100分de名著 ヘーゲル 精神現象学

ヘーゲル『精神現象学』 2023年5月 (NHKテキスト)

 きのうご紹介した本にヘーゲルの話が出て来て、「精神現象学」を読んでみたいけど手強そうだったので(;^_^A、100分de名著を頼りました。

 とても興味深かったです。

 

P8

 壮大にして奔放、難解にして破格。しかし、『精神現象学』は間違いなく今こそ読まれるべき一冊です。なぜならば、分断が進む現代社会において、意見や価値観の違う他者と共に生き、自由を実現するための手がかりが、『精神現象学』には書かれているからです。

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 ・・・ヘーゲルはこう問います。完全にはわかり合えない他者と、共に生きていくためには何が必要か。どうすれば分断を乗り越えて、自分や相手の自由や価値観を押しつぶすことなく、社会の共同性や普遍的な知やルールを構築することが可能なのか―そういった重要なテーマが「承認論」として論じられているのが、『精神現象学』なのです。

 

P23

 ・・・対立や矛盾を乗り越えて、合意しなければならないことはたくさんあります。そのためには、共有可能な「正しさ」がどうしても必要となります。それがヘーゲルのいう「真理」です。

 では、真理の創出はいかに可能か。科学哲学者の山口裕之さんは、共同作業によって「正しさ」をつくっていく過程は、ときに傷つきながら学び成長する過程であり、それは「今の自分を否定して、今の自分でないものになる」ことだと表現します(『「みんな違ってみんないい」のか?―相対主義と普遍主義の問題』ちくまプリマー新書)。私もこれに賛同したい。

 そして、学び成長しながら今とは違う自分になっていくという過程を「意識の経験の学」として展開している著作こそが、『精神現象学』なのです。ちなみにこの叙述法は、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』に代表される当時の教養小説のスタイルに影響を受けています。私たちは最初からなんでも知っているわけではなく、失敗し学び捨てながら、新たな知を紡いでいく。『精神現象学』は「学び方」を学ぶ本といってもいいかもしれません。

 では、「意識の経験の学」とは、どういうことか。・・・

 ヘーゲルのいう「意識」とは「何かを知っていること」、あるいは「何かを知っている状態」だと考えるとよいでしょう。

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 ・・・それぞれの意識は「自分の見方こそが正しい」と確信しています。だから最初は、みずからの知に強く固執する。ところが途中で、意識は「今のままでは世界をうまくとらえられない」と、自分の知の一面性や矛盾に気づきます。

 すると、当初の確信は大きく揺らぎます。そして、もっと別の見方を獲得していこうともがき、苦しみながら新たな姿へと意識が生まれ変わっていく。・・・それによって、世界を多角的、全体的に見られるようになっていきます。その過程を分析したのが「意識の経験の学」であり、『精神現象学』なのです。

 正しいと確信していたことが、もしかすると間違っていたかもしれないと疑いはじめる。そんな経験は誰にでもあるでしょう。・・・ヘーゲルが重要視したのは、この「自分を疑う」という経験です。・・・

 ・・・自分を疑って自分の間違いに気づくことを、ヘーゲルは「絶望のみちすじ」と呼びました。・・・つまり、自分が正しいと思っていたことが正しくなかったというショッキングな経験が、意識にとって成長の糧になるのです。

 

P31

 AでもBでもない、両者を統合したまったく新たなCに移行していく。このCに移行することを、ヘーゲルは「アウフヘーベン」(日本語では「止揚」)と呼んでいます。

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 自分の知が否定されるような矛盾に耐えて考え抜き、悪いところは棄て、良いところは残しつつ、より高次の知を生み出していく―。それこそがアウフヘーベンであり、そのための思考法としてヘーゲルが定式化したのが弁証法です。

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 ・・・対立や否定性は、自由で自立した個人からなる近代社会の特徴なのです。したがって、矛盾や対立を完全になくそうとするのではなく、むしろそれを根本原理としなければなりません。つまり、意見が完全に一致することのない社会で、相手を全否定したり、排除したりせずに、協力して、自由な共同性を構築することは、どうすれば可能になるのかを問わなければならないのです。

