老後とピアノ

老後とピアノ

 稲垣えみ子さんのエッセイ、楽しくて好きです。

 子どもの頃以来、久しぶりにピアノを習い始めたら、恐ろしいほどはまってしまったというお話、ぐんぐん読んでしまいました。

 

P164

 私はずっと、ピアノに取り組む基本的な姿勢において、根本的な勘違いをしてきたのではないだろうか。

 ・・・努力が足りないんだとシャカリキに弾きまくり、でもそうすればそうするほど結果は離れていった。アタマでこう弾きたいと理想を追うほどに体はどんどん固まって、挙句に壊れてしまってニッチもサッチもいかなくなっているのである。・・・

 ・・・

 目標など持たず、ただ自分の体をよく観察し、無理なく気持ち良く動かしてやればちゃんと良い演奏ができるんだとしたら?「身体全体への気づきと調和のとれた動きこそが、ピアノの演奏の質と安定性を決定づけている」って、もしやそういうことなんじゃないだろうか?

 ・・・

 ・・・暗い森をさまよい、迷子になり、一時は絶望し、しかし歯を食いしばって諦めずに道を探し続けた結果、ようやく天から降り注ぐ確かな光を見つけた私……と言いたいところだが、もちろん物事とはそのように単純な形では進まないのであった。

 いやね、正直なところを言えば、この「光」を見出した時、もうマジでウッシッシと思ったわけですよ。

 だって、私が見出した新たな道は「緊張せず」「無駄な力を使わず」弾くってことで、これを言い換えれば「ラクに」弾くということだ。もちろん、そう簡単なことではなかろうとは頭では理解していた。だってそのためには長年の思うに任せぬ人生で身についた、何事もエイヤーと力ずくで解決したがる粗野なクセを一から見直さなきゃならん。でもですよ。それにしたって、要するに力を抜けばいいのだ。無理せずありのままの自分を認めてあげればいいのである。しかもそれでピアノが上手くなるというのである。

 ああなんてスウィートな事実♡

 ……などと考えた私は、全くもってザ・スットコドッコイであった。

「力を抜く」とはなんとなんと難しいことか!力を入れるより何倍も何十倍も困難すぎる世界だったのだ。

 ・・・

 まず第一に、そもそも力を全部抜いちゃったらピアノなんて弾けやしねえ。・・・そもそも力を抜くってどういうこと?ってとこから始めなきゃならんのだ。

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 まず何よりも、改めて自分をよくよく観察してみると、そもそも私ってば「何の力みもなく」どころか、絶えず死ぬほど力み返っているのであった。・・・私、いつだって全身全力で頑張っているんである。必死なんである。かわいそうなくらいである。

 で、一つ一つ棘を引っこ抜くように、この余分な力を抜いていかなきゃならんのだが、これが……実に恐ろしい。尋常じゃない勇気がいる。・・・

 だってですね、私だって別に好き好んで力を入れてるわけじゃないのだ。力を入れなきゃ弾けないから入れてるんである。まず「間違えたくない」というのがある。これは見栄っ張りだの完璧主義だのって話じゃなくて、何とか「曲」に聴こえるようにするためにはせめて成功率8割にはしたい。イヤ成功率8割の演奏なんて正味な話、とても聴いちゃいられませんよ!でも弾く方にしてみればそれだって天文学的に大変なのだ。・・・「リラックス」なんて一体どうやったらできるんだ~!

