絵を描く

ご冗談でしょう,ファインマンさん 下 (岩波現代文庫)

 このエピソード、印象に残りました。

 

P138

 ・・・人には言わなかったが実はある理由で、僕はぜひ絵を描けるようになりたいと前から思っていたのである。言うなればこの世界の美しさに対する感動を、何とか表現したいと思っていたのだ。感動だからなかなかうまくは説明できないが、全宇宙を司る神に対する宗教的感情に似たものと言えるかもしれない。この世界で外観も性質もぜんぜん異なったものが、実はその「背後」では同じ組織、同じ物理的法則に支配されているのだということを考えると、人間が感じるあの気持ちも宗教感情に一脈通じるものがある。それは自然の数学的美というもの、言いかえれば内側で自然がどのように働いているかを味わうことであり、僕らが目のあたりにしている自然現象というものは、実は原子同士の複雑な内的活動の結果なのだということを悟ることでもある。そしてそれがどんなに劇的で、どんなにすばらしいかを感じとることだ。それはほとんど畏怖―言ってみれば秘められた自然法則に対する畏怖―に近い感情なのだ。そしてこの敬虔な気持は、絵を通してやはりそういった感情をもつ人々に伝えられるはずだと僕は思っていたのだ。そのような絵を見たとき、見る人の心にも宇宙の栄光に対する畏敬の念を甦らせることができるに違いないのだ。

 ジェリーは非常に良い教師だった。まず家で何でも好きなものを描いてこいと言われた僕は、まず靴を描き、それから今度は花びんにさしてある花を描いたが、われながらひどいできだった。

 次に会ったときその努力の結果を見せると、「ほら、ここを見てごらんよ」とジェリーは言った。「ここだ。後ろのこのあたりでは花びんの線は葉に触れてないだろう?」(僕はこの線がちゃんと葉のところまでくるよう描いたつもりだったのだ。)「これは良い。深さを見せる一方法だ。なかなか頭を使ったもんだね。」

「それに線の太さを皆同じにしなかったということは(僕はそんなことは考えてもみなかったのだが)なかなか良い。同じ太さの線で描いた絵なんておよそ面白くないからね。」

 一事が万事この通りだった。僕が失敗だと思いこんでいたことを、彼は皆役立つように使って僕に教えてくれたのだ。彼は決してこれはまずいと言ったこともなく、僕をけなしたこともなかった。・・・

 ・・・

 デッサンを始めてまもなく、ある女性が僕の試作を見て、「パサデナ美術館にいらっしゃるといいわ。モデルを、しかもヌードのモデルを使った絵のクラスがあるのよ」と教えてくれた。

「いや、僕はまだそこまでうまくなっていないから、恥かしくてとてもだめだよ」と答えると、彼女は、

「あなたなんで上手な方よ。ほかの連中のを見せたいくらいだわ!」

 これを聞いた僕はやっとのことで勇気をふるいおこし、のこのことそのクラスにでかけていった。・・・

 ・・・

 ・・・この美術館の絵の先生は、あまりああしろこうしろとは言わないのに僕は気がついた。(僕に対しても、絵が小さすぎると言っただけだった。)あれこれ指導はしない代り、彼は新しいアプローチを試してみる気持を、僕らに吹きこもうとしていたようだ。僕は物理学の教え方を思ってみずにはいられなかった。物理学ではあんまりたくさんのテクニック―数学的方法―があるので、ひっきりなしにそのやり方ばかり教えてしまうことになる。これと反対に、このデッサンの先生は具体的な方法をあれこれ言うことをおそれている様子だった。線が太すぎたって、そういう太い線をうまく使って、すばらしい作品をものした芸術家がいくらもいるから、むげに「その線は太すぎる」と言うわけにはいかない。先生は強いて生徒たちを一つの決まった方向にねじ曲げたくないのだ。だからこの絵の先生は教示でなく、いわゆる以心伝心で、じわじわとしみこませるやり方で絵の描き方を生徒たちに伝えなくてはならないという問題を抱えていたわけだし、一方物理を教える者は、物理学的問題を解くためのテクニックばかりやたらと教えてしまって、ついついその精神の方がお留守になるという問題を抱えているわけだ。

 僕らはいつも堅くならず、もっとくつろいで絵を描けと言われていた。しかしいくらそんなことを言ったって、車の運転を覚えはじめた奴に「くつろげ」と言うのと同じで、できるわけがないと僕は思っていた。・・・

「くつろぐ」練習のため考えだされたものに、手元を見ないで絵を描くというのがあった。モデルから目を離すな、自分の手が何をやっているかを見ずに、ただひたすらモデルを見ながら、紙に線で描いてゆけというのである。

 ・・・

 鉛筆をけずりなおして僕はもう一度やってみた。すると今度の絵の線には、ピカソ的なちょっとこっけいな一種の力強さがあって、僕はこれが気に入った。こんな描き方ではまともに描けるわけがないから、うまくなくてもちっとも構わない、という気楽さがよかったのだろう。そしてこれこそその「くつろぐ」ということの本当の意味だったのだ。「くつろぐ」とは「ずさんな絵を描く」ことかと僕は勘違いしていたのだが、本当はどんな絵ができあがるかなどということを心配せず、気持を楽に持つということだったのだ。