それからの僕にはマラソンがあった

それからの僕にはマラソンがあった (単行本)

 松浦弥太郎さんが「暮しの手帖」の編集長になってから、忙しさのあまり帯状疱疹になってしまい、ストレス発散のためにマラソンを始めてみたところ、すがすがしい疲れ方を感じられたというお話です。

 すがすがしい疲れ方って、言われてみると、健康にとてもよいなと思いました。

 

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 物ごとというのは、たいてい八割までは、がんばった成果が順調にかたちになってゆきますが、そこから先は別次元になります。今までは着々と右肩上がりで伸びてきたものが、八割まで達すると、そこに止まったままの状態がずっと続くのです。そして、それに飽きてしまう自分がいます。

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 ・・・八割のその上に行くにはどうすればいいか。・・・

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 上の世界に行くためには、まずその存在を知っていなければなりません。ふつうの人は世界は八割までしかないと思っている。そういう状況のなかで、残りの二割が存在しているということを知ることができるかどうかが大きなポイントになってきます。センスや好奇心がないかぎり、あるいはよっぽど親切な人がいて教えてくれない限り、上の世界の存在を知ることは無理なのです。

 本来、八割から上の世界こそ、とても素晴らしいものです。走ることに限らず、どんなことにおいてもそうです。

 僕は、ランニングでも、八割よりも上の世界を学びたいと決心しました。そこにはいろいろな学びがあったのですが、「走ること」においての八割よりも上の世界は、「速く走る」、「長い距離を走る」あるいは、「マラソンをする身体を作る」などといったことではありませんでした。

 それは「美しさ」ということでした。

 もしもそれまでの僕の走りについて、「きみのやっていることは美しいのか」と聞かれたなら、それは美しくもなんともなかった。ただ、ある程度のペースである程度の距離を無理なく走ることができているというだけだったのです。

 ほかのひとの走りを見て、正しいフォームを学んでいるつもりでしたが、自分の走りをどういうステージに持っていきたいかということまでは考えていませんでした。自分でイメージしていたのとはうらはらに、周囲から見ればまだ、必死になってバタバタ走っているだけだったのでしょう。

 ランニングに限らず、仕事においても八割程度のできばえでは、たいてい「美しさ」というものはありません。

 もっと高い世界をめざすには「美しさ」がなければいけないということに、気がつくことはできましたが、では美しく走るにはどうすればいいのでしょうか。

 そこでは距離やタイムは関係ありません。美しく走ることにひとつの価値を見いだし、そのひとつひとつを学んで訓練を重ねていく。今までのやり方とはまったく別のメニューを組み立てて、再び積み重ねていく―その時点で、五年続けていた僕のマラソンは、そこにたどり着きました。

 ある一定の成果にたどり着いたとき、次は美しさを求めるというのは、仕事にも暮らしにも共通していることだと思います。

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「美しさ」というのは、あらゆることの究極的な原理であり、原則であると思います。少しばかりかじったくらいでは見えてこないのが美しさです。走り始めたばかりのころには「美しさ」を意識することなどありませんでした。アルバイトを始めたばかりの人は、「自分は美しく仕事をしよう」とは夢にも考えないものです。

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 美しさは、偶然出会った何かがきっかけになって手に入るというほど、簡単なものではありません。ましてや、どこかで落ちているものを拾ってきたりするようなものでもありません。

 では、どこから来るかというと、やはり、経験の蓄積から答えが出てくるのです。肝心なのは日々考え続け、悩み続けることです。ずっと考えて、その考えを進めていくためにいろんなことを経験する。そうすると結局、素直にならざるをえないのです。

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 どうしてこんなに「美しさ」を求めるのでしょうか。

 誤解を恐れずに言うならば、美を追求するかしないかで、成功するかどうかが決まると思ったからです。

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 僕は走ることをとおして、八割より先の世界があるということが、多くの事柄に共通していると気づきました。もしかしたら走らなくてもそれに気づいたのかもしれませんが、走ることでよりはっきりと発見したのです。「走ることも仕事をすることも、家事をやることも人間関係も、どんなことでも八割より先を見てこそ本当のクオリティーが発生する」と。