かならず先に好きになるどうぶつ。

かならず先に好きになるどうぶつ。 (Hobonichi Books)

「こどもは古くならない。」がとてもよかったので、同じシリーズの本を読みました。

 

P106

「あこがれ」というのは、

ぼくの大事なキイワードのように思います。

羨ましいとも言えそうだし、嫉妬があるかもしれない

とも疑ってみるのですが、やっぱりちがうんですよね。

もっとずっと相手への尊敬があるのだと思います。

ぼくにはなれないし、なれたらいいなとちょっと思うけど、

なによりあなたが素晴らしいんです、という感じ。

これは、いつごろからか、ぼくが獲得した感じ方です。

だいたいのいいものにあこがれちゃう。

その対象が、世界の偉人であろうが、子どもであろうが、

どうぶつであろうが、カニ食いおじさんであろうが、

ときには景色であろうが、仕組みであろうが、

さらには歴史上の暴君であろうが、鬼であろうが、

あこがれることはいくらでもあります。

 

P280

ぼくは、子どもだったころのじぶんの娘に、

たくさんのことを教えたおぼえはないのですが、

意識的に教育したことも、いくつかはあります。

 

ひとつは、いっしょに出かけるとき、

ぼく自身はエスカレーターに乗って上るのですが、

娘にはその横の階段を上らせました。

かなり小さいときから、それをしていたので、

「なんでわたしは階段なの?」と不平を言うこともなく、

当然のことのように、階段を上っていました。

脚が丈夫になって駆けっこが速くなるというような、

得があるからという理屈もあったかもしれませんが、

「らくじゃないことをへっちゃらでやる」人間に

育ってほしいと考えていた、と言うのが本心です。

 

骨惜しみせず、「らくじゃないことをへっちゃらでやる」

というような人に、ぼくは憧れていたのだと思います。

娘には、そういうふうになってもらいたいと考えて、

たとえば階段を上るように教えたのでした。

 

子どものころから、娘自身も大人になりましたから、

いまでも階段を上っているかどうかは知りません。

でも、人からなにか頼まれたりすることを、

めんどくさがるような素振りを見せずに、

わりかし当然のようにやっているのは、知っています。

 

いまさらですが、「骨惜しみしない」ということ、

人がよく生きていくための、すばらしい資質になります。

娘の娘にも、階段を上らせてくれないかな。あれはいいぞ。

 

P294

ぼくらは、いつも、先にわかっている。

つまり、わかってからなにかしているのではなくて、

しているときには、すでにわかっていたりするものなのだ。

うまく言えないけれど、ほんとはわかっていた。

そういうことのかたまりなのだ。

 

ことばにできるとき、というものがあって、

わかっていることの一部分なり、おおまかなところが、

すがたかたちのあることばになる。

ことばになると、ほかの人に伝えられたり、

忘れないように記しておいたりができる。

 

わかっていることのうちで、

ことばになりたくてしょうがないところが、

あたまだか、こころだか、内臓だかのあたりで、

うぃーんうぃーんとうなりだすと、

とても重苦しい感じになる。

その時間がしばらくつづいて、

やがてことばとしてけむりのように外にでる。

 

ことばとして外にでてしまうと、

それに、別のことばがとりついていく。

もしかしたら、別のことになっていくのだけれど、

なかなかそれには気づきにくい。

わかっていることは、もしかしたら、わからなくなる。