大きな悟り

瞑想と認知科学の教室

 こちらは成瀬さんの、大きな悟りのお話です。

 

P184

 まず、瞑想というのは自分を知る作業ということです。それが大前提です。

 私たちは自分のことがわかっていません。ですから、少しずつ自分を理解していくことによって生き方が楽になったり、人生が心地良く過ごせるようになります。瞑想はそのために必要なテクニックなのです。

「悟る」というのも同じで、言葉を換えていうと「わかる」とか「理解する」ということです。例えば、いままでわからなかったことがわかった瞬間に「ああ、悟った」っていうじゃないですか?これって文字通り、一つの悟りなんです。

 三昧なんて言葉も、その意味するところは悟りなんです。ですから、悟りというのは思った以上に私たちの生活の中に溶け込んでいるんです。

 その中で、大きな悟り=大悟は自分自身のすべてを知ったことを言います。この究極的な悟りは自分に対するあらゆる疑問を解決してしまうことですが、僕がこれを言うと「そんな悟りは可能なんですか?」とよく質問されてしまいます。

 しかし、言葉というのは可能だからあるのです。大悟というのは生きている内に到達できる、実現可能な悟りなんです。

 では、ここに到達するためにはどうすればいいのか?というと、最初に言った、自分とはなんだろう?という疑問からスタートします。ただし、自分とはなんだろう?というのは哲学的な命題のようなものではありません。

 日々の生活の中で生じる、些細な疑問のことをさしています。

 ・・・

 ですから、悩みを解決するとは、そのまま一つの悟りになります。悟りは私たちの生活に密着したものであり、身近なものだったのです。

 ところが、多くの人は悟りを大げさに考え過ぎているので、逆に「悟りなんて自分には関係ない、別世界のもの」と思い込んでしまっています。そのため、ますます悟りが見えなくなってしまうのです。

 昔から言われている「悟り」は、いわば究極の悟りのことで、これはヨーガ行者であってもそう簡単にはたどり着けません。しかし、不可能かというと、まったくそんなことはなく、それこそ多くの人が悟っています。

 なぜ、究極の悟りを得られるのかといえば、一歩一歩身近な悩みを解決したためです。「お腹減ったな、なにを食べようかな」と思ってる時に「これだ」と決めるのも一つの悟りです。究極の悟りに至るルートの中の一番身近なもの。それが「今日何を食べようか」「明日何時に起きようか?」などという日々の生活に直結したものなのです。

 生きていくということは解決すべき問題が日々生じてくることを言います。それを一つ一つ解決していくことで、私たちは究極の悟りに近づくのです。