興味深かったところです。
国による表現の違い、おもしろいです。
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生と死は矛盾するというふうに私たちは知らず知らずのうちに思いこまされてきましたが、そういう思いこみも実は文化によって、時代によって流動的なものだと思います。二十一世紀は生と死を曼荼羅風に自分で自由に配置できる時代になりつつあるような気がします。その兆しを二三引用してみましょうか。
日本語で書くアメリカ出身の詩人、アーサー・ビナードの詩「英語で『バケツを蹴る』とかいうが」の中には、日本語の「息を引き取る」という表現が南アフリカでは「幸福の猟場へ出向く」、スペイン語では「違う縄張りへ出向く」、ウェールズ語だと「山頂にたどり着く」、フィリピンへ行けば「上のほうでどんちゃんやる」、ハンガリー語だと「下から菫の匂いを嗅ぐ」、チェコ語だと「土中で屁をこく」などなど、愉快な表現が並んでいます。日本でもきっと方言には軽味のある面白い言いかたがあるような気がしますが、鳥取のほうではいかがでしょうか。
最近楽しく読んだ韓国の詩人リュ・シファのインド放浪記『地球星の旅人』の中で見つけた言葉、「この世で生きるべし。だがこの世に属してはならない」、金言と呼んでもいい強い言葉ですね。インドの人々は輪廻転生を信じていると言いますから、この世は仮の住まいだという感覚があるのだと思います。でもこの世に属さないで生きるには俗世間を捨てて出家しなければいけないのかと言えば、そんなことはないと思う。
今朝の郵便物の中にあった或るDMに添えられた編集者の便りから。「友人のひいお婆ちゃんが昨年九十六歳で亡くなられた。陶芸の先生でもあったそのひいお婆ちゃんは生涯現役」だったとのこと。「亡くなる直前、友人がそっと枕元で手を握ると、ひいお婆ちゃんは黙って彼女の手の平にまるを人差しゆびでゆっくり描いた」のだそうです。禅僧の書にはときどき文字ではなくまるの形を書いたものがありますが、まるにはどこか人を安心させる気がひそんでますね。遺言(?)が言葉じゃなくまるというのは、死を含んだ生を丸ごと無言で肯定しているようで素晴らしい。