わたしたちが経験している時間とは・・・

時間は存在しない

 どうもそういうことらしい・・・とはいえ不思議な感覚です。

 

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 始まりは、わたしたちに馴染みのある時間像、宇宙の至る所で等しく一様に時が流れ、すべての事柄が「時」の流れのなかで起きるというイメージだった。宇宙のあらゆる場所に現在、つまり「今」があって、それが現実だと思っていた。過去は誰にとっても過ぎ去ったもの、定まったものであり、未来は開かれていて、まだ定まっていない。現実は過去から現在を経て未来へと流れ、事柄は、本来過去から未来へと非対称にしか進展しない。それが、この世界の基本構造だと思っていた。

 お馴染みのこの枠組みは砕け散り、はるかに複雑な現実の近似でしかないことが明らかになった。

 宇宙全体に共通な「今」は存在しない(第三章)。すべての出来事が過去、現在、未来と順序づけられているわけではなく、「部分的に」順序づけられているにすぎない。わたしたちの近くには「今」があるが、遠くの銀河に「今」は存在しない。「今」は大域的な現象ではなく、局所的なものなのだ。

 世界の出来事を統べる基本方程式に、過去と未来の違いは存在しない(第二章)。過去と未来が違うと感じられる理由はただ一つ、過去の世界が、わたしたちのぼやけた目には「特殊」に映る状態だったからだ。

 自分のまわりで経過する時間の速度は、自分がどこにいるのか、どのような速さで動いているのかによって変わってくる。時間は、質量に近いほうが(第一章)、そして速く動いたほうが(第三章)遅くなる。二つの出来事をつなぐ時間は一つでなく、さまざまであり得る。

 時間が流れるリズムは、重力場によって決まる。重力場は真の実在であり、その力学はアインシュタインの方程式で記述される。今かりに量子効果を無視すると、時間と空間は、わたしたちが埋め込まれた巨大なゼリーの異なる側面なのだ(第四章)。

 しかしこの世界は量子的であって、ゼラチン状の時空もまた近似でしかない。世界の基本原理には空間も時間もなく、ある物理量からほかの物理量へと変わっていく過程があるだけだ。そしてそこから、確率や関係を計算することができる(第五章)。

 現在わかっているもっとも根本的なレベルでは、わたしたちが経験する時間に似たものはほぼないといえる。「時間」という特別な変数はなく、過去と未来に差はなく、時空もない(第二部)。それでも、この世界を記述する式を書くことはできる。それらの方程式では、変数が互いに対して発展していく(第八章)。それは「静的な」世界でも、すべての変化が幻である「ブロック宇宙」でもない(第七章)。それどころか、わたしたちのこの世界は物ではなく、出来事からなる世界なのだ(第六章)。

 ここまでが外へ向かう旅、時間のない宇宙への旅だった。

 そして帰りの旅では、この時間のない世界から出発して、わたしたちの時間の知覚がどのように生じるのかを理解しようとした(第三部)。すると驚いたことに、時間のお馴染みの性質が出現するにあたって、わたしたち自身が一役買っていた。この世界のごく小さな部分でしかない生き物の視点、つまりわたしたちの視点からは、この世界が時間のなかを流れるのが見える。この世界とわたしたちの相互作用は部分的で、そのためこの世界がぼやけて見える。このぼやけに、さらに量子の不確かさが加わる。そしてそこから生じる無知によって特殊な変数、つまり「熱時間」(第九章)の存在が決まり、わたしたちの不確定性を量で表したエントロピーが定まる。

 おそらくわたしたちは世界の特別な部分集合に属していて、その部分集合と世界の残りの部分の相互作用では、熱時間のある特定の方向におけるエントロピーが低いのだろう。したがって時間の方向性は確かに現実ではあるが、視点がもたらすものなのだ(第一〇章)。ことわたしたちに関していえば、この世界のエントロピーは、わたしたちの熱時間とともに増大する。

 そしてわたしたちは、自分たちが単純に「時間」と呼んでいる変数によって順序づけられた形で、さまざまな事柄が生じるのを目にする。わたしたちから見れば、エントロピーの増大が過去と未来の差を生み出し、宇宙の展開を先導し、それによって過去の痕跡、残滓、記憶の存在が決まるのだ(第一一章)。人類は、この壮大なエントロピー増大の歴史の一つの結果であって、これらの痕跡がもたらす記憶のおかげで一つにまとまっている。一人一人がこの世界を反映していればこそ、まとまった存在なのだ。なぜなら自分たちの同類と相互に作用することでまとまった実在のイメージを形作ってきたからで、それが、記憶によってまとめられたこの世界の眺めであるからだ(第一二章)。ここから、わたしたちが時間の「流れ」と呼ぶものが生まれる。これが、過ぎ行く時間に耳を澄ましたときに聞こえるものなのだ。

 「時間」という変数は、世界を記述するたくさんの変数のなかの一つでしかない。重力場の変数の一つなのだが(第四章)、わたしたちの知覚のスケールでは、量子レベルの揺らぎは認識できない(第五章)。だから、ちょうどアインシュタインの巨大なゼリーのように、時空を定まったものとして思い描くことができる。わたしたちのスケールでは、このゼリーの動きは小さく、無視できる。したがって、時空を堅いテーブルのようなものと見なすことができるのだ。ちなみに、このテーブルには次元がある。一つは空間と呼ばれるもので、もう一つはエントロピーの増大に沿う形の時間と呼ばれるものだ。日常生活でのわたしたちの動きは光と比べてひどく遅いので、複数の固有時の差や時計の食い違いを感じることはなく、質量からの距離が違うことによって生じる時間経過の速度の違いも、小さすぎて判別できない。

 だから結局のところ、あり得るさまざまな時間ではなく、ただ一つの時間―自分たちが経験する、一様で順序づけられた普遍的な時間―について語ることが可能になる。これは、わたしたちの特殊な視点、エントロピーの増大を頼りとして時間の流れにしっかり根差したヒトとしての視点からの、この世界の近似の近似の近似なのだ。わたしたちには、旧約聖書の「コヘレトの言葉」にあるように、生まれる時があり、死ぬ時がある。

 これが、わたしたちにとっての時間だ。時間は、さまざまな近似に由来する多様な性質を持つ、複雑で重層的な概念なのだ。