全体最適

稀食満面 - そこにしかない「食の可能性」を巡る旅 -

 飯尾さんのこの姿勢、すべてに通じる大切なことだなと思いました。

 

P47

 家業を守り、発展させるだけでなく、町を大胆に変えようとしている「老舗の5代目」。

 ・・・

 飯尾さんは1975年、男女の双子の兄として生まれた。長男だったこともあり、物心ついた時から後継ぎになることを受け入れていた。

「僕はお酢屋になりたいと思ったことがないんです。一方で、なりたくないと思ったこともなくて。プロ野球選手になりたいとか夢や希望を抱いたこともなくて、単純に現実として、自分が蔵を継ぐんだろうなと思っていましたね」

 京都にある明治26年創業のお酢屋さんというと、「老舗の名門」というイメージがあるが、決して順風満帆ではなかった。・・・

 転機になったのは、1964年。当時は効率優先で田畑に強力な農薬が撒かれており、お酢の原料となる米を育てる田んぼからフナやドジョウが姿を消していた。その様子を目の当たりにした輝之助さんは、「こんな米から酢を造っとったらあかん!」と立ち上がる。地元・宮津の農家を一軒一軒まわって「農薬を使わんとお米を作ってくれまへんか」と頼み込み、無農薬栽培の米作りに取り組み始めたのがこの年だ。

 無農薬栽培米を使った「純米 富士酢」を売り始めたのは、1969年。その頃は水俣病イタイイタイ病などさまざまな公害病が顕在化し、社会問題化していたため、「子どもに安全なものを食べさせたい」というニーズを捉えて、急速に売り上げが伸び始めた。・・・「祖父が無農薬栽培の米を使っていなかったら、とっくに潰れていたと思います」と飯尾さん。

 ・・・

「5代目」という生まれながらにして背負う看板は、重荷にもなった。大学院で修士号を取得した飯尾さんは、すぐに家業に戻らず、一般企業で働く道を選んだ。就職活動を始めた1999年当時は就職氷河期と呼ばれていて、飯尾さんにも、冷たい風が吹きつけた。

「実家がお酢屋の長男、農大の醸造学科の大学院卒でしょ。誰が見ても、いつかは会社を辞めて実家に戻るってわかりますよね。だから、履歴書の段階でよく落とされていました」

 いかんともし難いハンディキャップを自覚した飯尾さんは、その条件でも採用してもらうためになにが必要かを考え、面接に進むと「2分だけください」と言って面接官にプレゼンをした。その企業の課題を抽出し、それを解決するようなアイデアを示すのだ。

「働かせてください、だと絶対に雇ってもらえないから、自分はこんなことができるんだという企画力を見せないとって思っていました」

 複数の大手企業の就職試験を受け、唯一、採用してくれたのは、自販機に補充した飲料を低コストで早く冷やす仕組みを提案したコカ・コーラだった。伝統を守る京都のお酢屋さんと対極にありそうなグローバル企業のコカ・コーラだが、大きな学びがあったという。

 最初の2年間は、営業所に配属され、営業マンとして働いた。コカ・コーラ社の製品をなるべくたくさん売るのが仕事だ。その時の上司がよく口にしていたのが「全体最適」。目先の利益を追うのではなく、自分の営業先や営業所だけの幸せを考えるのではなく、中長期の視点に立って全体が良くなることを意識せよと教わった。

 飯尾さんが営業マン時代に気づいたのは、「売り込みが苦手」ということ。幸い1,2年目はノルマがなかったので、「それなら営業のサポート役に徹しよう」と考えた。スーパーでよく見かける「コーラ1.5リットル〇円!」というPOP(ポップ)は、営業マンが作る。営業まわりをした後にその作業をする必要があるため、面倒なうえに残業の原因にもなっていた。そこで、10人いた先輩営業マンのポップ作成をすべて引き受けた。

「用紙を用意して、サイズ、縦・横、どの商品、値段などを記入して僕の机の上の箱に入れておいてくれたら、翌朝始業時間までにポップをお渡しするというサービスをしました。そうしたら先輩たちが残業しないで済むじゃないですか」

 さらに、近所のコンビニの売り上げデータを集め、売れている商品の理由を分析して所長に提出するようにした。

 この取り組みが評価されたのだろう。・・・それから2年間は、全国の拠点を巡って教育プログラムを実施する役割を担った。しかしそのプログラムを受けるのは、40代、50代のベテラン営業マン。実績のない20代の飯尾さんは歓迎されなかった。

「若造が大先輩に話を聞いてもらうのは、難しいんですね。皆さん、斜に構えているので。そのうえでいかに伝えるのかを考えてプレゼン資料を作りましたし、話を聞いてもらうことの難しさや楽しさに気づくことができました」

 コカ・コーラでの4年間で「全体最適」「聞き手を惹きつけるプレゼンと話し方の工夫」と学んだ飯尾さんは2004年、飯尾醸造に入社した。

 ・・・

 飯尾さんは、お酢造りの現場をひと通り経験しつつ、デパートで開催される全国の物産展を巡ってお酢を販売した。

 どこの物産展でも、こだわりのおいしいものが好きな人たちが集まってあれこれと買っていくが、お酢を目当てにする人は少ない。隣のブースは行列ができているのに、飯尾醸造のブースは閑古鳥が鳴いているということも珍しくなかった。コカ・コーラ時代に「売り込みが苦手」と気づいた飯尾さんは、そうしなくていいような顧客との関係作りを目指した。

 例えば、物産展のお客さんのなかには購入品を自宅に配送してほしいという人もいる。そこで「ほかで買ったものも持ってきてくれたら、うちから一括でお送りしますよ」と提案。ほかにそんな面倒なことをするお店はないので喜ばれ、出展するたびに足を運んでくれる人もいた。

 お酢を買ってくれたお客さんには、「あそこのブースのあの商品もおいしいから、ぜひ寄ってみてください」と勧めた。もちろん、自分が本当においしいと自信を持って言えるものだけを紹介した。すると、「あの子に聞くと、おいしいものを教えてくれる」と信用された。物産展のたびに顔を合わせるようになり、営業時間が終わった後、食事に誘われることもあった。

 お得意さんには、物産展の前にお知らせのハガキを出した。そのハガキを持参してくれた人には、飯尾醸造で作っている無農薬栽培の米をプレゼントした。さらに、物産展が終わった後に直筆でお礼の手紙を書いた。その数は、年間数百通に及ぶ。次第に関係が密になり、一緒に4回もアメリカ旅行に行った顧客もいるという。