縁起

こころを磨くSOJIの習慣

 「自己をならふといふは、自己をわするるなり」、全ては関係性によって起こってくる、この感覚に慣れてきたような・・・

 

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 道元禅師が正法眼蔵の冒頭に「仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と示されています。曹洞宗では、悟りは修行の結果として得られるものではなく、坐禅の修業が悟りそのものであると考えると伺いました。つまり、悟りという目標が修行の終わりにあるのではなく、そもそも修行と悟りは切り離すことはできないものだということです。

 

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 華厳経というお経に、インドラネット、インドラ王の網、という話があります。私たちは、仏教で縁起というところの、網のような世界を生きているというのです。

 仏教では「縁起」という考え方を大切にします。今どきは、よく「縁起が良い」とか「縁起が悪い」というふうに使われがちですが、本来の意味は「全ての存在は縁によって成り立っている」というその仏教の世界観を表すものです。

 それそのものとして独立して成り立っているものは何もなく、全ては相互関係的に成り立っていて、何かが変化すればそれがまた他の全てのものに反映されてくる。私たちは皆、そういう関係性で成り立っているということを示しています。

 そして、全ては関係性によって起こってくる、それはインドラ網のようなものであると言うのです。私たち一人ひとりは、その網の目であると。

 網の目というのは糸と糸が交差したところにたまたま引っ掛かりがあって、それを目と呼んでいるだけであり、それ自体で独立して存在しているものではありません。仮に、そこに生まれてきたものだとも言えます。

 さらに、その目の一つ一つに宝石が付いていて、私たち一人ひとりはその網の目の宝石のようなものであると言います。でも、一つ一つの宝石がそれ自体で光っているわけではありません。互いに、ほかの全ての宝石の輝きを反射して輝いているというのです。

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 これは、お互いが他者を反射して存在するものだとしたら、「私」を突き詰めていくと、どこにも私がいないということになります。すなわち、「空」です。それを本当に知ることが悟りであると、言われます。

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 私たちの日常感覚で言うと、まず自分を大事にして、ちょっと余裕が出てきたら他の人を助けようか、やっぱり他の人を助けるにも、まずは自分がちゃんと整っていないとできないよね、というふうに、自他の順序が問題になりがちです。しかし、縁起の話でいうと、自の抜苦与楽と他の抜苦与楽が分かれているわけではなく、他者に何か働き掛けること自体が、即時に自分にも反映してくるということなのです。