生きる喜び?

よなかの散歩 (新潮文庫)

 角田光代さんのエッセイ、楽しく読みました。

 これは「真の生きる喜びとは」というタイトルの文章で、すごい食欲、元気だな~と驚いたのですが、別のページには「私は人に驚かれるくらい少食だが」と書いてあって、???と再び驚きました。

 一口ずつしか食べてないのかしら?

 

P194

 先だって、伊勢(仕事)と群馬(休暇)にいってきた。そして「真の生きる喜び」についてしみじみ考えた。

 伊勢神宮の内宮前にはおかげ横丁という、江戸時代の門前町を模したテーマパークのような一角があり、私はここに一歩足をふみこんだとたん、体内の血という血が、ものすごい勢いで循環しはじめるのを感じた。あまりに興奮しすぎて、焦点がさだまらない。「あっ、あっちに団子屋が!あそこの魚屋では干物の試食が!伊勢豚の串を売っている!伊勢うどんってふつうのうどんとどう違うの!胡瓜スティックまで売ってる!日本酒までッ」と、視界をかすめるものを片っ端から言葉にして叫び、そのまま「キエー」と叫んで倒れてしまいそうであった。

 おかげ横丁は、コロッケだの豚串だの団子だの赤福だの薩摩揚げ風の串だのが至るところで売られ、さらにうれしいことに、ビールと日本酒も店頭で一杯売りされている、買い食いのメッカのようなところである。私はコロッケを食べ団子を食べ、卯の花ドーナツを食べ干物の試食をし、心の底から「生きるということは素晴らしい」と、思った。

 群馬はグループで温泉にいったのだが、高崎に着いて私たち一行が真っ先に目指したのは、おいしいと評判の蕎麦屋である。鬱蒼としげる木々のなかにぽつりと建つ、風情のある日本家屋で、小上がりに案内され、出汁巻き卵やら鴨焼きやらそばがきやら野菜の天ぷらやら頼み、冷酒で乾杯。この蕎麦屋、評判通り、出てくる料理がみんなおいしい。日本酒がきりりと冷えて、すうっと喉を通ってまたおいしい。窓から、風にそよぐ庭の緑が見渡せる。ときおりやわらかい風が吹き抜ける。ここでもまた私は「生きるということは素晴らしい」と、腹の底から思った。

 仕事や休暇で、ときたま日本各地を小旅行することがあるけれど、何がたのしいって食べることがたのしい。おいしい店も好きだし、屋台のちょっとした食べものも好き。絶景も、名所旧跡も、温泉も、私の場合、この「食べる」には僅差でかなわない。体内の血がごうごうと巡るのは、食べもの関係が充実しているときばかりなのだ。

 伊勢のおかげ横丁で、高崎の蕎麦屋で、私が感じたことは、私は立派なおばさんになった、ということである。私は若き日に、ともに歩く母が、デパ地下で集中を欠いて挙動不審になったり、旅先で花より団子状態に陥るのを見るにつけ、「ああいやだいやだ、おばさんにはなるまい」と思ったものだった。しかし今、思うのである。おばさんというのは、真の喜び、真の幸福に、じつに忠実な人種であるのだなあ、と。

 そして今の私にとってもまた、生きる真の喜びとは、建ち並ぶ屋台に、蕎麦屋のテーブルに、レストランのメニュウにある。そんなにちいさなことを真の喜びと感じる自分でよかったとも思う。真の喜びがあんまり大きいと、人生はけっこうつらくなる。立派なおばさんでいたほうが、きっと人生はひそやかに幸福なのだ。