ぼくが13人の人生を生きるには身体がたりない。つづき

ぼくが13人の人生を生きるには身体がたりない。: 解離性同一性障害の非日常な日常

 つづきです。

 

P146

 僕から見て、haruはどういう人間かというと、ひとことで言えば「器用な人」ということになります。たとえば中学時代、高専受験を目指すにあたり、自分が理系の勉強が苦手だからと理系が得意な人格を生み出すなんて、なかなかできることではありません。

 僕たち交代人格にはそれぞれ得意分野みたいなものがありますが、それらはすべて、もともとharu自身に備わっていたものです。つまりharuの能力の各部を、僕らが個別に担っているだけなんです。そう考えると、彼はなんでもできる。僕が理系に強いのは、突き詰めればharuに理系の才能があったからなのですが、それを認めていないのは彼だけです。

 少し言い方を変えると、haruは自分に理系の才能があることを認めたくないけれど、僕という他人にわたすことで、その才能を開花させることができた。つまり、僕たち交代人格が存在しなければ、haruの能力は潜在能力のままで終わっていたかもしれません。

 おそらく、haruは「自分は○○ができる」という現実を見たくなかったのでしょう。それは不思議な感覚だと思うのですが、彼はなにかを達成したり誰かの役に立ったりして人に褒められることをとても嫌がるんです。目立ちたくないというよりは、自分になんらかの能力があることを知られたくないし、自分も知りたくない。・・・

 それはharuの弱さでもあると思うのですが、とにかく、すべてにおいて自分を認めたくない。彼が記憶をなくす一因に、「過去に成し遂げたことをなかったことにしたい」という心境も働いているのかもしれません。

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 先ほど、haruは僕らのような交代人格を生み出せるのだから、器用だと言いました。しかし、それは何人もの交代人格を生み出さなければならないほどの重荷を抱えていたということでもあります。その重荷から解放されるために、交代人格を生まざるを得なかった。それは人間の防衛本能のひとつなのかもしれません。・・・

 

P161

 haruは、10代のころは「20歳までに死ぬ」と言っていて、20歳になったら「25歳までに死ぬ」と言っていました。来年(2021年)、彼は25歳になるのですが、おそらく「30歳までに死ぬ」と言うでしょう。

 そうやって5年ぐらいのスパンでひとまず死を乗り越えている感じなので、この先どこまで僕らが生きていけるのか正直わかりません。だから、たとえば30年後の自分たちはどうなっているかとか、遠めの将来のこともあまり想像できません。・・・

 最近のharuは落ち着いているとはいえ、自殺願望が完全になくなったわけではないので、いつ死んでも不思議ではない。そういう刹那的な生き方をしているのですが、仮にこの先も生き続けた場合、徐々に僕らはいなくなっていくのではないか。というのも、解離性同一性障害の症状は若い人に多いからです。なので、歳をとればとるほどメンタルも安定して、その症状は薄れていくと思います。もしかしたら、先ほど洋祐が例に出した悠ちゃんみたいに、僕らの存在は完全に消滅するのではなく、ただ深く沈んだままの状態になるのかもしれませんが。

 いずれにせよ、「それはそれでいいことなのかな」とも思います。僕らが消えるということは、彼にとって僕らが必要なくなったということでもあるはずなので。もちろん寂しいとは思いますが、僕らがいなくても、haruが生きて、自立していけるのであればそれに越したことはありません。

 

P194

 主人格のharuです。

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「それでも、それでも生きてしまう世界は、なんて中毒性のある世界なんだろう」

 これは僕が「アパートメント」に書いた一文だ。ぼくは日々「死にたい」と感じている自殺志願者なのだけれど、今日も死ねずにいる。それはこの世界に中毒性があるからだ。というのは、ありがちな話かもしれないけれど、ぼくが「そろそろ死のうかな」と思った日に限って、なにかいいことが起こってしまうのだ。だから「ひょっとしたら明日もいいことがあるかもしれない」という期待を持たされて、つい生きてしまう。だから「神様に騙されながら、生きている」とも書いた。神様なんているのかわからないけれど。

 いま言ったように、ぼくは「今日」か、少なくとも「明日」までしか見ていない。だから大胆な行動をとれるのかもしれない。テレビの生放送に出たりするのもそうだ。母から「大丈夫なの?」と心配されるようなことでも、とりあえずやってみる。もしそこで失敗したら、そのときはそのときだ。なんなら死ねばいい。そういう意味ではほとんど自暴自棄に近いし、「死」に対して積極的、「生」に対して消極的だからこそ、ポジティブな身投げみたいなことができるのだろう。

 ぼくは記憶をなくし続けている。つらかったことも楽しかったことも平等に、すっかり忘れてしまう。それについては申し訳なさもあるけれど、自分ではどうにもできないから、どうもしない。仮に、ぼくが人生を長いスパンで考える人間だったら「ああ、また忘れてしまった」と気に病むかもしれない。でも、「今日」しか見ていないぼくには、基本的に「いま」と「ここ」しかない。だから、過去の出来事を忘れても「まあ、いいか」となる。その繰り返しだ。我ながら無責任な生き方だと思う。彼らからは「刹那的な生き方」だとよく言われるけれど。