 これがヘーゲルを悩ませた難題です。そして、『精神現象学』で辿り着いた答えが、「相互承認」でした。・・・

 

P48

 個をベースに社会をとらえていくと、社会は「私」の自由を制限する、基本的に邪魔な存在となります。トマス・ホッブズの有名な「万人の万人に対する闘争」がその象徴です。そしてホッブズは、社会における他者との共存のためには、リヴァイアサンという強い主権のもとで、個人の自由を制限しないといけないと考えたのです。

 でも、本当に他者は邪魔な存在でしかないのか。「私たち」なき「私」など存在しないのではないか。ヘーゲル個人主義モデルの限界を指摘し、「精神」という次元の重要性と明らかにし、『精神現象学』にまとめました。

 ・・・ヘーゲルによれば、個々の「私」は「私たち」のもとでさまざまな認識や知を獲得し、「私たち」の次元でこそ自由を実現できるといいます。つまり、知の獲得や自由の実現には、他者との協働が不可欠なことを示したのです。

「精神」章においてヘーゲルは、社会のなかで多くの他者と交わり、影響を受けながら、「私」が「私たちのなかの私」として成長していく過程を描いています。ここにこそ、ヘーゲル哲学の画期性があるのです。

 デカルトやヒューム、カントを読んでも、他者との関係において知が形成されるという視点や発想はあまり見られません。これらの思想家たちにとっては「私」がまずあって、そこから付随的に他者との関係が出てくるのです。

 そうした個人主義を、ヘーゲルは徹底して斥けます。むしろ「私」が私であるためには、「私たち」の一部でなければならない、と考えます。つねに人間は他者と共にあり、その関わりのなかで生きている。「私」と「私たち」は切り離せない。こうした事実を、ヘーゲルは精神という言葉で表そうとしたのです。

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 ・・・意見の対立が差別や排除を生んでしまう場面も多々あります。なので、どのようにすると対立を調停し、他者と自由な協働関係を取り結ぶことができるのかが問題になります。これに取り組むのが「精神」章なのです。

 

P59

 ・・・真っ向から対立するような意見にも学びながら、私たちは事態を多角的にとらえる必要があります。なぜならば、・・・対立する見方は、「そのいずれにしても、本質的な契機であることにかわりはない」からです。

 多角的に事態をとらえるためには、自分が是としていること、善だと思うことが単なる「思いなし」や「先入見」ではないかとつねに疑ってみる必要があります。すると、この世に疑えないことはないと思えてくるかもしれません。私たちは全知全能の神ではないので、すべての認識はなんらかの形で間違っている可能性があるからです。実際、「絶対正しい」ことなんて、そう簡単に思いつかないですよね。この有限性を受け入れるのが「純粋な教養」の立場です。

 

P129

 先に引用した文章のなかに「相互承認が絶対的な精神である」という一文がありました。これまでの記述からもわかるように、この「絶対精神」も、つねに新たな知に開かれている精神のありようを指しています。「絶対知」や「絶対精神」を全知全能の神の視点として誤解する人が絶えませんが、それはヘーゲルが考えていたこととは正反対なのです。ヘーゲル哲学のエッセンスは、神が死んだ近代という時代における人間の有限性の肯定なのですから。

 こうして、意識は長い旅路の末に、絶対知に辿り着きました。さあこれで一件落着かというと、実はそうでもありません。というのも、相互承認は強制できないからです。

 相互承認は「自分も間違っていた」と認める態度なので、自分から進んで疑い、絶望し、学ばなければいけません。これは難しい。私たちは自分を棚に上げて「あなたは間違っている」と指摘したり、糾弾して黙らせたりはできますが、そんな批判に直面した相手はむしろ態度を硬化させ、口先だけの約束で欺いたり、決別を宣言する可能性もあります。

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 協働の負担を嫌がる人たちは、対立する相手と議論したり、「なぜ彼らはそう主張するのだろう」と想像力を働かせたりする代わりに、「あいつらは話のわからないバカだから」と斬って捨てます。時間も手間もかかるだけでなく、自分も傷つくことのある他者との協働の道を選ぶか、「バカは相手にならん」と自分たちの価値観に閉じこもる道を選ぶか―その選択は私たちの「自由」です。・・・