体脱体験

ご冗談でしょう,ファインマンさん 下 (岩波現代文庫)

 ファインマンさんの体脱体験、こんなにコントロールできるんだ、と驚きました。

 

P274

 ・・・僕は昔から、直接に感覚を刺激するものが全然ないとき頭に浮かぶ夢やその他のイメージについて非常な関心を持っていた。外部から知覚を刺激するものがないのに、いったいどのようにしてイメージが頭に浮かぶのか不思議でしかたがないのだ。また幻覚というものをぜひとも見たいものだと思っていた。・・・

 だからリリー氏がそのタンクを使ってみないかと親切に招待してくれたとき、僕は大喜びでこれを受けた。・・・

 ・・・

 感覚除去タンクといったところで、ばかでかい浴槽のようなもので、違うのは蓋が下りるようになっているところぐらいのものだ。中は鼻をつままれてもわからないくらいの真暗闇で、蓋が厚いから音も全然聞こえなくなる。・・・

 タンクの中の水には、濃度を普通より濃くするため、しゃり塩(硫酸マグネシウム)が入っている。だから体はわけもなくプカプカ浮いた。温度はリリー氏の研究によって決められた、体温のカ氏九四度(セ氏三四度)かそのぐらいのものだった。・・・

 このタンクに入りに十数回くらい行っただろうか。・・・

 ・・・

 三回目に行ったとき、僕は面白い人物に出会った。・・・ハーバードから来た、ババ・ラム・ダスという名で通っているこの男は、インドに行っていたことがあり、『ビー・ヒア・ナウ(Be Here Now)』という評判の本を書いた人だった。彼はインドで会ったヒンズー教の導師に教えてもらった体外脱出経験(よくこの研究所の掲示板に書いてあった言葉だ)を得る方法を教えてくれた。まず鼻を通って出入りする自分の呼吸に精神を集中するというのがその方法である。

 僕はもう幻覚を見るためなら何でもやろうという気になってタンクに入った。入ってしばらくするとうまく説明できないが、突然自分の体の中心が一インチほど片寄っているのに気がついた。つまり僕の息が入ったり出たりしているその中心がずれている。どうやら僕の「自我」は一インチぐらい片方に寄っているのだ。

「いったい自我とはどこに在るものだろう?」と僕は考えた。「誰しも思惟の中枢は脳の中にあるものと思っているが、必ずそうと、どうして決められるのだろうか?」前にもいろいろな本を読んでいたから、心理学の研究が進むまでは、一般の人たちにとって思惟の中枢のありかなど、ちっともはっきりしてはいなかったのだということを僕は知っていた。例えば昔のギリシア人は、それが肝臓の中にあるものだと考えていたぐらいだ。

「とすると、大人が「はてな?ちょっと考えてみなくては」と言っては頭に手をやるのを子供が見ていて、自我のありかを学んだのだと言えるだろうか?」と僕は考えた。「そうだとすれば、自我が眼の後ろの頭の中にあるという考えは、ただの因習にすぎないのかもしれない!」自我を一インチ横にずらすことができるのなら、もっと離すことだってできるに違いないと僕は思った。これが僕の幻覚の始まりだった。

 しばらくいろいろやっているうち、自我をだんだん下にさげてゆき、首を通りぬけて胸の真ん中まで下ろすことができた。水滴が落ちて肩にあたったとき、これが「僕」のいるところより上に当たったと感じた。・・・だんだん楽にできるようになり、どんどん下げていって、片方に寄ってはいたが、腰のところまで下ろすことができた。・・・

 「自我」を腰まで持ってゆけたぐらいだから、もっと押しまくってすっかり体の外まで出してしまうことができるはずだと思いはじめたのは、また別のタンク入りのときのことだ。そのときは体の外側の片方に「陣どる」ことに成功した。説明しにくいが、両手を動かして水を揺らすと、見ていなくても手のありかは感じられる。ところが現実と違うところは、普通なら手が腰からやや下の体の両側にあるはずなのに、あきれたことに両手とも一つの側にあるのだ!指の感触などはぜんぜん普通と変りないのに、僕の「自我」が体の外にいてこれを外から眺めているのだ。

 それからというもの、僕はタンクに入るたびに幻覚を見ることができるようになった。それだけではなく、しだいにしだいに遠くまで「自我」をひき離すこともできた。そのうち手を上下に動かすと、いかにもそれが肉体の一部ではなく、何か機械の一部ででもあるような感じがしはじめた。そのくせ感触には変りなく、動きにしたがって普通に感じられるのだ。ところが同時に「僕」という感じではなく、「そこの彼」という感じがしてしかたがない。あげくに僕は部屋の外に出てそのあたりをうろつき、かなり離れたずっと以前見た事件が起こった場所へ行ってみたりすることもできた。

 こういった僕の「体外脱出体験」は、いつも同じではなく、いろいろな種類があった。あるときなど自分の後頭部が「見えた」こともあった。頭の後ろに手をあてていたのだが、指を動かすと動いているのが見える。おまけにその指の間からは青空が見えるのだ。・・・ここで言いたいことは、指を自分でこう動かせばこのように動くのが見えるだろうと想像した通りに、ちゃんと動いているのが見えたということだ。朝、だんだん目が覚めかかっているときなど、何かに手を触れている感触はあるのに、そのものが何だかはわからずにいる。そして突然その正体がわかる……というあの目覚めのときに似ている。つまり心象は完全な形で突然現われ、自分の感触や動作にぴったりマッチしているのだ。・・・