる人の話を聞けるのがうれしいです。

 こちらはベトナムでガイドをしてくれたフンさんのお話です。

 

P102

 ・・・フンさんはバナ族出身者のアニミズム的な部分とインテリのベトナム人としての知的な部分を合わせもっているので彼の話自体がおもしろい。

 なかでも、一般のベトナム人(キン族)とバナ族の人のどちらが好きかという、荒っぽい質問を意外にも正面から受け止めた答えは印象的であった。

 彼は言う。

「私は半分ベトナム人だけど、半分はバナ族だ。どちらもいいところとそうでないところがある。だけど、やっぱりシンプルなマイノリティの方が安心するかな。ベトナム人も親切なんだが、それにはいちいち意味があるんだ。例えば、お腹を空かせた人にご飯をあげる。旅人に宿を与える。そういうとき、ベトナム人は『功徳を積む』とか『仏教の教えだ』とか『困った人には親切にするのが人のあるべき姿だ』とか、いろいろ理屈がある。

 でも、少数民族はそんなことを考えない。お腹が空いている人にご飯を出したり、旅人を泊めてやったりなんて当たり前だから、そこに意味なんか何もない。そういうところがいいんだ」

 そう言って、フンさんは焼酎のグラスをくいっと空けた。

 うーん。また私は唸ってしまった。

肯定の笑い

うたがいの神様 (幻冬舎よしもと文庫)

 肯定の笑いをみんな欲してるのではないか、という視点、すばらしいな~と思いました。

 

P121

 ・・・今、自分の中で流行ってる遊びがあります。地域によってちょっと遊び方が違うと思いますけど、「じゃんけんぽいぽい、どっち引くの」という遊び。両手でグーチョキパーを出した後、「勝てる」と思うほうを残すのではなくて、「負けない」と思うほうを残すんですよね。そんな高度な判断を、瞬時に子どもの時にやっていたんだと気付いてびっくりしたんですが。この遊びには続きがあって、じゃんけんで勝ったほうが「あんたバカね、ビームフラッシュ!」みたいなことを言ってポーズをとる。負けたほうもその時に自由にポーズを選んで、同じポーズになったら負け。でも、僕としては、そんなポーズが合おうが合うまいがどうだっていいんです。

 じゃんけんの後、勝ったほうが「あんたバカね」と負けたほうに言う。その気持ちは分かるんですが、今の時代、そこで勝者の余裕があってもいいんじゃないですかね、ということです。だから、相手を否定するのではなくて、「あんたバカね」と言った後、普段思っている相手のいいところを言うっていうルールにする。例えばカップルの間でその遊びをやるんだったら、「あんたバカね。でも……いつもありがとう」「あんたバカね。でも……面白いとこが好きよ」と。この遊びを、「しゃべくり007」にゲストで出させてもらった時、出演者みんなでやったんです。ゲラゲラ笑って、ものすごく盛り上がりました。

 でも、これを10年前のテレビ番組でやってたら、「何やってんねん、おまえら」となると思うんです。ツッコミで「とっとと帰ってください」みたいな、スカシの「否定の笑い」がちょっと前までは笑いとしてきてたと思いますから。でも、やっぱり今は世知辛いから、むしろこういう「肯定の笑い」をみんな欲してるのではないでしょうか。この遊びが流行ったら、日本はもっといい国になると思います。「落とす」じゃなくて、「受ける」「認める」。その楽しさを伝えていくというのが、今のバラエティ番組の役割というと大げさですが、今の僕の、大事にしたい気分なんです。

友達

うたがいの神様 (幻冬舎よしもと文庫)

 この、友達ができた、という話も印象的でした。

 

P70

 この年になって、友達ができると思ってませんでした。

 以前、「市川海老蔵がやりたいことをやる」という番組があって、海老蔵が、「千原ジュニアに会ってみたい」と言ってくれて、そこに呼んでもらったんです。その番組の収録が完全に初対面だったんですが、会って話してみると、向こうのほうが年下だとか、どっちが先輩、後輩という感じがまったくない。「あぁ、こいつ好きやなぁ~」と思ってたら、収録の後、普通に二人で飲みに行って仲良くなって、そこからちょくちょく会うようになりました。

