メロディーを聞くとは、聞く、聞こえた、聞こうとしている、のすべてが同時に起こること

音楽嗜好症(ミュージコフィリア) (ハヤカワ文庫NF)

 「どんなメロディーも『過去は思いださなくてもそこにあり、未来は予想しなくてもそこにある』」・・・ほんとだ!と驚きました。

 

P271

 一九八五年一月、イギリスの著名な音楽家音楽学者でもある四〇代半ばのクライヴ・ウェアリングは、・・・深刻な脳の感染症ヘルペス脳炎に襲われ、とくに脳の記憶にかかわる部位を冒され、私が記述していた患者よりもはるかに悪い状態に陥った。ジミーには約三〇秒の記憶があったが、クライヴの場合、それがわずか数秒だった。新しい出来事や経験はほぼ瞬時に消し去られる。

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 何かにしがみつきたくて、何か手がかりがほしくて、クライヴは日記をつけ始める。最初は紙の切れはしに、その後ノートに書くようになった。しかしその日記には基本的に、「目覚めた」、「意識が戻った」という言葉が数分おきに何度も書きこまれることになる。「午後二時一〇分、今回はきちんと目覚めた……午後二時一四分、今回はついに目覚めた……午後二時三五分、今回は完全に目覚めた」というふうに書くのだが、それを否定する言葉も書く。「午後九時四〇分、前に書いたことに反するが、私ははじめて目覚めた」。これがまた取り消されて、「午後一〇時三五分、完全に意識が戻り、何週間ぶりに目覚めた」。そしてこれが次の記録でまた撤回される。

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 ・・・私はピアノの上にバッハの『平均律クラヴィーア曲集』二巻が置かれているのを見つけて、クライヴに一曲弾いてほしいと言った。彼は「これまで弾いたことがない」と言ったが、ホ長調前奏曲九番を弾き始め、弾きながら「これは憶えている」と言った。実際にやるまではほとんど何も憶えていないのだが、やると思いだすことがある。彼は途中でちょっとしたすてきな即興を差しはさみ、長大な下り音階でチコ・マルクス風のエンディングにした。すばらしい音楽的才能と遊び心をもつ彼は、やすやすと即興演奏し、おどけ、どんな楽曲でも遊ぶことができる。

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 クライヴの記憶喪失は、新しい記憶を保持する能力をだめにしただけでなく、デボラと会って恋に落ちた日々の記憶を含めて、昔の記憶もほぼすべて消し去ってしまった。彼はデボラに訊かれて、ジョン・レノンジョン・F・ケネディも聞いたことがないと話している。彼はいつも自分の子どものことはわかるのだが、デボラの話では、「彼らの背が高いことに驚き、自分に孫がいることを聞いてびっくりするんです。次男が学校を卒業して二〇年以上経っているのに、二〇〇五年の中学修了試験の成績はどうだったかなんて訊くんですよ」。それでもなぜかデボラが訪ねると必ず、彼女を自分の妻として認識し、熱く必死に抱きしめる。どれくらいのあいだ彼女がいなかったのかわからない―直接の知覚と注意の範囲にないものはすべて数秒のうちになくなり、忘れられるので―ため、彼はデボラも永遠にいなかったと感じるようで、深淵からの彼女の「帰還」は彼にとってまさに奇跡のようなものに思える。

「クライヴはつねに知らない場所で知らない人に囲まれていた」とデボラは書いている。

 

 自分がどこにいるのか、自分に何が起きたのかをまったく知らない。私の姿を見つけると、つねに大きな安堵を覚えた―自分は独りではない、私がまだ気にかけている、私が愛している、私がそこにいるとわかって。クライヴはつねにおびえていた。それでも私は彼の生きがいであり、彼の命綱だった。私を見るたびに駆け寄ってきて、倒れこむようにして私にしがみつき、すすり泣いた。

 

 クライヴはほかの誰のことも一貫して認識することがなかったのに、なぜ、どうやって、デボラのことがわかったのだろうか。確かに記憶にはさまざまな種類があり、なかでも感情的な記憶はとりわけ深遠で、いちばん理解されていない。

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 もう一つの奇跡は、もっと前、クライヴがまだ病院にいて、どうしようもなく混乱してまごついているときに、デボラが発見した―彼の音楽の能力がまったく損なわれていなかったことだ。デボラの著書によると、彼女は楽譜を手に取り―

 

 クライヴが見えるように開いた。そして一節を歌ってみた。すると彼がテノールのパートを一緒に歌い始めた。一小節ほど進んで、私は突然、何が起こっているかを悟った。彼はまだ楽譜を読める。そして歌っている。彼の話すことはごちゃごちゃで誰にも理解できないかもしれないが、彼の脳は今なお音楽の能力を失っていない。……私は病棟に戻ってこのニュースを伝えたくてたまらなかった。彼が最後まで歌い終えたおき、私は彼を抱きしめ、顔中にキスをした。……

 クライヴはオルガンの前にすわって、両手で鍵盤を弾くことができた。音栓を操り、ペダルも踏んでいる。まるで自転車に乗るより簡単だと言わんばかりに。突然、二人で一緒にいられる場所ができた。病棟を離れ、私たちだけの世界をつくり出せる場所が。友人たちもやって来ては一緒に歌った。私はベッドのそばに楽譜を積み上げ、見舞客もいろいろな曲を持って来てくれた。

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 ・・・クライヴが歌ったり、ピアノを弾いたり、合唱団を指揮したりするときは必ず、無意識運動が助けに来る。しかし芸術的、創作的なパフォーマンスのなかに現れるものは、たとえ無意識運動に頼っているとしても、決して機械的なものではない。実際の演奏が彼を元気づけ、創造性のある人間として引き込む。演奏は新鮮で生き生きとしたものになり、即興や新しいアイデアが加わることもある。クライヴが演奏を始めると、「勢い」に乗ってかれが進み、曲も進んでいくのだ、とデボラは書いている。自身も音楽家であるデボラは、このことを非常に的確に表現している。

 

 音楽の勢いがクライヴを小節から小節へと運んだ。曲の構造のなかでは、五線が電車の線路で、行先は一方向しかないかのように、彼が進路をはずれることはなかった。どの楽節のなかにも、リズムと調とメロディーによって暗示される枠組みがあるので、彼は自分がどこにいるのか正確にわかっていた。自由になるのはすばらしい。音楽が止まると、クライヴはどこかわからない場所に落ちてしまう。しかし演奏しているあいだ、彼は正常に見えた。

 

 演奏するクライヴ本人は、彼を知っている人には、病気になる前と同じくらいはつらつとしていて完璧に見える。自伝的自己、顕在的エピソード記憶に依存する自己は、ほとんどなくなっているのに、この演奏する存在モード、演奏する自己は、どうやら記憶障害に冒されていない。・・・

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 記憶障害のせいで出来事を記憶したり予想したりすることができないクライヴが、音楽を歌い、演奏し、指揮することができるのは、音楽の記憶がごくふつうの意味の記憶ではないからだ。音楽を思い出す、聴く、奏でることは、完全に今現在にある。

 音楽学者のヴィクトル・ツカーカンドルは、著書『音とシンボル』でこのパラドックスを見事に探究している。

 

 メロディーを聞くとは、メロディーとともに聞くことである。……その瞬間にある音が意識を完全に満たすこと、何も思い起こさないこと、その音以外は意識に何もないこと、それがメロディーを聞くことの条件でさえある。……メロディーを聞くとは、聞く、聞こえた、聞こうとしている、のすべてが同時に起こることだ。どんなメロディーも「過去は思いださなくてもそこにあり、未来は予想しなくてもそこにある」と宣言している。