だれか、ふつうを教えてくれ!

だれか、ふつうを教えてくれ! (よりみちパン!セ 17)

 表現やたとえがわかりやすくて、想像力が広がりました。読んでよかったです。

 

P48

 ところで、ぼくをはじめ、どうして視覚障害者はこんなによくホームから転落してしまうのでしょう。・・・

 最初の事故の直後は、ぼくも自分の注意不足を責めました。「なんでもっと慎重に歩を運ばなかったんだろう?」と。

 だけど、よく考えてみると、これって一面的な見方なんですよね。

 ・・・

 ここでちょっと、想像してみてください。全利用客の四分の一、場合によっては三分の二もが、これまでに事故にあっているような交通機関があったとしたらどうでしょう。たとえば、乗客の四人に一人が窓からふり落とされたことのあるバスとか、利用者のうち、三人に二人が急な加速に耐えきれず、失神したことがある旅客機とか。

 そんなバス路線なり、航空会社があったら大変ですよね。・・・

 まちがっても乗客は、「ふり落とされたのはおれが気をつけていなかったせいだ」とか、「失神しないようにもっとからだを鍛えてから乗るべきだった」なんてことを思ったりはしない。もし、そこまでの覚悟や構えがないと乗れないのだとしたら、誰もが安全に利用できることが当然であるはずの公共交通機関としては完全に失格です。 

 視覚障害者の転落事故も、これとおんなじなんですね。高い割合で事故が起こっているという事実は、個人の責任に帰すことのできない問題がそこにあることを示唆しています。ぼくたちがどんなに注意をはらったとしても、個人の努力では回避しようのないリスクが、プラットホームでは待ちうけているということです。

 もちろん、こうした状況が問題にならないわけはありません。・・・

 その結果として普及したのが、誘導用のブロックです。・・・

 ・・・

 ただ、残念なことに、このブロック、ホームからの転落事故を防止するための決定打ではないんですね。・・・

 ・・・

 ・・・ブロックがあって・・・も、四人に一人がホームから落ちている。ぼくの周りだと、半分以上落っこちてますけどね。

 ・・・

 抜本的な改善が見られたわけではないけれど、転落事故を防ぐための手だては、・・・バリアフリーがそこここで言われるようになって以降、そのピッチも上がってきたようです。

 けれど、よく考えてみると、根本のところで解せないんですよね。だって、むかしから視覚障害者はいたわけでしょ?いまほどの頻度ではなかったかもしれないけれど、鉄道だって利用していたはずです。

 ・・・

 こんなふうに書くと誤解をされてしまいそうですが、ぼくはそのことについて文句を言いたいわけではありません。・・・

 そうではなくて、こうした事実は、別のなにかを示唆しているんじゃないかというふうに、ぼくは考えるんです。

 どうして視覚障害者への安全対策が遅れたのか?という問いは、少し角度を変えてみると、どうして鉄道会社は、視覚障害者の利用を考慮せずに、駅の施設をつくったのだろう?という問いとほぼイコールであることがわかります。

 ・・・

 ここで、もう一度想像力をはたらかせてみましょう。あなたはいま、大きな川にかかる橋の、ちょうど真ん中あたりに立っています。左右どちらの手でもかまわないのですが、あなたは、前方を探るための杖一本を渡されて、目隠しをした状態で橋の終点まで行かなくてはなりません。しかもです。この橋、どういうわけか、欄干がないんですよねぇ……。

 ホーム上を移動する際の全盲者は、こういう状況に置かれているわけです。弱視の人の場合は、まったく度の合っていないメガネを無理矢理かけさせられて、歩かなきゃならない、ってところでしょうか。

 まぁ、実際には、多くの視覚障害者は、耳や杖の先から入ってくる情報や、不十分にしか入ってこない目からの情報を、うまく利用する方法を知っていますからね。目の見える人が、急に目隠しをされた場合と、まったくおなじというわけではないんですけれど。

 そうはいっても、基本的に置かれている状況は似たようなものです。ホームの下には、川が流れているかわりに線路が走っています。落っこちた場合の結果もおんなじです。どちらも、大事に至らずにすむことはあるでしょう。だけど、死んでしまうことだってめずらしくない。

 でも、人って、なかなかそんなふうには考えられないんでしょうね。・・・

 ・・・

 上下階への昇降手段が階段しかない駅や建物がたくさんあるのも、これとおなじ理由によるんでしょうね。ぼくもそうだけれど、足に障害のない人間は、ついつい階段の昇り降りに不自由をおぼえる人たちがいることを忘れてしまいがちです。

 ・・・

 たびたびですが、またまた想像してみてください。もし、すべての住人が、背中にペガサスのような翼をもっている社会があったとしたらどうでしょう。

 たぶん、この社会には階段なんてものはないと思うんですよ。だって、みんな羽をもっているわけだから、バタバタッとひと飛びすれば、好きな階に行くことができる。・・・

 ・・・もしこの社会にあなたが投げ込まれたらどうなるでしょう。あなたの背中には羽はありませんよね?ぼくにはありません。あったらこわい……。

 翼をもたないあなたが、この社会にくらすのはきっと大変でしょうね。なにせ、上下の階への移動手段がないんですから。鳥人間たちに手伝ってもらわない限り、あなたは目的の階へ移動することができません。つまり、いま現在の社会では「健常者」であったとしても、鳥人間たちの社会へ引っ越したとたん、あなたは「障害者」となるわけです。

