彼岸と此岸

魂でもいいから、そばにいて ─3・11後の霊体験を聞く─

こちらは著者が、お話を聞く旅をふりかえっているところです。
あちらとこちらの距離、東北だけでなく、どこでもだんだん近くなっている気がします。

P249
 この世にほんの一瞬あらわれた不思議な出来事は、そこにあらわれた死者と、それを体験した生者の長い長い物語の一コマにすぎない。もしこんな体験をしなければ、あるいは僕と出会わなかったら、おそらく誰も知らずに消えていったことだろう。それにしても、なぜ東北で、不思議なとしか形容できない出来事が、これほど多く出来するのだろうか。
 僕がこれまで聞いた物語を思い返していたときだった。実は不思議な体験の中に、僕自身が本書のテーマにそぐわないとして排除した、奇談怪談ともいえる話がたくさんあったことに気がついた。
 その一例をあげる。気仙沼のT子さんの家に招かれたときだ。いきなり「幽霊が歌っているんです」と言って驚かされた。
「震災の翌年でした。入院していた母の見舞いから帰ってきた娘が『おばあちゃんは幽霊としゃべっとる』と言うものですから、そんな馬鹿なと思って母の病室に泊まりこんだんです。その日の夜でした。ものすごく甲高い声で歌っているのが聞こえてくるんです。母は声がする方を見てニコニコしています。
『誰かいるの?』
 母にたずねると、母は『やだね』と笑い、『ほら、子供たちがたくさんいるじゃないか』と言うんです。私には歌声は聞こえるのですが姿は見えません。でも、母には見えているようなんです。
『どんな子供たちなの?』
『かわいそうに、戦争で焼け出されたようなボロを着た子供もいるよ』
『怖くないの?』
『楽しいよ。お菓子をあげたいんだけど』
 翌日、介護職の女性にたずねると、『震災でいっぱい人が亡くなったから、病院ではよく出る』ということでした。母が亡くなったのはその二週間後でしたが、あんな明るい幽霊に見送られて、きっと穏やかに旅立てたに違いありません」
 ・・・
 ・・・この地では彼岸と此岸にたいして差がないのだと思う。霊的な体験が語られるのも、こうした精神世界がここに住まう人たちに共有されているからだろう。
 僕の知人の大学教授が、がんで亡くなる前にこんなことを言った。死ぬことがわかってから、合理的に理解できないスピリチュアルなことが周りでいっぱい起こっていることに気がついた。常識に囚われていると、そういうことに気づかないのだろうね、と―。魂魄も、それに気づく人がいてこそ、この世にあらわれるのだろう。東北には、西洋的な常識に囚われない土壌があるゆえに、不思議な体験が日常茶飯に起こるのかもしれない。
 この世に存在するのはモノだけではない。ある人を慈しめば、慈しむその人の想いも存在するはずだ。この世界を成り立たせているのは、実はモノよりも、慈しみ、悲しみ、愛、情熱、哀れみ、憂い、恐れ、怒りといった目に見えない心の働きかもしれない。だからこそ人の強い想いが魂魄となって、あるいは音となって、あるいは光となってこの世にあらわれる―。なんてことを、僕は夢うつつに妄想しながら、被災地で起こった不思議な体験のことを振り返っていた。