久しぶりに河合隼雄さんの本を読みました。
P39
・・・子どもの頃に読んだ面白い話を思い出した。それは「水戸黄門」の講談である。私は講談の愛読者だった。あるところに幽霊が出て人々を困らせるのだが、その幽霊は出てくると、「今宵の月は中天にあり、ハテナハテナ」と言うのである。
確かになぜ月は中天に浮いているのか、ふしぎ千万である。これに対して、納得のいく説明ができないものは、ただちに命を失ってしまう。恐ろしいことである。まさか、当時は万有引力の法則がわかっているはずもないし、どう答えるのか。ところで水戸黄門は幽霊の問いかけに少しもあわてず次のように答えた。
「宿るべき水も氷に閉ざされて」
すると幽霊は大喜び、三拝九拝して消えてしまった。つまり、これは、黄門の言葉を上の句とし、幽霊の言葉を下の句とすると、三十一文字の短歌として、ちゃんと収まっている。そこで幽霊も心が収まって消えていったというわけである。
子ども心にもこの話は私の心に残ったのか、未だにこんな歌の言葉まで覚えている。私は子どもの頃から妙に理屈っぽくて、「なぜ」を連発し、理づめの質問で大人を困らせていたので、論理によらない解決法というのが印象的だったものと思われる。これはひとつの日本的解決法と言えるのではないだろうか。
「収める」という言い方がそもそも面白い。こんなのを英語で説明するとどう言うのだろうか。「解決法」などと言ったが、西洋流に考えると何も解決していないのではなかろうか。しかし、何やかやとごまかして「収める」のは困るが、ある美的判断に基づいて「収まっている」と感じるのは大切なことではないか、と思う。心の葛藤をどう解決するか、という問題は、私の心理療法家という職業にとって大切なことである。そのときに、いろいろと考えたり分析したりして解決法を見いだすだけではなく、ある種の美的判断によって、心を「収める」道を見いだすことも大切ではないか、などと、この頃は考えている。
P116
・・・最近アイヌの昔話を読んでいたら、「父親殺し」の話があって、大いに興味を惹かれた。そのひとつは、娘と父親(義父)の物語である。実はこの村に病気が流行し、全員が死に絶えそうになったとき、ある母親が神々に祈って、この子を育てて欲しいと願う。それを聞いて、ある神が人間になって彼女を育ててきた。それが父親なのだが、困ったことに彼は「人食い」で低い地位にある神だとのこと。彼は成人した娘を食いたくなって困る。詳しいことは省略するが、彼女は「人食い」の父親を小屋に閉じこめ、それに火をつけて焼き殺してしまう。何とも凄まじいことだが、これが悲劇にならぬところが、アイヌの話の特徴である。
娘の夢に人食いの父親が立派な服を着て現れ、「お前のおかげで、自分は人食いの罪を犯すのを免れ、位の高い神に生まれ変わった」と感謝する。後はこの神が娘の守護神になって、娘は幸福に暮らす。
娘が父親を焼き殺したりするのに、結果は悲劇にならない。これはどうしてだろう。それは、この他のアイヌの昔話を読み、アイヌの人たちの生き方について知ると納得できる。それは、アイヌにおいては、人間と自然、神との間や、生と死、などの境目がきつくなく、すべてがつながり循環して全体性を保っているという事実による。娘が義父を焼き殺しても、それはむしろ「火」による浄化であり、父は生まれ変わって幸福になるのだ。
子どもは親を乗り越えて成長していくのだから、何らかの方法で象徴的に「母親殺し」「父親殺し」をやらなくてはならない。それがうまく行われると、アイヌの話で、殺された父親が守護神になるように、新しいよい関係が生まれてくる。自然の知恵から切り離され、「父親殺し」の物語など忘れてしまった現代人は、象徴的にではなく実際的に父親を殺してしまうような生き方をするようになった。このあたりで少し「物語」の価値を見直してはどうだろう。
P172
・・・劇作家で演出家の如月小春さん・・・
・・・がいかにして感性を磨くかという話題になったとき、・・・ワークショップの話をされた。・・・
あるとき、予備校から依頼を受け、珍しいことと思っていくと、予備校生たちが教室のなかで硬い表情をして待ち受けていた。そこで、「あなたたち、それぞれ自分に一番ぴったりの場所を選んで、もっとも自分らしい感じの姿勢になって下さい」と如月さんが言うと、生徒たちが動きはじめた。
見ていると、カーテンにしがみつく子、机の下へもぐる子、教卓の上であぐらをかく子、実にさまざまだが、まず感じとられるのは、すべての子の表情が生き生きとしてくることである。そのようにそれぞれが自分の「場」を確保した後に、いろいろ発表をしてもらうと、各人の個性がよく出てきて、まさにその生徒の感性が輝き出すのが感じられる、というのである。
・・・
自分の好きな場、好きな姿勢、それを思い切って取るだけで、その人の感じるもの、表現するものが個性的になり、その人の感性ということを感じさせる。このことは、日本の教育の現場で、時に思い切って試みてみるべきことではないだろうか。