恋するソマリア

恋するソマリア (集英社文庫)

 高野秀行さんのソマリアについての本、また読んでみました。「恋する」という位、ソマリにはまった高野さんの文章を読んでいると、どうにも次が気になります。

 本文から一部抜くのが難しかったので、どんな本か、枝元なほみさんの解説を少し、ご紹介したいと思います。

 

P336

 世界にはいろいろな国があって、いろいろな文化や宗教のもとにいろいろな考え方もあって、人の命の重さにも違いがある。わかっている、でもその茫漠と広がる世界を前に茫然と立ち尽くすときがある。ぬくぬくと暮らす自分のいる場所はいったいどこで、想像する事さえもむつかしい知らない価値観とどう向き合うのか、諍いの種が撒かれ続ける大地で何を育て収穫するのか。途方にくれてしまう。

 ・・・

 そんな沼に沈み込むような気持ちでいた時、この本で<恋>しちゃった人に出会ったのだった。高野さん、衝撃的!

 だって、状況をよんで怒りを表明したり外向的対処をウンヌンしたり冷静になるようにツトメルのでもなく、恋ですよ、恋!

 ・・・

 ・・・ついには高野さん、ソマリの家庭料理を習うことを熱望するようになる。

「思うのだが、いくら政治や歴史、紛争に詳しくても、ソマリの家庭料理を知らなければ『通』とは呼べないんじゃないか。なぜなら、ソマリ人でもソマリの政治や歴史、紛争をよく知らない人はいるが、家庭料理を知らないソマリ人はいないからだ」

 ソマリの家庭を訪ねたい、でもなかなか呼んではもらえない。

 客をもてなす時は徹底的にもてなすというのがソマリ人。ようやく招待してもらっても、見たこともないような非日常のご馳走が並び、しかもイスラムの習慣で、女性や子供は客の食事には加わらない。・・・

 ・・・

 だがようやく、新聞社の広い敷地内に住む管理人家族に料理を習うことが叶う。広々とした社屋の庭の隅、大きなアカシアの木陰の、ソマリ家庭料理教室。

 ・・・

 ・・・そのソマリの家庭料理の特徴は、<とにかく、てきとう。なんて自由なんだろうと皮肉ではなく感嘆してしまう>と高野さんは言うのだ。

 そうなんですっ!再び私はきっぱりと断言できる。てきとうなのも、自由なのも、日々を生きていく基盤に根ざすからだ。台所が主戦場の私は、深く深く納得する。

 私が一番好きな箇所は、料理教室が三日目になる以下の辺り。少し長いけれど、あまりに好きなので引用させてください。

「このように作り方があまりにてきとうなので、メモに書くことがいくらもない。三日目ともなれば集中力を失い、料理の途中で蓙の上に座ってぼんやりしてしまった。

―俺はどうしてこんなところでこんなことをしてるんだろう……。

 青い空を見上げ、市場で購入したラクダの干し肉をかじっては『焼酎が飲みたいなあ』と久しぶりに思った。

 あたかも外の喧騒から隔離されたかのような世界が広がっていた。この家のネコが肉ほしさに寄ってくる。それを隣家のネコが襲撃する。ニムオたちがそのネコに石を投げて追い払う。遠くでアザーンが聞こえる。小鳥が波動を描くように庭の上空を優雅に群舞する。

 香ばしい匂いをかぎながら、そんなドラマともいえないドラマを眺めていた。

 自分がソマリランドの一部になったような、安堵と不思議さが同居していた」

 ・・・

 人が生きる日々の暮らし<素の姿>につながりたい、という思い。

 政治宗教主義主張の大きな、上から下へのトップダウンではなくて、まず大前提として私たち、食べて生きていく人間という生き物なんだよ、という共通点から世界を見る、考える。そこには<自由>で<てきとう>な日々があり、<存在を受け入れる>おおらかな平和がある。・・・