般若心経のこころ

般若心経のこころ―とらわれない生き方を求めて

 このようにありたいものだなぁ・・・と思いつつ読みました。

 

P24

梅原 ・・・空の思想というのは、大きな意味を持っていると思います。・・・欲望否定にとらわれずに、欲望肯定にもとらわれない、つまり、肯定にも否定にも、また「有」にも「無」にもとらわれない、こだわりを持たない。それが「空」の立場だというわけです。・・・

 ・・・

瀬戸内 私も、とらわれないということが仏教ですよと、一生懸命いうんです。ところが、皆、お釈迦さんの教えは戒律がいっぱいあるからとても不自由だと思う。ところが、本当は非常に自由なんです。・・・物事にとらわれない心を知ったら、それは無限に自由ですものね。本来は、そういうふうな教えなんだけれども、実際は反対に、あれしちゃいけない、これしちゃいけないということばかりが目立つ。・・・

 

梅原 私も大乗仏教というのは自由を説いた宗教だと思います。だから、羅漢なんてものはみんな自由人だった。だから一人一人顔が違う。みんな自由な人だった。あれが「空」を悟った顔だと思います。たとえていうと、文化勲章芸術院会員になりたがって、賞を取りたがったら、これはやはり欲望にとらわれている。逆に、そういうものに対して俺は絶対受けないんだとか、これもとらわれなんだな(笑)。

 

瀬戸内 そうそう、だから自然体でいいんですよね。

 

梅原 自然体で、そんなものは自分は持とうとしないけど、ふりかかってきたらそれは拒否する必要もない。すべてそういうことだと思う。・・・

 ・・・

瀬戸内 でも、自由になったからといって、欲望に興味がないというのではいけない。要するに、大いに興味があるんだけど、とらわれないということでしょう。

 

梅原 そうですね。それが、私は人生の知恵だと思うなあ。禁欲を説くのはやさしいし、それから欲望だけの人生というのは、これもやさしい。そういう強い欲望を持ちながら、そこから自由になって、欲望をもっと大きなものに向ける。そう説いたんだと思う。

 

瀬戸内 それが実際には般若の知恵を身につけるということですよ。

 

P188

 ・・・時宗の祖一遍も般若思想とつながっていたことが窺い取れる。一遍は修道の過程で、次の頌に示されるような境地に達した。

「十劫に正覚す衆生

 一念に往生す弥陀の国

 十と一と不二にして無生を証し

 国と界とは平等にして大会に坐す」

 これを「十一不二頌」と言う。詳しく解釈する紙幅はないので要点だけを述べると、一遍は十劫というはるかな昔と一念の今現在、あるいは仏と一切衆生を対立概念とせず、「不二」として把握しているのである。これはそのまま、般若思想の聖俗不二、実在と非在の不二に相当すると見てよいであろう。

 一遍はまた、「自力他力は初門の事なり。自他の位を打捨て、唯一念、仏になるを他力とはいふなり」と言い、「地獄をおそるる心をもすて、極楽を願う心をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切をすてて申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤かなひ候へ」と言う。そして、そうすれば「仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界、皆浄土なり」ということになる、と言うのである。

 一遍が説く世界には、救われたいと願う心もなく、悟ったという自覚もない。

 般若思想の「空」観は、前にも触れたように、自我・我執を離れ、対立概念を排してすべてを「不二」と感じることが肝要だと強調している。そのことを突き詰めれば、悟っても悟ったという自覚がない境地こそ、真にまがいものでない悟り、つまりは「阿耨多羅三藐三菩提」ということになるであろう。

 

P192

 ・・・道元は正師を求めて中国に渡り、天童山の如浄に参禅すること数ヵ月、ある日豁然と悟りの境地に入った。そのとき道元は如浄に向かって、こう語ったという。

「身心脱落、脱落身心」

 身心の脱落とは、悟りの状態を意味する。だが道元はそこにとどまらず、脱落した身心からさらに脱落したと言っているのだ。それは、前にも触れた「空」観の、悟っても悟ったという自覚のない境地を指し示すものと言ってよいであろう。その瞬間の道元は、まさに何物にもとらわれることのない完全な無心無我となりえたわけである。