本文ももちろん面白かったですが、養老孟司さんの解説も面白かったです。
P294
自分がはっきりしない。
そのことに気がついたのは、小学校四年生の頃でした。性格のことではありません。何のために生きているのか?死んだらどうなるのか?などという難しい話でもありません。なんか、こう、自分の輪郭がはっきりしない。どこからどこまでが自分なのか、そもそも自分とは一体何を指しているのかわからなかったのです。わかっていたのに突然わからなくなったのか、それとも、わからないでいたことに初めて気がついたのか、そのあたりもはっきりしません。
これはきっと病気に違いないと私は恐怖に怯えました。なぜなら、まわりの人々はみんな自分がはっきりしているように見えたからです。私はまず、自分の名前、生年月日、住所などを頭の中で復唱しました。するとスラスラ言える。親兄弟や友人の顔もわかる。記憶には何の問題もないのです。にもかかわらず、はっきりしない。今でこそ、この症状を「自分がはっきりしない」と説明できますが、当時はこのようにはっきりと説明できませんでした。つまり、はっきりしないこともはっきりわからなかった。さらにおかしなことに、これほどはっきりしないのに、私は学校に通い、勉強したり遊んだりできる。これは一体どうしたことか。
・・・
忙しくなれば自分がはっきりしてくるに違いない、と私は思い立ちました。苦労が足りないと思ったのです。そこでひとり暮らしを始め、体育会の柔道部に入り、アルバイトなどしながら、毎日を忙しくしました。ところが「わざと」忙しくしているので、その「わざと」という部分が「なんで、わざと?」という疑問形でひろがり、かえってはっきりしなくなってしまいました。宗教や社会理論等の本も読みました。読んでいると次第にその言葉遣いに慣れてきて先が想像できるようになり、人に対してはっきりした意見を語ることができるようになりました。しかし、同じような言葉遣いをする人々と同じようなことを言い合っていると、その中に埋没していくようで、やはり自分がはっきりしなくなる。その言葉遣いに慣れていない人に解説しようとすると、一瞬、はっきりしたような気がしますが、「どういうこと?」とあらためて訊かれると結局、普段の言葉遣いに戻るので、元通りはっきりしなくなってしまうのです。
やがて仕事や家庭の諸事情に追われるようになると、「自分がはっきりしない」などと口に出せなくなります。はっきりしていないと様々な責任を負えないからです。しかしよくよく考えてみると、これは自分がはっきりしたのではなく、処世術を覚えただけのような気がします。「自分がはっきりしない」ことを忘れ、行動様式を生きているようなものです。変な話ですが、こうなると何やら、もう一度「はっきりしない」ことを確認したくなってきます。
物事がはっきりする、というのは整理できるということです。自分を考える時、「考えている」ことは間違いないので、その主体を仮に「私」と名付けます。しかし、その「私」はこうして「考えられている」対象でもある。主体と客体が同じ「私」なのですから、わけがわからなくなって当然です。「私」などないのだ、と言ってしまえば、それはそれではっきりできるのですが、そう考えている「私」は確かにいるので、そうも言い切れない。もともと整理できない不思議な存在なのです。
では、どうすればよいのか。「考えている」と「考えられている」をはっきり分別する必要があります。そのためには人目の助けを借りなくてはいけません。
人にはこう考えられているが、こう考えている私。
あるいは、こう考えているが、人にはこう考えられている私。
こういう形にするとメリハリが生じます。実はこのメリハリ部分で私たちは「私」を実感できるのではないでしょうか。人目を気にせずに生きよう、などと言いますが、人目があるから「気にしない」こともできるわけで、人目がなければ何を気にしたらよいのか戸惑うはずです。つまり元来「私」は誰かに依拠している。それも厄介なことに、誰かに理解されたいと思いつつ、その間にはズレも必要なのです。ズレがあるからこそ、「私」をより一層実感できるというわけなのです。
本書のタイトル「トラウマの国ニッポン」とは、傷ついた日本という意味ではありません。自分をはっきりさせる目印を追い求める世界のことです。社会の中に自分があるのではなく、あなたの自分と私の自分が投影し合い、そこに「社会」が生み出されるのです。
P303
ノンフィクションというジャンルがあって、柳田邦男、猪瀬直樹、佐野眞一のような偉い著者がたくさんいる。でも高橋秀実さんをその中に含めて、いいんだろうか。でも高橋さんの著作って、要するにノンフィクションでしょ?
・・・最初に出会った著作は『からくり民主主義』だった。読んで大笑いしましたなあ。・・・高橋さんの本は私の健康にいい。・・・
・・・
本書の「あとがきにかえて」で、高橋さんは「自分がはっきりしない」と書き出す。ここに高橋さんの「自分との距離のとり方」がみごとに出ているように思う。じゃあ高橋さんの立ち位置は、いったいどこなんだ。・・・
高橋さんはむろん取材をする。あちこちに頭を突っ込む。ゆとり教育の問題を扱うのに子どもに直接尋ねたりしている。そこで「おじさん、なにしてんの」と、逆に子どもに取材されちゃったりする。読者の私はここで笑うが、御本人はたぶんマジメだったのであろう。でもともあれ相手の目線まで下がろうとする。そこでの本音の掴み方は、うまいというしかない。
こういうふうに、対象の目線で書くというのが本当のノンフィクションだと思うが、犯罪でそれをやったら、自分が犯罪者と同列になってしまう。だから政治について書く作家なら、時には本当に政治家になる。ミイラ取りがミイラになるって、このことじゃないのだろうか。
じつは「本当のノンフィクション作家」である高橋さんの主題は、ゆえにむしろ現代人の日常になる。つまり「ただの当たり前」が中心なのである。それがこの『トラウマの国ニッポン』になり、スイミングスクールを扱った『はい、泳げません』になり、奥さんのダイエットを扱った『やせれば美人』になる。
そう思うとふと不思議な思いに駆られる。日常生活は、それはそれとして無事に進行している。この本に登場する人たちも、現実にそれなりの人生を送っている。それをわざわざ「記述する」というのは、どういうことなのであろうか。・・・多くのノンフィクション作家が、いわば日常とかけ離れた、特殊というしかない「立派な」主題を扱う・・・それなら「報道に値する」「他人に伝える価値がある」というわけである。
でも根本的には、なにを扱おうと、同じことではないか。・・・
事実は事実であって、それについて人がなにをいおうと、関係がない。・・・
・・・
・・・ノンフィクションを書くということは、じつは現実を補完するのであって、現実を糾すことでも正すことでもない。高橋さんは大声でそうはいわないが、そこがなんとなく「わかっている」という感じがする。だから私は高橋さんの作品が好きなので、そこがわからない作家は、たとえ才能があったとしても、世間の迷惑じゃないかとすら思う。