 海老蔵とはうまが合うというか、逆に「合わへん人もいっぱいいんねやろなあ」というのが分かる。僕もそうですから。

 それから、言ってることとかやってることが、〝置きにいってる〟感じがまったくない。周りの様子を見たりせずに、自分の感覚をフルスイングで押し出してくる、そこが好きですし、一緒にいて気持ちいい。一緒にいたら、僕もほんま頑張らなあかんなぁってなりますからね。刺激をもらう部分もあるんだと思います。

 ・・・

 僕は15歳でこの世界に入ったので、友達はほとんどいないです。・・・中学で僕は、ものすごい気持ち悪がられてたから、それまでにも友達なんかできてない。でも、一人だけ僕にしゃべりかけてくるやつがいて。小説では「アイツ」という書き方で出してますけど、この間うちのオカンから電話がかかってきて、・・・妹さんが・・・「お兄ちゃんが結婚するんで、サプライズで祝電を送ってもらえないか・・・って言いに来はったで」と。

 それなら、祝電と言わず、コメントをビデオで撮って送るって、送ったんです。そうしたら、またオカンから電話があって、「直接本人がありがとうございましたってお礼言いに来はったし、携帯番号教えてほしいて言うから教えたよ」って。その後、ほんまにそいつから電話がかかってきた。20年間も会ってないから僕はすっごい緊張して、「20年ぶりに友達と話すってどんな感じやろ?」って思ってたら、「おお~ありがとうなぁ!」とか言って、中学の頃とノリが一切変わってない。

 ・・・僕は35年生きてきて、ようやく友達が二人できました。

 

うたがいの神様

うたがいの神様 (幻冬舎よしもと文庫)

 まったく気づかず楽しく読んでいて、セレンディピティの話でようやく、あれ?この話知ってる?と・・・3年近く前に一度読んでました(;^_^A

セレンディピティ - シェアタイム

 でも今回は、違うところが印象に残ったので、書きとめておきます。

 こちらは「自分好きは自分嫌い」という話です。

 

P41

 珈琲、好きなんです。でも、めっちゃくちゃ珈琲好きですから、飲める珈琲がかなり少ないんです。「これが美味しい珈琲」という基準をはっきり持ってると、まずい珈琲は飲めなくなる。

 ・・・

 なんでもそうですけど、そんなに好きじゃなかったらラクです。だって珈琲飲みたいなって思ったら、自動販売機で缶コーヒーを買ったらいい。僕は、どっかでめっちゃ好きになってしまったから、もう自動販売機では買えません。

 ・・・

 例えばプロ野球選手は、我々よりも絶対野球好きでしょうけど、プロ野球選手が一番苦しんでいるものも、たぶん野球。そういう意味では、本当に野球好きなやつが、野球嫌いになることもあるでしょう。

 ・・・

 そういう意味では、自分もお笑い嫌いな部分はあるかもしれません。お笑いもあんまり好きになりすぎるといけません。だから無意識にバランス取ってるのかもしれません。「自分の笑い」をストイックに突き詰めていくと、そうじゃない笑いが嫌いになりますから。僕も若い時は「千原兄弟の笑いって何?」ということを突き詰めすぎで、すっごい先細りしてる時期があったけど、それやってるうちに笑い声が聞こえなくなった。そのことに気付いた時に「あれ、これちゃうな」と。結局、「笑い声が聞こえるものがおもろい」という判断になるから、笑いの缶コーヒーはごくごく飲むようになるんです。

 自分が良かったらいい、自分が旨かったら相手も旨い、というものではないですから、笑いっていうのは。誰かとのコミュニケーションですから。必ず第三者がいます。ただ、間違いなく言えるのは、「自分好きは自分嫌い」ということです。自分が好きすぎるから、自分にがっかりしたり、理想の自分じゃない今の自分を痛めつけたりするんです。自分を好きになりすぎないって、大事なことかもしれないです。

 

日々の暮らしの中から

ばあちゃんの幸せレシピ

 台湾のおばあちゃんと、著者のおばあちゃんの一言も、そして著者の姿勢も、いいなぁと心に残りました。

  

