猫がいれば、そこが我が家

猫がいれば、そこが我が家

 横尾忠則さんも、養老孟司さんも、伊藤理佐さんと吉田戦車さんも、角田光代さんも・・・他にもいろんな本で、ネコと生活する幸せに触れたな、と思い出しつつ読みました。

 

P15

 私は十四歳でドイツ、フランスへと一人旅をし、それがきっかけとなって十七歳でイタリアに単身で留学することになった。イタリアに渡ってからも、キューバでサトウキビ刈りのボランティアに参加するなど、一定の場所に留まることのない生活を送ってきたが、そもそも、なぜ私は若くして日本を離れ、移動を繰り返したのかと考えると、「あなたはこういう人」と他人に自分の形を定められるのが嫌だからというのがある。

ヤマザキさんってこういう人」と周囲に決めつけられる前にその場から姿を消し、自分のことをよく知らない人々のもとへ旅立ちたいという気持ちがいつも潜在していた。そして何より、生まれてきたからには何かその意味となるような事柄を成すべきだという、人間特有の義務感のようなものから解き放たれたいという思いがあった。古代ローマの時代から人間至上主義的思想が確立されてきたイタリアという国は、人間であることを謳歌できるが、同時に過去の文化的遺構を目の当たりにするたび、人間という特別意識の肥大に負けそうになることも度々あった。

 そんな日々の威圧感から解き放ってくれるのが猫だ。ベレンの小さい体には、余計なことを考えずに命を懸命に生きている膨大なエネルギーが籠っている。

 外での仕事で疲れ果てて家に帰ってくると猫が全く次元の違う空気を放ちながら床で寝そべっていたりする。それを見ていると「私は魂の容れ物がたまたま人間だけど、あんたに比べると余計なツールがつき過ぎていて、なんだかダサいわ」などということを感じてしまう。ベレンと過ごす穏やかな時間の中で、ベレンという小さくても精一杯生きている大いなる生き物と対峙する瞬間があるからこそ、私はもう一度、もとの私の〝形〟を認識しようとするのだ。

 

P32

 先日、友人のプレゼントを買いにある百貨店に行き、ふと目に留まったセーターを手に取ると、その場にいたショップスタッフから「この色、一番人気ですよ」と声をかけられた。別なものを手に取れば「それもすぐに在庫が切れるんです。お客様、さすがお目が高い」と褒められた。大多数の人間と同じ嗜好や趣味を持つことが賛辞の対象となるのは興味深い傾向だ。これがもしイタリアであったなら、「その色はあなたしか似合わない。あなたにしか着こなせない」といった言葉こそが決め台詞であり、「不特定多数と同じ」というニュアンスの言葉を受けて「じゃあ私も」と購入しようとする客はまずいないだろう。美意識についても同じで、個々によって育まれた審美眼があるため、「日焼けをしてはいけない」「シミがあってはいけない」「シワは難点」といったあるべき論に基づいたわかりやすい美しさというものが存在しない。

 だが、日本社会においては、センスを確立したうえで自分だけの逸品を見つけ出すことよりも、どうやら大多数に好まれるものを選択し安心感を得ることのほうが優先順位は上のようで、一番人気のものを選ぶことは、自身の選択が担保され、まるでいいことのように思われている節がある。それはそれで日本という社会の持つ特徴だと思う。ただ、自分という個体の特性を深く掘り下げることなくもっぱら多数派に同調するという行為は、思考という人間の機能を停止させてしまうことにもなる。

 ・・・

 猫の行動をうっとりとした思いで見つめてしまうのは、本能と、そして生きるのに最低限度必要なインテリジェンスのみでシンプルかつ優雅に生きているように思えるからだ。野良猫には野良猫の社会性があり、それはそれでもちろん厄介なものらしいが、少なくともそういう次元と関わりなく生きているベレンの幸せそうな顔を見ていると、ホッと安堵のため息が漏れ出てしまうのだった。

 

P113

 人生など、そもそも自分の思い通りにはいかないものだと腹を括っておけば、かえって生きやすくなるものだ。人生はああでなければならない、こうでなければならない、などとあれこれ理想や目標を盛りつけすぎるから足元がおぼつかなくなるのだと思う。最初からそんなものを背負わずに、何が起ころうと生きるなんてのは所詮そんなもんでしょ、と心を構えていれば人生はもっと楽になる。

 変わった母親を持ったことも、北海道で幼少期を過ごしたことも、十代で欧州に移住したことも、その後シリア、ポルトガルアメリカと移り住んだことも、子供が生まれたのも、漫画を描くことになってそれがヒットしたのも、結婚も、何もかも私の意志や目的とは関係なく起こった事象だ。これまでたくさんの国を旅しているが、自分の希望で足を運んだのはチベットだけだった。しかし、よりによってやっと自分で企てたこの旅の最中に私は重度の高山病に倒れ、死にそうになった。うっかりテレビで見てしまった高山鉄道にどうしても乗りたくなって、チベットの標高など大したリサーチもせずに安直なノリで出かけてしまった大きなツケだった。人生なんてそんなものなのである。

 知りたいことだけ知って、見たい物だけを見る。失敗や屈辱という負の感情を避け、幸せや充足感のみを求めて生きようなどと都合よく思っていると、ホモ・サピエンスは自ら備えている本来の強さを生かしきれないことになる。それが、騙し騙され、踏んだり蹴ったりの半世紀を過ごしてきた私の勝手な持論である。

 

 

 ところで2日ほど、ブログをお休みします。

 いつも見てくださってありがとうございます(*^^*)