心はすべて数学である

心はすべて数学である (文春e-book)

 数学の知識がないので、わからないところが結構たくさんありました(;^_^A

 それでも興味深く感じたのが面白いです。

 

P8

 コミュニケーションにおける脳活動を調べると、私と他者の区別はそれほど明確に確立されたものではないということを知るようになります。むろん、私の身体を支配しているのは私の心であり、他者ではないことは明白なように思われますが、本来は、私の心は他者の集合体として発展してきたと考えることもできるのです。私たちは生まれる以前、胎児の段階から外界の情報を感覚することができます。すでにこの段階から他者から発せられる情報が、まだ未熟な脳に刺激を与え続けます。さらに、生後においても、周りの人たちや自然や人工物などの環境から発せられる情報によって脳は発達していきます。つまり、脳は他者の意志や志向によって発達していくのですから、他者の心が私の脳を発達させていると考えてもよいでしょう。こうやって行くうちに、だんだんと自我意識精神というものが構築されてくる。

 このように他者の心によって構築された私の心は、また異なる他者によって構築された別の人の心と無関係であると考える方が蓋然性が高いように見えますが、しかし何か共通普遍項があるようにも見えます。そこで、共通普遍項として〝抽象的で普遍的な心〟というものを仮定し、それが個々の脳を通して表現されたものが個々の心だと考えてみることにしたのです。するとこの〝抽象的で普遍的な心〟が脳を発達させ脳活動を変化させ、その脳の構造や活動状態の変化を通じて個々の心が表されるという考えに至ります。ここで、抽象化された「普遍的な心」とは何か、どこから来るのかという問いが発せられるでしょう。私はこの抽象化された普遍的な心こそ、数学者が求めているもので、数学という学問体系そのものではないかと考えるに至りました。

 本書では、この意味で数学は心だというテーマを扱います。この言明の数学的証明はできませんが、それでもこの言明は真であると信じる根拠がいくつもあります。それを説明するためにカオスの超越的な性質、科学的合理性の問題、複雑系科学の本質、脳の機能、特に記憶、思考・推論、感覚・知覚などの問題の中に数学的真理が埋め込まれていることを見ていきます。話題は多岐にわたっているように見えますが、全ては「数学は心だ」という命題が意識されています。

 

P54

 「私」はいつ生まれるのか

 読者の皆さんは何歳くらいからの記憶があるでしょうか。・・・私の観察は次のようなものです。3歳くらいより以前の記憶はあったとしてもスナップショット的な記憶であって、3歳以降になって記憶が少し連続的というか、エピソード的な様相を呈してくるのではないか。これが正しければ、自己は3歳以降になって明確になってくるのであって、それ以前ははっきりとした自己はなく、自己形成の核になるような原初的な自己と外界から入り込んだ他者が独立して存在する時期、次いで他者が原初的自己を制御する時期、さらに他者と原初的自己が統一され、いわゆる自己が形成される(と意識させられる)時期があるように思われます。

 こうして自己ができたのちに他者とコミュニケーションすると、自己の脳はさらに変わっていきます。つまり、コミュニケーションのイメージとしては、自己という確立されたものがあってそれが相互作用するのではなく、ある程度確立されていながらもまだまだ十分変化する余地がある自己が相互作用する、というダイナミックなものです。そしてそれぞれ変化する余地のある脳は、コミュニケーションを通じてさらに変化していく。つまり、他者の心によって自分の脳がまた変化していく。

 何人もの他者の心が入り込んだ「集合的な心」、コミュニケーションを通じてダイナミックに変化していくもの―脳とはこういうものであると考えると、「脳の活動が心を表現している」というように現象的には見えていても、やはり順序としては逆ではないか、原因はむしろ〝心〟のほうにあるのではないかと考えられる。

 つまり、他者の心からなる「集合的な心」のようなものがあって、それが個々の脳を通して「私の心」として表現されていく、ということです。この現れ方の違いが、私たちの個性でもある。すると、「脳とは集合的な心を個々の心に落としこむための生物学的な器官である」ということになります。個々の脳が作り出すのではなく、他者による心が私の脳を作る。脳の独特の構造によって各々の心が表現される。だから自己とは他者を表現したものだと考えられるし、集合的な心をそれぞれの脳が「自分の心」として変換している、そんな感じがするのです。