ご冗談でしょう、ファインマンさん

ご冗談でしょう,ファインマンさん 上 (岩波現代文庫)

 物理学者のファインマンさんの自伝、頭の柔軟さがすごく面白かったです。

 

P61

 さてこのへんで哲学のクラスに戻ろう。この講座の先生は、ロビンソンというひげを生やした老教授だったが、いつも口の中でもごもごとものを言うくせがあった。・・・何を言っているのかさっぱりわからない。・・・

 ついにある日のこと、講義の終りの方になってロビンソン教授が、「もがもがふがふがもがもが」と言うとみんながとたんに沸きたった。・・・僕はてっきり教授が何か面白いことでも言ったのだろうと察しをつけた。・・・それにしても何を言ったのだろう?

 まわりの奴にきくと「テーマを書いて四週間後に提出しなきゃならないんだとさ」と言う。

「一体全体何についてテーマを書くんだい?」

「だから教授が今までずっと一年中話してきたことだよ。」

 これには困った。この学期を通して講義でただ一つ覚えていることといったら、ちょっと声の調子を上げて「もがもがふにゃふにゃ意識の流れもがもがふがふが」と言ったあと、またへなへなと元通りの混沌たる呟きに埋もれてしまったときのことだけだ。

 この「意識の流れ」という言葉を聞いて僕はずっと前に、僕のおやじが出してくれた問題を思いだした。「まずこの地球に火星人がやってきたとしよう。火星人は決して眠らず常に活動しているものとする。つまり彼らは睡眠というおよそおかしな現象を必要としないとすれば、きっと次のような質問をするに違いない。「眠りにおちるときには、どんな気持がするものか?眠るということは、そもそもどういうことなのか?君たちの思考は偶然停止するのか?それともだんだんだーんだーんと速度がおちていくのか?実際に心というものはどうやって動きを止めるのだろうか?」」

 これを思いだすと僕は少し興味がでてきた。この火星人の問に何とか答えてみよう。それにしてもいったい僕らが眠りにおちるとき、意識の流れは、どのようにして止まるのだろう?

 それから四週間というもの、僕は毎日四時になるとこのテーマに取り組んだ。つまり部屋の窓にシェードを下ろし、電気を消して寝てしまうのである。そして眠りにおちるときどういうことがおこるのかを観察することにしたのだ。

 ・・・

 はじめのうちは眠りとは関係のない二次的なことばかりたくさん浮かんできた。・・・

 そのうち少しくたびれてくると、一度に二つのことを考えられるのに気がついた。・・・

 また、人が眠りに落ちるとき、思惟は続いていくが、次第に論理的なつながりを失っていくものだということも悟った。これだって不意に「何で今あんなことを考えたのだろう?」と自問して、その筋道を逆にたどっていこうとして、はじめて論理的につながっていないことに気がついたのだ。たいていの場合、いくら逆戻りしても一体全体何から始まってこんなことを考える結果になったかなど、てんでわからないのが普通だ。

 いかにも筋道立ってつながっているようでいても、考えはだんだん支離滅裂になってゆき、ついには完全にバラバラになって、それを過ぎると眠りにおちることになる。

 こうして四週間もの間、昼も夜もグウグウ眠ったあげく、僕はずっと観察してきたことをまとめてテーマを書きあげた。そしてその結びに、こうした観察は僕が眠りにおちる自分を注目している間にしたものである。だから注目していないときに起こったことは、はかり知れないということも指摘した。そしてこうした自己観察に関する問題を表わす次のような詩でこのテーマを結んだのだった。

「なぜだろう。なぜだろう。

 なぜ、なぜだろうと思うのだろう。

 なぜだろうと思うのはなぜだろう。

 なぜ、なぜだろうと思うのだろう。」

 ・・・

 このテーマを書いてからというもの、僕はずっとこの意識と眠りのことに興味をもち続けることになった。そして絶えず眠りにおちる自分を観察する練習を続けていった。ある夜夢を見ていた僕は、その夢の中の自分を観察しているのに気がついた。僕はとうとう眠りそのものの中にまで入りこんだのだ。

 その夢のはじまりでは、僕は汽車の屋根の上に乗っているのだが、見るとトンネルが近づいてくる。僕はこわくなって必死に身を伏せているうち汽車はトンネルに入った。耳がゴーッと鳴った。「なるほど。してみると僕は恐怖感も感じるし、トンネルの中での音響の変化も聴きわけられるんだな」と僕は心の中で独り言を言った。それだけではない。僕は色も見わけられるのだ。・・・

 いつのまにか僕は汽車の中に入りこんでいて、汽車が左右に揺れるのを感じていた。「ははあ、夢の中でも動きが感じられるんだな」とまた僕は心の中で言った。・・・

 ・・・

 夢についてはほかにもいろいろ観察したが、毎度のように「ほんとうに色のついた夢を見ているのだろうか?」と自問するだけでなく、「どれだけ正確にものを見ているのだろうか?」ということも考えた。

 ・・・

 またあるとき、僕はドアの枠に押しピンがさしてあるのを夢に見た。この押しピンはちゃんと目にも見えたし、手を滑らせてみるとちゃんと押しピンの感触もあった。つまり僕の脳の「視覚部門」と「触覚部門」とは、ちゃんとつながっているようだ。僕は「この部門同士、別につながりがなくてもいいということがあり得るかな?」と思った。そしてもう一度ドアの枠を見ると、押しピンは影も形もない。けれども手を滑らせてみると、押しピンはまだ確かに手に触れるのだ。

 またあるとき僕が夢を見ていると、コンコンとドアをノックする音がきこえる。夢の中のできごとと、このノックの音が合うようでいて何となくぴったりしない。・・・このノックの音は夢の外から来ることは絶対たしかだ。・・・

 その間もまだノックは続いている。僕はやっと目を覚ました。……だがまわりはしいんと静まりかえっていて何の音もしない。・・・

 人が夢の外の物音を夢の中に組み入れてしまうというのは聞いたことがあるが、僕のこの経験では、あんなに夢から離れてよくよく観察していて、絶対にノックの音が夢の外から来ているものと信じていたのに、本当はそうでなかったのだ。

 ・・・

 こうした観察は一つの理論を生み出した。僕が夢を観察した一つの理由は、目を閉じていて、何も外界からの刺激がないとき、いったいどうやって人の姿などのイメージを夢の中で見ることができるのだろうということに、非常に興味を持っていたことに始まる。・・・いったい何で僕が眠っているとき、色や物の細部などがはっきり見えるのだろう?

 そこで僕は、脳の中に「解釈部門」というものがあるに違いないと考えた。人物とかランプとか壁とかを実際に目で見る場合、色の斑点として見えるだけではなく、頭の中の何かがあれは人だとかランプだとかいう解釈をしているに決まっている。夢を見ているときにはこの解釈部門は働いてはいるが、正確さはまったく欠けている。たとえば夢の中で、髪の細部まで微に入り細をうがって見ていると解釈はしていても、実際にはそんなものは見ていないのだ。そうしてみるとこの解釈部門は、脳にはっきりしたイメージとして入ってきた、でたらめながらくたを解釈しているのだ。