海苔の顔が見える

稀食満面 - そこにしかない「食の可能性」を巡る旅 -

 突き詰めるってすごいなぁ・・・辿り着いたところもすごいなぁ・・・と思いました。

 

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 相澤さんは1980年、宮城県桃生郡矢本(現東松島市矢本町)で生まれた。2代目の海苔漁師で、・・・小学校の卒業アルバムには「海苔漁師になる」と書いた。

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「とにかく負けず嫌い」な相澤さんはなにもできないことが悔しくてたまらず、誰よりも早く海に行き、あらゆる作業を目に焼き付けて、最後に海から帰るようになった。2年目、「浜でナンバーワンの海苔漁師になってやる!誰にも文句を言わせねえ!」と鼻息荒かった相澤さんは、5人の海苔漁師の仕事を見て学ぶことを決めた。

「20年やってる人は、20回、海苔作りをしてるんですよね。それじゃあずっと差を埋められないから、5人分の仕事を見て、自分の1年と合わせて6年分、一気に差を縮めようと思ったんですよ。近隣の浜にもひとりで行って挨拶をして、作業の方法とかたくさん教えてもらいました。本来、漁師間の技術交流はタブーなんですけど、若さの特権ですね」

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 ナンバーワンを目指してあらゆる努力を惜しまなかった相澤さんを、父親も評価したのだろう。海苔漁師の仕事を始めて5年目の2004年、23歳の時に「相澤太」の名義で奉献乾海苔品評会に出品することを許された。

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 相澤さんは初めて自分の名前で出品したこの時に、いきなり準優勝に選ばれる。これは歴代最年少の快挙だったが、誰にも負けたくなかった相澤さんは「今度は優勝だ!」と燃え上がった。

 それから、ますますがむしゃらに海苔と向き合った。海苔網に種をつけ、芽を育てる2週間ほどの「育苗期間」には、ちゃんと育つか、自分になにかできることがないかと頭のなかが海苔のことでいっぱいになり、家に帰っても眠れないので、海苔に添い寝をするように船の上で寝た。

「そんなことをしている人、ほかにいるんですか?」と尋ねたら、相澤さんは「いません」と苦笑しながら、でも、と言葉を継いだ。

「海苔の顔が見えるようになったんですよ。要は、細胞が泣いているか笑っているか、いい状態なのか悪い状態なのかがわかるんですよ」

 この話を聞いて、僕はハッとした。塩の甘みやうま味、結晶の大きさなどを自在に操り、高知県で日本唯一、オーダーメイドの塩を作っている田野屋塩二郎こと佐藤京二郎さんも、若い頃、塩のことがどうしようもなく気になって、塩を作る小屋のなかで寝泊まりしたことがあったと言っていた。そして、今や最高価格で1キロ100万円の塩を作っている彼もまた、毎日、わが子を育てるように手塩にかけて塩を育てているうちに「塩と喋れるようになった」と話していたのだ(佐藤さんのエピソードは、拙著『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』に収録)。

 僕が佐藤さんの話をすると、相澤さんは「うんうん」と頷いた。

「例えば、ここの海にはカタクチイワシが数百億匹いるわけですよ。そのなかには食われるのもいれば、子孫を残すのもいますよね。個体として強い弱いってあるわけですよ。そういう自然の環境のなかで、海苔作りにしても、塩作りにしても、細胞が元気か弱いかを感性でみたくなるんです。そういうちょっとしたことを感じながら、最高のものを作りたいんですよ」

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 仙台の百貨店での催事は、相澤さんにとって忘れられない思い出だ。・・・

「その時はほんとに一生懸命だったんで、お客さんが目の前を通ったら、海苔を売ってるんです、見てください、これ、僕が作ってるんだけどってたくさん声をかけました」

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 その百貨店で、転機が訪れる。相澤さんはいつも、お客さんに海苔作りや地元の海について熱く語っていた。ある日、ひとりのお客さんから「お兄ちゃん、私これから海苔をおみやげに持っていくんだけど、今のあなたの話が一番みやげになったよ」と感謝されたのだ。