 ・・・

 つまりは話をまとめますと、「力を抜く」ってことは、曲にならないくらい間違いだらけになっても構わないと開き直ることであり、こう弾きたいという意欲も情熱も捨ててしまえということなのである。

 ・・・

 ・・・結論から言うと、私は勇気を振り絞ってこの困難な道を進んだ。我ながら勇者である。っていうかもうやるしかなかったのである。・・・

 ・・・

 まずは練習のはじめに、手の重さのままに鍵盤に手を投げ出してみる。ジョワーンとめちゃくちゃな音が鳴る。ギョッとするが脱力は完璧だ。まずはこれでよし。だが問題は、これをどう「曲」にするのかということだ。そこで「こんな旋律が弾けたらいいな」くらいの夢のようなものを心に抱き「なんとなく」手を移動……いやジョーダンのようだが案外弾けるではないか!だが「弾ける」と思った瞬間から欲が出て、たちまち力が入り始める。イカイカン。その気持ちを捨てる。当然めちゃくちゃになる。これもイカン。つまりはめちゃくちゃになることを恐れず、しかしめちゃくちゃにならず弾くことを目指す……いやこれはもう剣の修行である。我が身を捨てて初めて活路が開けるに違いないと、そう信じるしかないのだ。私は宮本武蔵か?ルーク・スカイウォーカーか?

 そんな修行を人知れず繰り広げていたある日、驚くべきことが起きたのであった。

 ・・・

 力を抜け心を空しくするのじゃと腕をフリフリ、骨盤をゆらゆら、ついでに首を振って脳みそもグラグラ揺らして「考えるな!感じろ!」とどこかで聞いたセリフをつぶやき……いやね、こんなことやってるとホトホト疲れまっせ。力を抜こうとして疲れるなんて本当にヘン。そして気持ちが萎えてくる。・・・

 ハアとため息をつき、つい現実逃避に走る。

 なんの気なしに、数ヶ月前に苦労しまくった「月の光」のアルペジオをチャラチャラっとさらって……

 ん?あれ?な、なに今の……?

 それは、見たことも聞いたこともない音とリズムだった。思わぬものが自分の中のどこからかスルリと滑り出てきた感じ。思わずギョッとする。

 もう一回、弾いてみる。

 ……間違いない。これを弾いているのは間違いなく、私だ。私自身だ。

 でもそれは、これまでの私じゃない私だった。何の力みもなく、意図もなく、ただただラクにのびのびと体を動かしている私だった。

 もしかして……こういうことだったのか?力を抜いて弾くということ。緊張せずに弾くということ。体のいう通りに弾くということ。衝動的に、次々とこれまでに弾いた曲の中からいくつかのフレーズを弾いてみた。まるで「ウォーター」の意味を発見したヘレン・ケラーのごとく。

 そしてまさに、それは驚くべき体験であった。

 やはり、どれもこれも思わぬ音とリズムが出てくるのである。

 なんと自分の中から!

 実際に出てくるまで、何が出てくるかはわからない。っていうか出てくるかどうかもわからない。それなのに、ちゃんと出てくるのである!

 ・・・

 頭を空っぽにして無心になったとき、余分な「力み」を抜いたとき、それがふわっと表に出てくる。「力み」とは、ああしてやろうこうしてやろうというガッツである。今の自分じゃダメなんだ、もっと頑張らなきゃという切羽詰まった決意である。ずっと、それがなけりゃ何も成し遂げられないと信じて生きてきた。ところがそれを取り去ったとき、まるで水道管の詰まりが取れたように、生の自分とでもいうべきものが表に出てきたのである。

 で、その生の自分というものが「美しいもの」であることに驚く。

 53年も生きてきて、そんなものが自分の中にあるなんて全然知らなかった。・・・

 ・・・これは私だけのことじゃないに違いない。だって私だけが世の中で特別なんてことがあるわけないではないか。世にあるものは全て、本当はその中に、美しさをどうしようもなく抱えているのではないだろうか。

 ・・・

 ……なーんてすごい悟りを開いたつもりになっていたのだが、これがまた、ちっとも一筋縄ではいかないのでありまして。

 まずですね、このようにして「よっしゃコレだ!」という弾き方を体得したと思った次の瞬間から、それは「そのように弾かねば!」という欲に取って代わられる。つまりはすぐに力みが生まれてくるのである。・・・