手ぶらで生きる術

手ぶらで生きる術 忘れ上手は生き方上手 (竹書房新書 12)

 昨日に続き、桜井章一さんのエッセイです。

 こちらの本も、印象に残ったところを書きとめておきます。

 

P39

「なんとなく」というと、感覚だけのあやふやなものであまり良くないものだと思われがちですが、私はこの「なんとなく」を大事にしています。

「なにげなく」という言葉でもいいかもしれませんが、ともかくアバウトでいるという感覚が私にとってはとても大事なことなのです。

 その感覚を意識的に持って「だいたいこのくらい」とか「約このくらい」といったスタンスでいること。なぜなら、なにもかもハッキリさせると「絶対感」になってしまうからです。「絶対感」を持つことは一番ヤバイことで、怖いことなのです。

 たとえば麻雀をする場合、ふつう相手の牌は見えません。しかし相手の打ち方を見て、私には相手がなにを持っているかが見える。もちろん視覚的な意味ではなくて「多分こういう状態だろう」ということが感覚で分かるということです。これは、ある意味では妄想的かもしれません。しかし実際にその妄想がたいがい当たっているのです。

 この「分かる」感覚を、明確に言葉にして説明するのは難しいことです。一つ確実に言えることは、そういう「分かる」という感覚は、この「なんとなく」の感覚で物事を見ないとつかめないということです。

 絶対こうだ、という「絶対感」で進んでいくと、気がつくと足をすくわれていた、ということも起こりかねません。

 カッと目を見開いて一つの事柄を凝視するのではなく、なんとなくボーッと全体像を見ながら、360度立体的な感覚で把握しているほうが、物事というものは理解できるのです。それが「分かる」感覚をつかむことに繋がるのです。

 ・・・

「なんとなく」は、自然を見ると理解しやすいかもしれません。

 木が育つには、水だけでは駄目です。水も必要だけど太陽も風も土も必要になる。そんないろんな要素が必要であるという360度の感覚で見ていくと、中心にある大事なものがすっと浮かび上がってくる。それが「なんとなく」の感覚なのです。

 

P123

 この間、私は家でテレビを見ていました。すると見ていた番組でコロッケが映し出された。それを見た瞬間、私の中に「食べたいなあ」という気持ちが出てきて、その次に「今日は末っ子の家はハンバーグだ」という思いが浮かびました。そしてそれを女房に言った。すると女房は「なんで?じゃあ電話してみる?」と言って末っ子のうちに電話をしました。すると案の定、今まさにハンバーグを食べている最中だった……。

 女房にしてみれば、それが不思議でならない。私にしてみれば、もう金を賭けてもいいぐらい100%間違いないという自信があった。だから自分ではびっくりしないし、「だろうなあ」というくらいのことです。

 ・・・

「コロッケを食べたいな」と思ったまでは必然だけど、そこからハンバーグに繋がり、さらに末っ子に繋がるのは、情報や距離を超えた感覚です。しかし私は瞬間的な感覚で、ハンバーグの匂いまで感じていた。私のすぐ隣で食べているくらいの感覚で匂いがしたのです。そしてそれは上の子供ではなく末っ子に繋がった。

 繋がったんだからしょうがない、のです。私にとっては、この二つの感覚も必然であり、間違いないという感覚です。・・・

 ・・・

 ・・・そういう小さなことと同列上にあるのが、麻雀をしたときに見えない牌が見えたり、相手がなにを持っているのかが分かるようになる感覚なのです。人の命が懸かっているような重大なことを当てていくのではなく、そういう小さなことを当てていくのです。

 みなさんが言う普通の視力、聴力、嗅覚とはちがう、感覚の目、感覚の音、感覚の匂い……。そういう感覚の脳が働くのです。

 ・・・

 ・・・みなさんは私と同じようにコロッケの映像を見て、もし「あ、今日あの人のうちはハンバーグを食べてるな」というイメージが出てきても、単なる自分の空想としてすぐに忘れてしまうでしょう。

 でも、そんなふとした直感的なイメージは、現実の核心をついていることがままあるのです。だから、そんな感覚は大切にしたほうがいい。そしてそれを遊びの感覚で楽しむといいのです。

 そうすると、いざというときに、大きな危険が近づいてもそれを回避することが可能になったりするのです。

 

P148

 あるとき家で鍋を食べていたら、いつもよりなんとなく食事が美味しいと感じました。別に食材がいつもと違うわけでもないし、味付けも同じはずなのに不思議だなあと思った。しかしその理由は、食べ終わって手を合わせて「ご馳走さま」と言ったときに分かりました。その瞬間、自然と私の周りにいる人の顔が浮かんできたのです。道場生や、長年付き合いのある人たち……。

「ご馳走さま」は誰に言ったかというと、つまりその人たちに向かって言っていた。「あなたたちのお陰で食べられました」と、本当に心から思っていました。別にそう思うのが習慣ではありません。習慣ではないけれど、頭に浮かぶ顔を思いながら「こいつらみんなに、食べさせてもらった一食だ」という思いが時おり起こるのです。

 そして「このたった一食すらも、俺はてめえの力で食べれてないんだよな」とも思う。決して自分一人の力で生きているわけではないんだと。

 でも、そこで自分の感性はちゃんとした方向に行っていると安心しました。感性の正しさがそういう気持ちに結びついてご飯が美味しく感じたのですから。

 ・・・

 このような「感謝」の気持ちがあれば、人はみんな五分と五分の関係になるのです。

 言い方を変えれば「持ちつ持たれつ」でもいいかもしれない。これはあらゆる場面に当てはめて考えられることではないでしょうか。

 立場の違うもの同士、お互いに感謝し合える関係を築くことが大切なのです。