 このように、なにが「ふつう」であり、誰が「健常者」であるかは、実は絶対的なものではなく、相対的に決まるものなんですね。・・・

 ・・・

 もしかすると、・・・どちらかが「ふつう」でどちらかが「ふつうでない」といった見方がなくなったとき、はじめてバリアフリーが社会のあらゆる領域に滲透するのかもしれません。・・・

 ともあれ、障害者の経験する困難の原因は、通常考えられているように、手足が動かなかったり、目が見えなかったりすることからもたらされるわけではないということ、いま信じられている「ふつう」は必ずしも絶対的なものではなく、それとはまったく異なった「ふつう」があり得るということ、そのもとでは、いま「障害者」とされている人間が障害者でなくなったり、逆に「健常者」とされている人間が「障害者」になってしまうという可能性もあるんだということを、ここでは押さえておいてください。

 

P68

 これまでの章でお話ししてきたとおり、ぼくは今日までの人生のうち、およそ半分を弱視者として過ごし、残り半分を全盲者として過ごしてきました。つまり、軽度障害者と重度障害者の両方を経験してきたわけですね。

 そんななかで、「重度障害者のほうが軽度の人より大変だ」といったようなことは、必ずしも言えないんじゃないか、と思わされるような体験をいくつもしてきました。

 たとえば、まだ白い杖がなくても歩けたころ、何度かこういう経験をしました。

 電車に乗るために、駅に行きます。そのころはまだ、そこそこ視力がありましたから、歩くのにはほとんど不自由をおぼえません。柱にぶつかったり、通行人に接触したりすることもなく、券売機の前までたどり着けました。

 ところが、つぎが問題なんですよね。駅の料金表って高いところにあることが多いじゃないですか。あれが弱視者のぼくには見えなかったんです。券売機にあるボタンの文字のほうは、目を近づければなんとか読めたけれど、高いところに書かれた文字については、「目を近づける」っていうことができませんからね。

 ひとくちに弱視と言ってもいろいろな見え方の人がいます。なかには、白杖なしではまったく歩けなかったり、どんなに目を近づけたり、ルーペを使ったりしても手元の文字を読むことができない人もいれば、手元の文字はもちろん、ちょっと離れた場所に書かれた文字なんかでも、単眼鏡(小型の望遠鏡)を使えば、読むことができる人もいます。ぼくの場合は、手元は大丈夫だったけれど、遠くはだめだったんですね。

 目的地までの料金がわからなければ、切符を買うことができません。一番安い切符を買っておいて、到着駅で乗り越し分の料金を払う、という裏技もなくはありませんが、面倒ですし、できたら、最初からちゃんと行き先までの切符を買いたい。

 そこで、通りかかった人に尋ねるわけです。「すみません。目がわるくて料金表が見えないんですけど、〇〇駅までいくらか、見ていただけませんか」と。

 ところが、これが必ずしもうまくいかない。親切に教えてくれる人もたくさんいたのですが、怪訝な顔をされることがしばしばあるんです。時には、「見えないんだったらメガネをかけろ!」と叱られてしまったり。メガネをかけろ!って言われてもねぇ。かけても視力が上がらないからこそ、こうやって必要な場面では手助けを求めているんですけど……。

 確かに、当時のぼくは一見して視覚障害者だとはわからなかったかもしれません。白い杖はもっていないし、ぼくの視線の動きをよくよく観察でもしなければ、判別することはできなかったでしょう。そのこと自体は仕方ないかと思います。

 けれど、目がわるいために見えなくて困っている旨は、あらかじめことばにして伝えているんですよね。にもかかわらず、この対応です。

 要するに、白い杖はもっていない、だけど、目がわるいために、そして、メガネやコンタクトを使っても十分には見えるようにならないために、要所要所で困り事に出くわしている人間がいるんだっていうことが知られていないわけなんです。

 ・・・

 知られていないというのは、いろいろな意味でやっかいなことです。・・・時には、勘違いされることで人間関係がぎくしゃくしたり。

 勘違いされるというのは、たとえばこういうことです。

 弱視の人のなかには、相手の顔がはっきりとは見えないため、道ばたで知り合いとすれちがっても、自分からあいさつをすることができない人がたくさんいます。・・・

 これ自体は致し方のないことなのですが、困るのはその先です。たとえあいさつを返すことができなかったとしても、もし、こちらが白杖をもっていたとしたら、つまり、視覚障害者であることがわかっていたとしたら、先方は「私だということに気づかなかったんだろうな」と、たぶん納得してくれると思うんです。どうしようもありませんからね。

 だけど、相手に「見えていない」ということが伝わらなければ、「なんだ、あの野郎、あいさつもしやがらないで!」と腹を立てられてしまうかもしれません。・・・

 かといって、知り合いすべてに、「私は弱視で、世の中には、メガネをかけても十分に視力が上がらない人がいて……」なんて説明してまわるのは面倒です。・・・そもそも、説明するきっかけ自体をつかむのが難しそうですしね。

 それどころか、なかには、どんなに説明しても、近視や乱視とのちがいが理解できず、「いいメガネ屋を紹介しようか」などと、とんちきなアドバイスをする人も出てくるかもしれません。思い込みってすごいですからね。・・・

 ・・・

 ・・・わかりやすい障害者であるいまは、比較的容易に手助けを得ることができて、障害者であることがわかりにくかったころはそれが難しかった。以前といまと、どちらが大変だったかというと、この件について言うならば、まちがいなく弱視だったころなんですよね。これは、どういうことなんでしょうか。