まひるの散歩

まひるの散歩 (新潮文庫)

 角田光代さんのエッセイ、おもしろかったです。

 この時間の感覚、ほんとに人それぞれで、やっぱり時間て幻・・・と思ってしまいます。

 

P200

 私はせっかちなあまり、時計という時計を微妙に早めに調整してある。たとえば時報が午前六時ちょうどを知らせるとき、私の時計は六時五分だったりする。家にも仕事場にも腕にもいくつも時計があるが、みなそれぞれ、手動で進めているので、それぞれに違う。ある時計は六時三分、ある時計は六時六分、六時六分の時計をもとにもっと早めに設定したものは、六時十分だったりする。それらのせっかち時計を確認して、さらに早めに家を出るので、十分前行動ならぬ二十分前行動になるのである。

 当然ながら、待っている時間は毎回長い。本を読んだりゲラ(校正用の印刷物)を読んだりして相手を待ちながら、「このせっかち故の空白の時間だけを集めて、私だけ一日よぶんにもらえないだろうか。九月三十一日とか」などと考えたりしている。本もゲラも忘れると、待ち時間はひたすら苦痛で、自分のせっかちを呪ったりもする。それでももちろんなおらない。

 私の夫はせっかちという言葉の対極におり、青信号が点滅していようと、ホームに電車が走りこむ音が消えようと、待ち合わせ時間がたった今過ぎようと、走ったりあわてたりぜったいにしない。四十五分の電車に乗るのに、四十三分に駅に向かって歩いている姿を見ると、私は「ギャー間に合わない」と叫びそうになる。が、不思議なことに、四十五分の電車に間に合っている。

 家にはもちろん私の時計ばかりでなく夫の時計もあるわけで、このあいだ、それぞれ確認してみた。夫のものはみごとに私のより遅く、いちばん開いていて十分以上の誤差があった。

 人は信じたいものを信じて生きるんだなあと、ばらばらの時計たちを眺めて思った。