品のある、やさしさのある文章で、すてきだなと感じました。
P17
・・・昼飯時にデパートの上階にあるレストランフロアの鰻屋に入ったところ、低い衝立を隔てた隣の席で六人ばかりの老人グループが食事をしながら歓談している。男性ばかりで、ネクタイを締めている姿は見当たらず、髪は白かったりほとんどなかったり、といったメンバーが楽しげに語り合っているのだが、うちの二人は補聴器をつけている。
そういう席の常として、他よりやや高い声で陽気に一座をリードする者があり、それに相槌を打ったりチャチャを入れる者がいる一方、にこにこと笑いながらほとんど口を開かない老人もいる。少年時代から、こういった役割分担は変わらないのではあるまいか、と思わせる雰囲気が穏やかに漂っている。
話題はとりとめもなく、酒が飲めなくなった、とビールのコップを口に近づけながら呟く者がいる傍らで、甘い物についての好みを弁じ立てる者がいる。昔の話に花を咲かせるふうもなく、ただ漫然と現在の健康状態や暮しぶりについて語り合っているだけなのに、皆の背後に暗黙のうちに学校時代という共通の過去が横たわっている印象を与えられる。
そんなグループが、あたかも自然現象のように、街のあちこちで目にとまる。
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・・・この七十代後半あたりを中心にした男性達の午後の群れには、なにやら独特の空気がつきまとう。時には賑やかな笑い声がたつこともあるけれど、総じて穏やかで、どこかひっそりとした長い影を引いているようなところがある。街に顔を出せるのだから元気ではあるのだろうが、聞いてみれば誰も一つや二つの健康問題を身に抱え、検査中であったり、経過観察中であったりもする。
妙に張り切り過ぎず、慎ましやかで、陽気ではありながらも動きの鈍いその種の群れに、同世代者の一人として親しみを覚える。お元気で、と声をかけ、また来年会いましょう、と挨拶を送りたい気持ちが静かに動く。
P104
歳を重ねるにつれて起る我が身の変化には様々なものがある。その捉え方として大雑把に肉体と精神に分けて考えると、肉体の変化は比較的わかりやすいのに対し、精神の変容は容易に摑みにくいような気がする。
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まず老いによる精神面の単純な変化としては、物忘れの激増や勘違いの頻発があげられる。物忘れの激しさはほとんど暴力的であり、人名、地名はもちろん、口に出そうと思っていた固有名詞などたちまちどこかへ隠れて消えてしまう。
物忘れよりはやや少ないかもしれないが、勘違いの害も見落とすわけにはいかない。何かを覚えているのは確かであるのに、その内容を間違えて覚えてしまっている。確信があるだけに始末が悪い。これは物忘れの裏返しのようなものかもしれないが、どちらも正当な方向を見失っている点では同罪だ。しかも、その二つが重なって生起する場合もある。
何かがなくなって、探さねばならないことになる。ここでまず問題となるのは、しまった場所を忘れている点である。・・・
そして少し経ってから、前に探していたものを偶然発見する。考えていたあたりとは違う別の場所で発見する。そして驚くのは、置き場所を忘れて必死に探していたそれは、実は他のものと勘違いをしていたのであって、いざ出て来ても役に立たない次第となっている。記憶の消失と誤信とが線路上ですれ違いでも起したようなものかもしれない。混乱の中で物忘れの鬼がくすくす笑い、勘違いの河童が奇声をあげて囃し立てるのに出会ったような思いが残る。どちらか一方だけの失敗であればまだよかったのに、と唇を嚙む。つまり、精神はかくの如く弛み、張りも艶も失っている。これは若い頃はなかったことだ。
ところで、本当はその先が大事なところではないか、と秘かに考える。若い頃にはほとんど出合わなかった、その種の物忘れや勘違いが一面に広がる砂漠に立つと、そんなことは騒ぐほどの問題ではない、よくあることなのであって、どちらに転んでも大した違いは現れないさ、と雲の鼻唄のような声がどこかから聞えて来たりする。どっちでもいいよ、どっちでもいいさと繰り返すうち、本当に些事にこだわるのはつまらぬことだ、という気分がふと生れ、どんどん育ち始めているのを感じる。物忘れも良ければ勘違いも悪くない、と考えるうちに、周囲に穏やかな光が溢れてくるのに気づく。
これは若い季節の脂ぎった精神には容易に望めぬものであり、物忘れや勘違いや思い込みに溢れた老体の精神のみが生み出すことの叶う境地なのではあるまいか。・・・