P150

 ・・・屏東で生まれ育った85歳の鐘黄喜妹(チョンフゥアン・シーメイ)さんのもとへ。夫婦で農業を営んでいたが、旦那さんに先立たれてからもひとりで畑仕事。

 ・・・

 喜妹さんは、「畑は大変だけど楽しいねぇ。毎日畑に行って、神様とお話しして、友達とお茶するの。毎日同じことの繰り返しだけど、神様が見ていてくれるから、長生きできるのね」と、目尻にとろけそうなほど柔和なシワを寄せる。厳しい土地で生きてきた人たちは、神様との距離が近い。戦争で焼け野原になった時代や物が無い時代を生き抜き、言葉少なくも「何も無い日々が楽しい」と穏やかに話す彼女といると、平和を作るのは、自分の在り方なのかと思えてきた。

 

P174

 ばあちゃんのレシピ集めを何のためにやっているのか。もっと広げるためには、ビジネスとして成り立つモデルであることや、拡散されるようなわかりやすさが必要だとたくさんの人たちから言われてきた。しかし、そうやってわかりやすくすることで私たちが失って来たもの、それこそがばあちゃんのレシピに象徴されていると思っている。高らかに主張したりお金や権力ばかり気にするのではなく、さまざまなことを受け入れながら、大切なものを引き継ぎ、絶やすべきは絶やす。そんなことを家庭から実践する。それこそが、言語は違えど出会ったばあちゃんみんなが語る普遍的に重要なことであって、かけがえのない財産であると思えてならない。

 ・・・

 現在88歳で今でもブティックを営み、今年の流行色を教えてくれる私のばあちゃんは言う。「人生はね、なるようにしかならないんだから、好きなことやったらいいよ」。だから頑張らなくていいっていう話ではなくて、人生にはどれだけ頑張ってもどうにもならないことがあるのだから、だったら自分が好きだなと思う方に生きていたらいいし、ダメならちょっと横に脇道を作ればいいということ。このばあちゃんの言葉はいつも私を自然体にしてくれる。

 

著者の中村優さんがやっているプロジェクトのサイトがありました

40creations.com

 

YouTubeにもなってました。


www.youtube.com

美しさとは、強さである

ばあちゃんの幸せレシピ

 たくましいなぁ、すごいなぁと驚きつつ読みました。

 

P146

 美しさとは、強さである。カウンター8席ほどしかない小さな焼き鳥屋で、ハッと背筋を伸ばしたり、涙を浮かべたりすることになるとは思わなかった。

 香川県高松市で、知る人ぞ知る伝説的な焼き鳥屋「なぎさ」の噂を聞いたのは、春のこと。・・・

 東京目黒で生まれた斎藤好子さんは、92歳。50代の時に高松に移住してひとりで始めたお店は、今に至るまでずっと年中無休、夕方5時にオープンして朝の6時にクローズする。

「今だって朝9時までお客さんがいることも多いわよ。毎日開け続けて、お客さんがひとりも来なかったことは35年間一度もないの。ありがたいわね」と笑う。日本舞踊は師範、卓球は全国大会出場、女優かと見紛うほどの美貌を持つ多才な好子さんが焼き鳥屋をひとりで切り盛りするまでには、映画が1本できるほどの壮大な人生模様があった。「水商売はね、主人と結婚して転勤した博多で人に騙されてね。仕方なく始めたのよ」。

 ママとなった好子さんは、そのスナックを博多で遊ぶ者なら知らない人はいないほどに育てた。「でもね、それもまた事件に巻き込まれて。結局、逃げるようにして高松まで来たの。警察や弁護士さん、それからコワいお兄さんたちにもずいぶんと助けてもらったわ。あんまり詳しくは言えないけどね」と含み笑いをする。「それでも、なんだかんだで乗り越えてきたの。高松に来たときね、360円しか持ってなかったのよ」・・・昔踊りを教えていた生徒さんから200万くらい借金をして始めたの。こんな小さなお店に1日に50人、60人もお客さんが来て、その借金は2年で倍にして返したわ。何があってもメソメソしたりはしなかった。主人や子どもたちにも、こういうことはあまり話してないの」。

