ヤマザキマリさんのエッセイです。
破天荒な?お母さんのエピソードを含め、いろいろ印象に残りました。
P28
私はかつて中東のシリアで暮らしたことがありますが、カラカラに乾燥した荒地がどこまでも続く世界では「厳しい環境でないと育めない精神の美しさや、味わえない感動がある」ことを知りました。
人生の苛酷さというものには、砂漠であろうと都会のまん中であろうとどこかで必ず突き当たるものですが、それと同じくらい、この地球には感動的要素も溢れています。一番単純で基本的な「生きる喜び」の見つけ方は、地球の贈り物を一つ一つ感じ、味わうことなのかもしれません。
私の母は、あらゆるものに「素晴らしいじゃないの」「きれいねえ、すごいわねえ」と感動する人でした。美しい夕焼けを見ただけで「泣けてくるじゃない。地球ってなんてすごいんでしょう。こんな惑星に生まれてきて良かったわ」などと、いきなり地球レベルの大仰なスケールで感動を語り出すこともありました。
P38
・・・経済問題の先を行くのがアメリカです。リーマン・ショック後の経済の悪化によって家を失った何万人もの、主に高齢者が、「ノマド」(季節労働をしながら車で放浪する生活者)と呼ばれる漂流生活を送っているとされています。
所持品一式を車に積み込み、Amazonの物流センターや公園清掃などで日銭を稼いで生きていく。70代になっても、肉体労働は当たり前。
2021年の米アカデミー賞3冠を得たクロエ・ジャオ監督の映画『ノマドランド』はまさにそうしたノマドの生き方を主題にした作品で、出演者はほとんどが実際のノマドでもあることから、彼らの生き方の実態がよくわかる内容になっていました。
ノマドたちは、社会にも他の誰かにも依存せず、自分の命を、誰かに委ねるわけでもなく、自分一人で守っています。・・・
実在の、がんを患っている老女のノマドは、身ひとつで死ぬことに向かって持ち物をどんどん売って断捨離をしていきます。生きることへの執着やしがらみから解放されて自由を掴む存在として印象深かった登場人物の一人でした。
フランシス・マクドーマンドが演じる60代のヒロインのファーンは、家族もあり立派な家で暮らす妹に「一緒にこの家で私たち家族と暮らそう」と説得されますが、断って去っていきます。人生の新たなパートナーと家が得られそうな境遇になった時ですら、その機会を見送ってしまうので、多くの視聴者は「せっかく幸せになれそうだったのに、なぜ……」と疑問を抱いたことでしょう。自分たちの幸せの価値観は決して全ての人と共有できるわけではないということを、ファーンの行動によって痛感させられるシーンです。
こうして一般概念における〝幸福な人間のあり方〟に背き、再びバンを走らせて向かった先は雨の吹き荒ぶ海辺の崖っぷちでした。彼女が嵐の中、そこに立って空を仰ぎ見ながら大きく手を広げるシーンを見て、私は深く納得することができました。孤独を受け入れ、孤独とともに、自由に元気に生きていく。・・・
自由とは決して楽なことでも素敵なことでもありません。・・・時には社会に拘束されない生き方が人から疎まれるということも、この作品でははっきり表現されています。・・・
P95
母が亡くなった時、悲しみに打ちひしがれるわけでもなく、毅然とその状況と向き合い、母との思い出も穏やかな幸福感と、時には笑ってしまうようなおかしさを感じることはあっても、ちっとも大きな喪失感に陥らない自分が不思議でなりませんでした。・・・
それは恐らく、母が自ら携えているあらゆる感受性、あらゆる可能性、あらゆる好奇心と行動力を常にフル稼働させ、後ろ向きになることなどなく命を謳歌してきた人間だったからかもしれません。・・・母が残していったのは、これからを生きる私たちへの前向きなエネルギーだけでした。
・・・体はもとより、喜びも悲しみや苦しみといった、人としてのあらゆる感受性を全て使いこなし、音楽という世界に本人にできる限りの全てを捧げて生きてきました。母のように人間をエネルギッシュに生きた人と同じ時代を共有できたおかげで、私も随分いろんな目に遭いつつも、散々な思いを重ね人間社会に嫌気がさしても、生きることをこれまでこうして頑張れたのだと思っています。なので、彼女の死に大きな喪失感を覚えたり、打ち沈むことがないのだと思います。