宇宙のカケラ

続・宇宙のカケラ 物理学者の詩的人生案内

 東急線沿線に置かれているフリーペーパーSALUS。最後のページの佐治晴夫さんのエッセイは、印象に残るものが多いです。

 最近のSALUSに、書きとめておきたいところがありました。

 

SALUS Aug.2023

Vol.89 すべてがつながっているという不思議

 小さいころ、森の木々を見て、土の下はどうなっているのだろうと考えたことがありました。ひょっとしたら、互いの根同士がからまって、お話でもしているのではないかと思ったりしていました。また、当時は地下鉄といえば、東京では銀座線1本でしたが、普段は見えない都会の地下構造が気になったりもしていました。そんなことで、目に見えるものは、目に見えない膨大なものに支えられて存在していることを学んだように思います。ということは、今、これを書いている私は、読んでくださる皆さんとつながっていて、時折、私の背中を押して、書かせている誰かがいるのではないかと思う一瞬もあるのが不思議です。そういえば、茨木のり子さんの「小さな渦巻」という詩を思い出します。その中の一節です。

 

 ひとりの人間の真摯な仕事は 

 おもいもかけない遠いところで

 小さな小さな渦巻をつくる

 

 それは風に運ばれる種子よりも自由に

 すきな進路をとり

 すきなところに花を咲かせる

 

 考えてみれば、私たち一人ひとりの存在は、大きな生き物の1つの細胞のようなものです。

 ところで、熱いみそ汁をお椀に注いで大きくかきまわし、そのまま放置しておくと、最初はみそ一色だった表面に渦ができ、最終的には夏みかんの粒々のような模様ができます。物理学では❝散逸構造❞などと呼ばれているもので、表面が冷えることで生じる対流が原因となって組織化します。エネルギーの流れがあるにもかかわらず、定常状態ができるという現象で、混沌からの宇宙創生や、生命の発生、集団の組織化などのモデルになっています。この状態で一部に小さな擾乱を与えると、組織が再配列し始めます。これは、組織という集団の中で生きる私たちに、ひとつの知恵を授けてくれます。たとえば、人生にとっての一番のストレスは、一言で言ってしまえば、❝思い通りにならない❞ことでしょう。その要因は特定される場合もありますが、大方は、はっきりした因果関係がわからない場合が多いようです。そんなとき、自分自身の立ち位置や立ち居振る舞いをほんのちょっと変えてみると、事態が好転することがあります。他者を変えようとするより、自分を少しだけ変えることのほうが消費エネルギーが少なく、効率的です。私たちの体の多くの部分が、生命維持のためにいつも入れ替わっているのも、まったく同じ理由なのです。

 

SALUS Sep.2023

Vol.90 現象としての私たち

 わたくしといふ現象は

 仮定された有機交流電燈の

 ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

 風景やみんなといっしょに

 せはしくせはしく明滅しながら

 いかにもたしかにともりつづける

 因果交流電燈の

 ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 

 これは、宮沢賢治が、終生ただ一冊の詩集として1924年に世に出した『春と修羅』の序文の書き出しの部分です。今、あらためて読んでみると、およそ100年も前に、現代の世界観、人間観を先取りしていることに驚かされます。私たちは、自分という存在が、他の何者でもない独立した自分であるという確信のもとに日々生きています。しかし、考えてみれば、私たちの体を含めて、すべての存在は宇宙誕生によって形成された原子分子の集合体であり、その組み合わせのわずかな違いが個人をつくっています。しかも細胞レベルで考えれば、それらは、生成消滅を繰り返していて、有機物で構成される体全体も自然界の循環のなかにあります。あたかも有機交流電燈が明滅しながらともっているかのようです。言い換えれば、私たちは、目に見えないたくさんのものとかかわり合いながら存在しているという意味で「透明な幽霊の複合体」であり、存在しているというより、❝現象している❞と言ったほうがぴったりなのです。しかも賢治は、それをひとつの青い照明だと言います。この❝青さ❞とは、人間が他の動物と違って、みずからの終焉を予測できるからこそ生まれる永遠世界への憧れの象徴の色だったのでしょう。さらに、それは、はるかなる昔、私たちの祖先が見上げたどこまでも深く続く蒼穹の青さが源泉だったのかもしれません。ここで、ふと思い起こすのが、世界を構成する要素の相互依存関係を表すとされる華厳経のインドラの網が放つ青い光です。網の結び目にある無数の珠玉は互いにほかを映し合い、世界全体が映し出されているという網です。つまり、❝わたくし❞のなかには、世界のすべてが映し出されており、❝わたくし❞もまた、その意味で世界全体の担い手のひとりだということです。とすれば、日々の生活のなかで、自分を見失いかけたとき、ほんのちょっとだけでも、自分のほうから周囲の風景や他者に心を開いてほほ笑みかけてみると、それが連鎖となってインドラの網を照らし、その光が明るみへの道しるべになることを賢治は教えてくれているようにも感じます。まず自力、それが巡り巡って他力となり、明るい未来をもたらしてくれるようです。