心がほどける小さな旅

心がほどける小さな旅 (幻冬舎文庫)

 益田ミリさんのエッセイ、楽しく読みました。

 

P136

 一度やってみたかった第九の大合唱。その理由は、いたって単純。感動しそうだから。

 感動したい気持ち。

 これは一体、わたしの中のどこからやってくるんだろう?

「第九、歌ってみたいんですよねぇ」

 猫山さん(仮名)とカフェで雑談しているときにポロリと口にしたところ、猫山さんのテンションがいっきに上がった。

「えっ⁉わたしもです、前々から、やってみたいと思っていたんですよ。マスダさん‼」

 人がなにをやってみたいと考えているのかわからないものである。偶然にも、第九をやってみたいふたりが、向かい合ってお茶を飲んでいたわけである。

 しかし、時すでに10月。「第九」の大合唱といえば年末の風物詩である。今から間に合うわけないですよね~、などとあきらめていたのだけれど、猫山さんがインターネットで見つけた「東京混声合唱団と共に第九を歌う会」に問い合わせたら、入会は随時受け付けているようだった。舞台は、なんと東京国際フォーラム。大きな会場である。ふたり、いそいそとエントリーしたのだった。

 

♪レッスン1回目(11月5日)

 猫山さんと参宮橋に夕方の6時20分待ち合わせ。練習会場は国立オリンピック記念青少年総合センター

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 まずは、立ち上がってみんなで体操。先生の指示に従って首をまわしたり、手首をぶらぶらしたり。その後、軽く発声練習をして、さっそく練習が始まった。そして、わたしの頭は真っ白になる。

 こんな難解なドイツ語で歌える気がしないぃぃぃ。

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♪レッスン3回目(11月19日)

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 マエストロ(本番の指揮者)をお迎えしての初レッスン。いいところを見せようと、みんなが前へ前と迫り出して歌っている姿を見て、

「自分の声を聴かせようと思わない。みんなで歌う、それがコーラス」

 マエストロに言われる。ふと、調和について考えた。

 音楽も人とのつき合いも、そういうことが大事なんだよなぁ。

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♪レッスン4回目(11月26日)

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 ドイツ語が耳に馴染んできたとはいえ、楽譜なしではまだまだ到底無理。なにも見ないで歌っている人もいるけれど、それはおそらく「第九」常連の人たち。まだ大半の人が、楽譜を見つつ険しい顔で歌っている。

 そんなわたしたちを見た先生に、他のパートのメロディも聴きなさいと注意される。

「自分のパートばかり聴いていると、どんどん地図からはみでて樹海に迷い込んでしまいますよ」

 うーん。

 それって、日常の生活にも当てはまるのかも。自分の気持ちとばかり向き合っていたら、片寄った方向に流れていくこともある。友達と会ったり、本を読んだり。そういうこともしつつ進んでいかねばならんのだ。

「難しくて歌えないところがあったら、無理せずに休んでいい」

 とも言われた。

「無理してがんばると、聴いている人も不幸にします」

 先生がおっしゃって、みんな爆笑。

 しかし、まるですべてが人生論。がんばりすぎると、自分だけでなく、まわりの人にもよい影響を与えないものなのかもしれない。

♪レッスン5回目(12月4日)

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 男性はテノールとバスというパートに分かれていて、男性しか歌わない箇所もいくつかある。そのとき、

「ああ、男性の声ってきれいだなぁ」

 とハッとする。そんなこと、普段ってあんまり感じないけれど、普通のオジサンたちの声をきれいだと思えるから不思議。

 男性のパートで、ハイキングに行くみたいに愉快なメロディのところがあり、歌っている姿を見ると、かわいくてちょっとキュンとくる。

 いつも、練習が終わった後は、みんなで拍手し合う。

 いいなと思う。それぞれを認め合っているような温かさ。

 普段の仕事でも、つい誉めてもらうことばかりを期待してしまうけれど、それじゃあ一方通行なのかもしれないな、と反省する。

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♪レッスン7回目(12月12日)

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 合唱って、男性のパートも、女性のパートもそれぞれが重要で、どちらかがより大切ということではなく、すべて大切なんだなぁと思う。お互いに自分の持っているものを差し出し合って、ひとつのきれいなメロディをつくっていくという楽しさ。

「こういうことなんだよ!」

 よくわからないけど、そんな気になる。

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 お腹から歌うのは、本当に本当に気持ちがいい。仕事で心ないことを言われてくさくさしつつレッスンに向かった日も、帰る頃には気が晴れていた。

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♬舞台当日(12月16日)

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「今までいろいろ細かいことも言ったけど、今日は、ぜひ、みなさんで音楽を楽しんでください!」

 ううう、なんか本当に泣きそうになってしまった。休憩のときに、猫山さんも「さっき泣きそうになりました」と言っていた。

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 そして、いよいよ本番。

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 整列し終わるとライトがあたり、ここからはなんだかあっという間に過ぎていった。わたしは舞い上がって歌詞がほとんど出てこず、口パクも多かったけど……でも、心は清々しかった。拍手を受け、ぞろぞろと舞台裏に戻ると、参加者全員の顔がぱーっと笑顔になっていた。

 年末の慌ただしい中、2カ月にわたって第九の練習をしてきたわけだが、本番そのものより、練習についやしていた時間のほうが楽しかった、というのが意外だった。

「歌えないところは誰かが助けてくれるから大丈夫」

 毎回毎回、レッスンで言われていると、そうなんだよなぁ、人を信じたり、頼ったりすることって悪くないんだよなぁと思う。

 大勢でなにかをやりとげる。そしてわかりやすい達成感を味わう。学生ドラマのようなつかの間の日々も、たまにはいいものだった。またいつか参加してみたい。今度はもっとしっかりレッスンして!