三谷幸喜のありふれた生活⓲ 時の過ぎゆくままに

三谷幸喜のありふれた生活 (18) 時の過ぎゆくままに

 ありふれた生活⓱が面白かったので、⓲も読みました。

 巻末の、古畑任三郎の新作小説も面白かったです。

 

P96

 息子が小学生になった。・・・

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 こんな道に進んで欲しいという思いは当然あるけど、親の願望を押し付けることはくれぐれもしないようにしている。彼が今何に興味を持っているのかについては、決して見逃さないように注意を払っている。

 彼は努力家である。先日はひたすらけん玉に没頭し、本体の先のとんがったあの部分に、今では容易に玉を入れられるようになった。ピアノも決して上達が早いとは言えないが、「サマータイム・ブルース」というとんでもなくジャジーな曲(名曲「サマータイム」とは別物)をなんとか弾きこなせるまでになった。

 文章を書くことに関しては、楽しみながら結果を出しているようだ。僕が読んで聞かせた星新一の作品に感化され、彼が書いたショートショート「ふしぎなくすり」は、さらさらと書いていたくせに、なかなかの完成度だった。ちゃんとオチもついていたし、星新一の文体を踏襲していたのが面白かった。

 彼が書いたオリジナル童話「ペンギン爺さんの旅立ち」。流氷に乗って去っていくお爺さんペンギンを孫ペンギンが追いかける。「帰っておいでよ」と叫ぶがお爺さんペンギンは振り返ろうともしない。孫ペンギンは浮輪をお爺さんペンギンに投げ、ロープを手繰り寄せて連れ戻す。その時孫ペンギンが呟いた一言、「案外あっさりと帰ってきたな」は、まるで僕が山本耕史に当てて書いたような言い回しで、思わず笑ってしまった。書いた本人も「ここは僕も一番気に入っている」と言っていた。明らかにそこは笑いどころだったのだ。

 少なくとも書くことは嫌いではないようなので、物書きの父親としては、ちょっと嬉しい。いや、ちょっとではない。

 

P117

 エラリー・クイーンをご存知だろうか。アガサ・クリスティーと共に推理小説の黄金時代を築いた作家である。

 実はこのエラリー・クイーンフレデリック・ダネイとマンフレッド・リーの合同ペンネーム。そしてこの二人が作品を作り上げていく過程でやり取りしていた往復書簡がこの度、本になった。『エラリー・クイーン創作の秘密 往復書簡1947ー1950』。この十年で読んだ本の中で、ダントツでエキサイティングな内容だ。

 ダネイがプロットを考え、リーがそれを小説化しているのは知っていた。「こんなトリックを思いついちゃったよ」とダネイが企画書を持ち込み、それを元にリーがタイプを叩く。その脇でダネイがコーヒーを入れたり、夜食のサンドイッチを作ってやったり。そんなほのぼのとした光景を勝手にイメージしていた。残された二人のツーショット写真にも、和気藹々とした雰囲気が漂っている。

 ところがこの本を読む限り、実際は全く違った。ここで紹介されている手紙の数々は、表現は柔らかいがほとんど罵り合い。往復書簡などという生易しいものではない。・・・

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 争いの原因はだいたい決まっている。ダネイの書くプロットが(それは僕が想像していたものより遥かに緻密だ)、リーのお気に召さないところから始まるパターンが多い。リーは、ダネイのプロットには人間が描かれていない、そんな薄っぺらい登場人物を小説に登場させるわけにはいかないと主張。ダネイは、なぜその人物が必要なのかを、イラっとしながらも論理的に説明しようと頑張る。

 僕に言わせれば、リーが悪い。ダネイが書くものはあくまでプロットなので、人物描写が甘くなるのは仕方ないではないか。・・・

 実際に小説にするのはリーなので、一般の皆さんは彼に肩入れしたくなるかもしれないが、僕はダネイ派。どんなものでもゼロからの出発が一番大変。リーの方が作品に向き合う時間は長いかもしれないが、それはタイプライターの前に座っている時間のことで、ダネイはプロットを練り上げるまで、同じくらい膨大な時間を掛けているのだ、たぶん。

 僕は脚本家だが、自分の中にも確実にダネイとリーがいる。物語を考える能力と、それを実際に台詞に起こす能力は別。二人の手紙のやり取りを読みながら、僕の中の二つの人格が議論しているような錯覚にとらわれた。

 物を書く仕事をしている人には必読の書だと思う。

 飯城勇三氏の翻訳も素晴らしく、ダネイの一人称が「私」、リーが「僕」というのも、(ああ、分かってるなあ)と嬉しくなってしまう。

 

P126

「日本の歴史」はとても幸せな作品だ。何かに見守られているというのだろうか。この作品の上演を様々な見えない力が後押ししてくれている。そんな気さえする。

 一例を挙げます。

 テキサスの移民の物語と日本史が交錯する、ちょっと不思議な構造を持っているこの作品。終盤、テキサスパートで香取慎吾さん扮するトーニョは、幕前でスピーチをするシーンがある。紆余曲折を経て、ビジネスマンとして成功した彼が、人前で己の出自を語る。香取さんの真に迫った芝居に客席中が静まり返る。ある意味全体のクライマックスなのだが、実はここは最初の台本にはなかった。初演の稽古中に思いついたのだ。

 この次のシーンが太平洋戦争。戦場の雰囲気を出すため、舞台上にスモークが焚かれる。舞台袖のスモークマシンから噴き出される煙に、ちょっとした違和感を覚えた。僕としては戦場になった瞬間に、既にもくもくとなっていて欲しいのだが、舞台監督の福澤諭志さんに「それは難しいです」と言われた。

 その前のシーンは、日本史パートで、秩父困民党の田代栄助のモノローグ。戦場でもくもくさせるには、既にそこからスモークを焚かねばならない。それは避けたかった。戦場のシーンになった時に、(ああ、だからさっきから煙が出ていたんだな)とお客さんに悟られるのが恥ずかしいからだ。

 二つのシーンの間に幕を閉めて、幕前で別の場面をやるのはどうか。その間に舞台にスモークを溜めるのである。となると幕前でどんな芝居をやればいいか。前後の流れから考えると香取さんに登場してもらうのが一番。そこであのトーニョのスピーチが生まれたわけである。それがあんなに素敵なシーンになるのだから、全く誰かに導かれているとしか思えない。

 さらに、この時の幕というのがブレヒト幕といって、主に場面転換に用いるのだが、稽古をしてみて分かったことがある。香取さんがスピーチをしている間、幕の後ろには前のシーンに田代栄助役で出ていた中井貴一さんが居残り、次のシーンにアメリカ兵役で登場する川平慈英さん(再演は瀬戸康史さん)も待機している。今回は一人の役者がいろんな役を演じるので、中井さんはトーニョの兄ジョセフ、慈英さんは父サミュエルも担当している。本来はスピーチの最後にトーニョは一人で歌うのだけど、どうせ幕の後ろにいるならジョセフやサミュエルにも歌ってもらおう。ということで、男性三部合唱が誕生した。

 このシーンを幕の裏から見ると、着流しの老人とGIが並んで歌っていることになって、それはそれで相当面白い光景なのだが、客席からは、死んでいった家族が歌でトーニョを応援するという、いい場面になった。今となっては、このシーンが最初はなかったなんて全く信じられない。

 まるで誰かがそうなるように、誘導してくれたみたいではないか。僕はその誰かに感謝するしかない。長年この仕事をしていると、たまに、本当にごくたまに、こんな奇跡が起こるのである。