人がつながる、続く

稀食満面 - そこにしかない「食の可能性」を巡る旅 -

 横にも縦にも人がつながっていくのが、全体としてすくすく育っているようだなと感じました。

 

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 前田さんは1974年、北海道の十勝地方にある本別町で生まれた。東京農業大学を出た後、「農業は機械化して大規模になっていく。農業機械も輸入した海外のものが増えるから、英語ができたほうがいい」と考えて、アメリカに留学。テキサスA&M州立大学、アイオワ州立大学でそれぞれ1年間学び、1999年に前田農産食品に入社した。同社は明治32年(1989)、前田さんの曾祖父・金四郎さんが十勝に入植し、原野を切り拓いて農業についたところから始まった。

 4代目にあたる前田さんが「誰でもできる農業」ではなく、「自分らしい農業」について考えるようになったきっかけは2009年、35歳の時だった。その頃、日本では関税撤廃・削減などによる自由貿易を掲げた環太平洋パートナーシップ(TPP)への加入について議論が紛糾していて、海外の安い農産物がなだれ込んでくることに危機感を抱いた農協はTPP加入に反対していた。

 当時の前田農産食品は作った小麦を全量、農協に卸しており、前田さんも農協の青年部部長として「TPP反対」の立場だった。そのタイミングで、神奈川県横浜市の藤が丘にあったパン屋「パン・ド・コナ」(現在は世田谷区へ移転)のオーナー、高橋誠一さんと出会い、自分が作った小麦の味見をしてもらったことから、国産小麦の可能性に目覚めていく。

「久しぶりに国産の小麦に触ったけどすごくおいしくなったね、どこで買えるの?って言ってくれたんですよ。僕はうちの小麦を自分でパンにしたことがなくて、味のことはよくわかってなかったから、え、買ってくれるんですか?って驚きましたね。でも、自分では流通できないから製粉会社で勉強させてもらおうと思いました」

 前田さんが訪ねたのは、小麦の出荷先である江別製粉で営業部長をしていた佐久間良博さん(現在は退職し、北海道小麦アドバイザー)。北海道小麦の魅力を伝えるために全国を行脚し、「小麦の伝道師」と称される人物だ。

 佐久間さんは、前田さんに次々と都内のパン屋さんを紹介した。前田さんいわく「金魚のフン」のように佐久間さんの後をついて回り、パン屋巡りをしているうちに、目からウロコの気づきを得る。

「パン屋にはクロワッサン、食パン、惣菜パンとかいろいろなパンがあるじゃないですか。話を聞いたら、パンの種類によって小麦粉をわざわざ変えているというんです。品質が違うから。そんなことをパン屋が大事にしているなんてぜんぜん知らなかったんですよね」

 前田さんは考えた。自分が多品種の小麦を作り、それぞれの個性に合うパンを作ってもらったらどうだろう?それができたら「前田農産の小麦」が選ばれる理由になるし、経営上、リスクを分散することにもつながる―。

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 シェフたちとの交流を通して、多彩なパンを焼くパン屋さんは粉の違い(小麦品種の違い)を求めていると感じた前田さんは、多品種少量生産を決意した。それはひとつの品種をたくさん作るよりも明らかに手間がかかるのだが、そこでさらに流通にも手を加えた。・・・

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 栽培方法を変え、選別ラインを自作し、流通を整える。もともとの小麦のクオリティーに加えて、この前向きな姿勢がパンのシェフたちの心を捉えたのだろう。前田農産食品の小麦粉は輸入物の約3倍もの値段がつくが、志賀シェフを筆頭に、パン業界で名を知られたシェフたちが続々と前田農産食品の小麦を仕入れるようになった。

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 2013年頃に小麦の選別ライン作りが落ち着いた後、前田さんはすぐさま次の課題に取り組んだ。「冬の仕事づくり」だ。

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「私の祖父母は、戦時中の食糧として冬場にデンプン工場をやってたんですよ。8月、9月にジャガイモを収穫して、2月までデンプンを作って東京に出荷してたんです。おじいちゃんたちが冬に工場をやって、雇用もしていた。俺ならどうするかな?と」

