ヒトの壁

ヒトの壁(新潮新書) 「壁」シリーズ

 養老孟司さんのエッセイ、そういう視点もあるんだ、と興味深く読みました。

 

P52

 ・・・学者は世界を理解してしまう。私の身近であっても、二人の知人、数学者の津田一郎、科学者の郡司ペギオ幸夫は次のように世界を捉え、表現する。

 津田は『心はすべて数学である』(文藝春秋)という表題の本を書いた。文科系の人なら「心は一人一人違うだろうが」と思うに違いない。津田はその反論に一言で回答する。「それは数学的には誤差に過ぎない」

 私も若い頃、理不尽な文句を言い立てられると、「所詮は空気の特殊な振動に過ぎない」と思うようにしていた。どんな声も音も空気の特殊振動に過ぎない。そんなものにいちいち反応していられないと、今も思っているかもしれない。・・・

 郡司のほうは、『天然知能』(講談社選書メチエ)の中で、「天然知能はただ世界を受け容れるだけ」と述べている。天然知能はいまだ正体の知れない外部を召喚する。人工知能にそんなものが出てきたら、バグ(間違い、エラーのもと)にしかならない。これだけではわからないと思うので、後は本を読んでいただきたいが、さて、どうだろうか。

 

P74

 東京大学での現役時代、各学部の代表が集まった会議の席上で、医学部出身の森亘総長から、当時の松尾浩也法学部長に御下問があった。東京大学の総則の中と、各学部の規則の中に、ほぼ同じ文面がある。ただし語尾が少し違う。森さんは「こういう語尾の違いは法学部的には解釈が違うんでしょうね」と尋ねたのである。これに対して、松尾法学部長は開口一番、「解釈せよと言われれば、いかようにも解釈は致しますが」と答えた。

 これが東京大学法学部の基本であるらしい。官僚が法律を作る時は、「いかようにも解釈できる表現」となるよう、鋭意努力するのであろう。

 文学のように、その場に最も適切な表現を探して徹底的に推敲したり、理科系のように、可能な限り精確な表現を目指したりするのは、社会的にはいわば未熟な態度である。社会の実情を言葉で縛ることなど、どうせできはしない。でも法はそれをあえて縛ろうとするものだから、それならできる限りの自由度をあらかじめ確保しておくのが、大人の態度というべきであろう。

 松尾法学部長の発言を聞いて、私は自分の未熟を反省したのである。

 

P117

 私の母は、実家を捨てて都会に出て来た人で、自分の父親に勘当を三回返した、と威張っていた・・・

 ・・・

 母は開業医で、生涯それだけを続けた。一切の公職につこうとせず、医師会の役員ですら拒み続けた。母が九十五歳で大往生を遂げた後、朝鮮日報だったかの記者という人が来て、戦中に母が在日の人たちを差別なく親切に医療を行ってくれたという趣旨で、母の思いを尋ねてきた。

 私ははかばかしい返答をしなかったが、母自身が日本社会を受け入れていなかった人だったと気が付いた。勘当の話もそうだし、公職を嫌ったこともそうだった。そうした母にとって、社会から排除される人たちをいわば普通の人として扱うのは当然だったに違いない。

 家の中でいうなら、兄は予科練終戦を迎え、戦後は早稲田大学に入ったが、一生定職に就かず、友人と酒ばかり飲み、母からもらった授業料を酒代に使ってしまい、母は授業料を何度払ったかわからないとこぼしていた。その実、母はその兄を一番かわいがっていた。

 私が東大の教授を務めている時期に、「子どもたちの中で一番心配なのはお前だ」と私に言うのが口癖だった。社会を受け入れないままで、一応社会的「成功」らしいものを手に入れている息子に、それはお前の本性とは違うだろうと、母親として危惧を感じていたのであろう。ここまで考えると、私が社会を受け入れなかったのは、敗戦のせいだけではなく、母親の影響が強かったのではないかと気づく。

 そういえば、大学を退職する一年前に豪州で虫採りをしている私の番組がNHKで放映された。それを見た母親が「子どもの頃と同じ顔をしていたので、安心した」と私に言った。大学を辞めたので、もっと安心したであろう。思えばそれが私の最後の親孝行だった。

 

P126 

 最初にラオスに行ったとき、ルアンプラバンに行くために空港で待っていた。案内役の若原弘之君が説明した。これから乗る飛行機は、ラオス航空が中国から二十五機、新品を買ったうちの一機である。そのうち二十三機は故障したか、墜落した。「だから」この飛行機は大丈夫だ、という。

 要するに戦争のヴェテラン扱いである。これまでも生き抜いたから、これからもきっと大丈夫。

 飛び上がると、機内が真っ白になって、なにも見えなくなった。湿気て、極端に暑いところから涼しい高空に上がったので、水蒸気が凝結して機内で雲になったわけである。無事にルアンプラバンに到着したときは、乗客から拍手が起こり、機長が真っ先に操縦席から出てきて、乗客たちと握手を交わしていた。

 この思い出話を若原君にすると、「安心させようと思って言ったんだ」という。安心安全は現代日本の流行語だが、ラオスの安心安全は日本と少し違うらしい。人生とは、やっぱりそんなものなのである。

 

P136

 坂口とは十年以上前に初めて会った。大学では建築を専攻し、段ボールハウスの研究をしていますという話だった。・・・

 ・・・坂口は絵も描くし、音楽もやるし、詩も書く。そして、・・・「場」を設定するのが上手である。「場のアーティスト」と言ってもいいのではないかと私は思う。

 心の悩みと言うと、悩んでいる自分を変えなさいという忠告を受けることが多いと思う。坂口はそれを言わない。今の自分を一切変えないという条件を付ける。そのうえで望みを実現する具体的な手段を見つけ出そうとする。それは自分に居心地の良い「場」をつくることだ。

 その後の『躁鬱大学』(新潮社)では、人生の悩みとは「他人が自分をどう思うか」に尽きると彼は書いていた。躁鬱人は「心が柔らかい」から、合わせることはできる。だが、無理に自分を周囲に合わせれば、いずれ破綻する。それを避けるには、自分を徹底的に理解するしかない。

 ・・・

 ・・・自分を変えずに周囲に合わせないで上手にやっていくには、どういう状況を避ければいいか。「居心地が悪いと感じたら、すぐに立ち去る」といった具合である。当事者にとっては、まさにそうするより「仕方がない」のである。

 私は躁鬱人ではないが、坂口恭平の自由さ、明るさには常に感服する。付き合うのも楽である。これは当たり前で、「居心地が悪い」状況ではすぐに立ち去るのだから、私と付き合っている時は、居心地が悪くないはずであって、気楽でいられる。

 ここで思う。自分にとって、「居心地がいい」状態、場がどういうものかを把握することは、非躁鬱人にとっても重要なことである。その状態とは明らかに生物学的なものであって、要するに身体の調子である。

 その状態からしばらくズレたままでいることを、現在ではストレスというのであろう。ただ問題はそうした自分にとって適切なヒトとしての生物学的状態を現代人の多くが把握できなくなっているということである。私自身は近年猫のまるを参考にして生きてきた。そのまるは身体の具合が悪くて、この世の居心地が悪くなり、どことも知れず消えたらしい。猫もまた居心地の悪い状況から、ただちに立ち去るのである。