「買う人にとって、生産者のストーリーを知ることがすごく喜ばれると知って、これが新しい付加価値なんだと、雷が落ちたんですよね。この時、売り手と買い手のつながりやコミュニケーションの大切さを知りました」

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 こうして自分で海苔を売るようになって痛感したのは、お客さんにとって問屋のいう海苔の扱いやすさなどどうでもいいということだった。

 おいしいと感じてくれたら、また買いに来てくれる。それがわかってからは、品評会で評価される「見た目」ではなく、「味」を深く追求するようになった。・・・

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 その頃、評価が最も高かったのは「有明海の海苔」だった。高値で売られている有明海の海苔を食べてみると、確かにおいしい。相澤さんは、その理由を確かめるために、研究を始めた。「海苔は生き物。産地によって生物的になにが違うのかを確かめよう」と考えてのことだった。

 すると、たったひとつだけ、自分の海苔と異なるポイントがあった。細胞壁だ。

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 そこに決定的な違いを見出した相澤さんは、一枚の海苔にする段階でいかに硬い細胞壁「アンヒドロ」を取り除くか、実験を始めた。・・・

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「要は、アンヒドロをどれぐらい溶かすかの問題なんですよ。酵素が一番活発に働く温度は?塩分濃度は?って突き詰めると、短い熟成期間でアンヒドロを溶かすことができるようになりました。さらに実験を重ねて、細胞壁を10分の1まで溶かして、一瞬で味が出るようにすることもできるようになりました。熟成をマスターすれば、どんな海苔でも作れるんです」

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 相澤さんは、実験と並行して一回の食事で数万円する高級鮨店を訪ねた。そこでカウンターに座り、居合わせたほかのお客さんが海苔を使った鮨を食べる時に、何回噛んでから飲み込むのかをじっと観察した。すると、その人は3回噛んでから飲み込んだ。

「これだと、海苔を感じてないな」

 その様子を見た瞬間、閃いた。・・・

 ・・・相澤さんは、噛む回数で味が出るタイミングを変える技術を生み出し、自分が作った海苔の味をさらに感じてもらえるような食べ方の提案をした。鮨屋の大将に話をすると、「なんだそりゃ、面白いな!」と喜ばれた。その大将が「〇回噛んだら海苔の味が追いかけてきますから」とお客さんに伝えて食べてもらったところ、お客さんも大喜び。

 そこにはしっかりとした工夫がされている。例えば、まず1噛み目は磯の風味、2噛み目は塩味、それを感じている間に3噛み目、4嚙み目で、海苔のうま味がどんどん追いかけてくる。用途や合わせる食材に応じて、このような仕掛けを作った。熟成を極めることによって自分が作りたい海苔が実現できるようになった。それが27、28歳頃の話だ。

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 市場を変えるおいしい海苔を作ろうと、使命感を胸に行動していた相澤さんを変えたのは東日本大震災だった。

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 震災から数日後、相澤さんは海に出た。いろいろなものが波間に漂っていたが、海を目にした瞬間に感じたのは、「キレイだな」だった。

「すごくキラキラしていて、活力を感じました。その時に、津波っていうのは地球の瞬きなんだと思ったんですよね。そうやって自然はできてるんだな、そのなかで俺は仕事してるんだなって改めて感じました」

 津波によって、船も海苔の工場も流された。それでも、組合の仲間たちとともに再起に向けて動き始めた。・・・

 ・・・生産できるめどがたったのが2015年。その年から、相澤さんは海苔の生産を続けつつ、海苔作りを通して見える自然の豊かさと魅力、それを脅かす環境の変化、これから自分たちになにができるのかという課題について「伝える活動」を始めた。

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 日本全国に固有の自然がある。その土地ならではの自然と共存して育まれる海苔には、必ず個性がある。相澤さんは、海苔漁師が3000人しかいないなら、3000のおいしさがあると考えることが大切だと考えるようになった。二十代の頃は全員がライバルだと思っていたが、今は全員が仲間だという。・・・