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 ・・・「どうせやるなら、人がやっていないことで、楽しい農業と食のほうがいい」と考えた。選んだのは、日本に生産者がいない「爆裂種とうもろこし」(ポップコーン)だ。このアイデアは、学生時代、アメリカに留学したことも影響している。

アメリカ人にとって、ポップコーンは主食に近いお菓子です(笑)。ポップコーンを食べないアメリカ人はほぼいません」

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 2013年、一般的な飼料用コーンの栽培方法を参考にして、いきなり5ヘクタールのポップコーン栽培に挑戦。しかし、秋の霜にやられて13トン全量を廃棄するという苦難の幕開けになった。・・・

 ・・・そもそも十勝で栽培するには気温が足りないと判明。どうしたものか?と悩んでいた時に、飼料用のデントコーンを栽培している地元の酪農家に出会った。その人は微生物によって完全分解される「生分解性マルチフィルム」をデントコーンの根元に張り巡らせることで、積算温度の確保や霜対策をしていた。

「これだ!」と直感した前田さんは2年目、生分解性マルチフィルムを導入。・・・ポップコーンは見事に黄金色の実をつけた。

 これを収穫したら、次は「乾燥」の工程。ここでまた、前田さんは地面に膝をつくことになる。収穫したポップコーンの粒を乾燥機にかけたところ、真っ白に変色し、ひび割れてしまったのだ。・・・

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「あの頃は精神的に危なかった」という前田さんを救ったのは、またもや異業種の知恵だった。・・・頭を抱えた前田さんの脳裏に、ある言葉がよみがえった。

「小麦と混ぜて乾燥させるんだ」

 15年以上前のこと。前田さんは観光で立ち寄った真狩村豆腐屋に「どこの黒大豆を使ってるんですか?」と話しかけた。すると、「旭川の永山農協のいわいくろ(品種名)だよ・・・いろいろ比べたけど、味がまろやかでおいしくて、製品の歩留まりが高いんだ・・・大豆を小麦と混ぜて乾燥させてるんだ。それがいいんだよね」

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 この会話自体すっかり忘れていたのに、ポップコーンの乾燥方法を考えていた時、「神様のお告げのように、降ってきたんです」。

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 ・・・小麦と一緒に乾燥させたポップコーンは、前田さんの思い通りに仕上がった。・・・3年目にしてついに完成にこぎ着けたのだ。

「振り返ると、僕はいつも異業種から学んできました。パン屋さんと出会って小麦へのこだわりを知り、酪農家さんからフィルムのこと、豆腐屋さんから乾燥の仕方を教えてもらった。多分、僕の強みって知らない人に声をかけられることなんですよ。誰にでも、わからないから教えてって言える。それが生きたんだと思います」

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「冬の仕事づくり」だったポップコーンが小麦と並ぶ主力事業に育った前田農産食品では今、農作物部門と合わせて地元住民6人を通年雇用しており、新工場が完成すると10人前後にまで増える見通しだ。・・・

「僕はこの町に人と農業を残したいんです。僕らの頃から、うちの町って高校の卒業生の5%しか町に残らないんですよ。・・・僕にとって持続可能な農業とは、人が続くことですから」

 ・・・僕は「小麦を直販する道を切り拓いて、ポップコーンを成功させて、海外進出も目指す。これをひとりでやってるってすごいチャレンジですね」と言った。すると、前田さんは照れくさそうに笑った。

「うちの周りに小学校、中学校、高校があるんですけど、その土地はうちの曾祖父が町の発展を願って学校用地として寄贈したんです。その時、曾祖母が『自分たちで必死に開拓した土地をなんで?』と聞いたら『もともとは、うちのもんじゃないだろう』と答えたらしくて。・・・じいちゃん、かっこいいなと思って。だから僕なんてまだまだですね。我々の活動も120年続いてきた歴史の一部でしかなく、さらに100年後を見据えた時に、畑を通じてできる『町残し』のための提案はなにか?と考えながら持続可能な農業を追います。じっちゃん、ばっちゃんの名に懸けて、この地は我々が引き継ぐ!」