栗山元WBC監督と岡藤正広さんの対談を見て、興味を持って読みました。
絶対他力の話や、人材登用のポイントなど、印象に残りました。
P40
持ち下りを始めた忠兵衛はのちに数多くの従業員を雇うようになるが、当初の従業員はむろん地元の人間だ。近江出身の彼らはいずれも文字の読み書きと算術ができたからだった。
忠兵衛は当然のこととして受け止めていたが、それは地元の湖東地区には武士階級以外で識字能力のある人材が豊富にいた結果なのである。
交通の要路、産物、商業ノウハウの蓄積、識字能力は近江商人が生まれる背景だ。
さらに、もう一つの理由がある。
それは、近江人の特質を形作る要素でもある浄土真宗の信仰だ。
作家の司馬遼太郎は著書『街道をゆく 24近江散歩、奈良散歩』(朝日文庫)で「かつての近江商人のおもしろさは、かれらが同時に近江門徒であったことである」としている。
「京・大阪や江戸へ出て商いをする場合も、得意先の玄関先でつい門徒語法が出た。
『かしこまりました。それではあすの三時に届けさせて頂きます』というふうに。この語法は、とくに昭和になってから東京に滲透したように思える。明治文学における東京での舞台の会話には、こういう語法は一例もなさそうである。」
「日本語には、させて頂きます、というふしぎな語法がある。
この語法は上方から出た。ちかごろは東京弁にも入りこんで、標準語を混乱(?)させている。
『それでは帰らせて頂きます』。『あすとりに来させて頂きます』。『そういうわけで、御社に受験させて頂きました』。『はい、おかげ様で、元気に暮させて頂いております』。
この語法は、浄土真宗(真宗・門徒・本願寺)の教義上から出たもので、他宗には、思想としても、言いまわしとしても無い。真宗においては、すべて阿弥陀如来―他力―によって生かしてただいている。三度の食事も、阿弥陀如来のお陰でおいしくいただき、家族もろとも息災に過ごさせていただき、ときにはお寺で本山からの説教師の説教を聞かせていただき、途中、用があって帰らせていただき、夜は九時に寝かせていただく。
この語法は、絶対他力を想定してしか成立しない。それによって『お陰』が成立し、『お陰』という観念があればこそ、『地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました』などと言う。相手の銭で乗ったわけではない。自分の足と銭で地下鉄に乗ったのに、『頂きました』などというのは、他力への信仰が存在するためである」
忠兵衛は、親鸞が唱えた絶対他力こそ自分が信ずる道と決めた。浄土真宗を信仰することが人間として当たり前のことと受け止めていた。
阿弥陀如来という大きな力のおかげで生かしていただいているから、自分の商いは世のため人のためでなくてはならない。
忠兵衛も含めて当時の近江商人が行商に出かける際にはご本尊の阿弥陀如来の小さな御絵像(掛け軸)を巻き納めて荷物の上に置き、定宿で御本尊を掛けて、朝と夕べに勤行したという。
浄土真宗の教えは忠兵衛に倫理的な信念を植え付けた。節約、勤勉、誠実といった彼の美点は門徒として日々、信仰に励んだから育まれたものだった。
「商売は菩薩の業」
彼の座右の銘だ。
忠兵衛という人は倫理的、内省的な人で、従業員にもそれを要求した。彼は創業のころから世間に対して謙虚で、社員にやさしく対したのだった。
P62
二代忠兵衛が洋行で得たもっとも大きな財産は井上準之助との出会いだった。本人自身が「井上さんと出会ったことが後半生を決めた」と語っている。
二代忠兵衛にとって生涯の師となる井上は、浜口雄幸内閣(1929~31年)の大蔵大臣として金解禁を断行し、結果として不況を引き起こしたとされる人物だ。
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その井上がニューヨークに駐在していた時代、二代忠兵衛はイギリスへ向かう前に立ち寄っている。
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井上は忠兵衛がやってくると、人生や生活についてアドバイスをした。そして、折を見て、仕事についても忠告した。
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ニューヨークをたってロンドンに向かう前、二代忠兵衛は井上から「人生でもっとも大切な指針」を得ている。それは人事の要諦だった。
人の抜てきでは「人格を重んじる」のが世間一般の常識とされているが、井上は違った。
「人格者を重用するな」と伝えたのである。
二代忠兵衛は言葉の意味を測りかねた。
井上は答える。
「君の人物評定は大体正しい。その半面、感情が非常にきつい。感激性が強いのと、正義を愛する精神から少しでも曲がったやつを排し、人格者を重用したがる性格がよく見える。しかし、それはどうかな。
能力と人格が並行する人もあるが、そうでない場合もままある。ことに君のような古い家では老番頭のなかには『命をかけて』などという人もいるはずだ。それはまことに迷惑な話だ。一方的な見方で物事を処理してはいけない。俺が君に言いたいのは、人格者ばかり使ってはいけないということだ」
井上が例に示した「人格者」とは忠義一途で店のためならどんなことでもやる人間、そして、店よりも伊藤家に奉公している気分でいる人間という意味が含まれている。
実際的であり本音の助言だった。現代の経営者が聞いたとしても、内心、うなずく話ではないか。
二代忠兵衛はよほど印象に残ったとあって、「一生のうちでもっとも強い言葉」と回想録に記している。
イギリス留学の後、帰国してから、二代忠兵衛はこの指針に従って、部下の人事を敢行し、「数年のうちに、旧形式の人がほとんどいなくなった」。
二代忠兵衛が引退させたのは、何かあればすぐに「先代はこう言った」と創業者を持ち出す幹部だった。
そうしたことを考え合わせると留学の成果は事業の拡大につながっただけではなく、組織における人材の登用に関する哲学を得たことだった。