 今でも好子さんのもとには、毎日色んな人が訪れる。良い人が多いのと言うけれど、子どもを抱いてお金を貸して欲しいと泣いてすがってくる人、連帯保証人になって欲しいと言ってくる人なども後を絶たなかった。そして気づけば、肩代わりをして出来た借金が2000万に。「人の借金は、やっと去年返し終わった。貸した人のなかには逃げた人もいるし、死んでしまった人もいるけれど、自分が承知して肩代わりしてあげたのだから仕方ないわね」。

 ・・・

 35年間開け続けたという店。一度、好子さんが入院したこともあった。そんな時は、地元のシェフや板前さんが代わる代わる店に立った。「夕方病院に迎えに来てもらってね、カウンターの端に座ってお客さんと話して、朝病院に戻るの。ひどい患者よね。みんなによくしてもらって、今がある。だから今も、もしも1日でも店を閉めたりしたら、何かあったんじゃないかって電話が鳴りっぱなしよ。だからずっと休めないのよ」

 ・・・

「大変だけど、私にとっては本当に幸せな人生。人に良くしたら必ず返って来る。これだけは自信を持って言える。我慢して損することはない。自分が磨かれていくからね」

ばあちゃんの幸せレシピ

ばあちゃんの幸せレシピ

 著者が旅して、そこで素敵なおばあちゃんを探し(ばばハントと呼んでます)、お話を聞きながら美味しいレシピも教えてもらう・・・カラフルな写真と共に味わい深いエピソードがたくさん載っていました。

 

P110

 手がかりもまったくないままに訪れた能登島だったけど、「この島初めての女性教育長がいる」と聞いて会いに行った。それが、過去の町長の娘であり網元でもあった石橋嗣子さん。その土地の歴史に精通した81歳。・・・

 体育教師だったばあちゃんは、愛情を込めて「つんこ先生」と呼ばれている。・・・

 生後8ヶ月のときに母が他界し、明けても暮れてもお酒を飲む父と漁師仲間の男性ばかりに囲まれて、自分の居場所がなかったのが苦痛だったと話すつんこ先生。

「子どもながらに精一杯知恵をつけて、嗅覚で世渡りを学んだの。だからここまでたくましく生きて来られた」。

 高校では砲丸投げの選手としてインターハイに何度も出場し、3年生のときに同じクラスだった旦那さんとのちに結婚。・・・「わしは爆弾と結婚したようなものだと思ってる」と、よく言われたものよ。我慢強くて思慮深くて、その我慢のひとつに私も入ってたかもしれないわね・・・

 つんこ先生は高校を卒業した後東京に行ったり七尾に行ったりして、能登島に戻って来なかったけれど、結婚していよいよ戻ることになった。「辛い思い出の多いこの島に戻るのは嫌だったけれど、仕方ないわね。・・・出ようとする度に大地震で家を壊されてしまったり、親が病気になったりして阻まれて。もう、出られないなら、ここでいかに楽しく生きるかって考えることにしたの。仲間と一緒に料理を提供するお店をやってみたりね。でもそれも少し軌道に乗ったときに交通事故にあったり、胃がんになったり。なんと素晴らしい人生かと思ったわね!」

 ・・・

「困難をはねのけて行くのもまた楽しいの。いかに上等じゃない環境の中で楽しく生き延びるか、人生は、そういうことなのよ」とさらりと言う。

 ・・・

 ・・・ばばハントを3年やってみて気づいたばあちゃんたちと私の決定的な違いは、人生に対して、そして生きる事に対しての気迫だ。「何があっても、どこであっても、楽しむ事を忘れずに着実に道を見つけて生き抜くんだ」。そういう覚悟と気迫。それを持った上で、「どれだけ頑張っても、人生にはなるようにしかならないこともある」と受け入れる覚悟すらも持っている。それに気づき、どうせ同じ人生なら私も気迫のこもった人生を歩みたいという感情が湧いてきた。私の人生は30歳にしてやっと少し本番になってきたようだ。