考える障害者

考える障害者 (新潮新書)

 車イス芸人のホーキング青山さんが、障害者への世間の認識について考えた一冊。

 そういう見方があるのだなと学びになりました。

 

P30

 障害者の社会参加が叫ばれて久しい。そして以前と比べれば多くの障害者が街中に出やすくなっていると思う。・・・

 これ自体は素晴らしいことなんだけれど、こうした環境を整えるためには、当然ながら多額の税金が注ぎ込まれている。・・・

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 しかし、これらはまだ目に見える形での税金の投入に過ぎない。実のところ、障害者といっても、私のように身体にのみ障害を持つ者もいれば(いや、舞台等を見てるとお前には他にも問題があるぞ、などとは言わないでください)、知的な思考や判断ができない知的障害の人や、なんあかの精神的な疾患がある精神障害の人もいる。さらに身体障害でありながら知的障害もある人も珍しくない。一口に障害といっても、人それぞれで程度が異なり、重度だったり軽度だったりする。

 これらの人たち全員が暮らしやすくなるためには果たしていくらあれば足りるのか。・・・

「障害者も健常者と同じように社会に出て行ける環境を作るべきだ」

 こういう意見に、表だって反対する人はそうはいない。私だって賛成だ。でも、皆どこかで、それにはとんでもない金がかかることを知っている。だから、とても大事なことなのに、「果たして障害者にいくら金を使っていいのか」という問題が、議論される機会は少ない。

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 ・・・障害者が健常者同様働いて稼ぐことができる環境が今のところ実現していない、するめども立っていない・・・

 一方で、普通の人が当たり前にやっていることだから、自分もやってみたい、というのは人情である。多くの障害者が、「自分も社会に出て普通に活動したい、働きたい」という感情を抱くのはもっともなことだろう。

 何年か前に、ホリエモンこと堀江貴文氏がツイッターで障害者差別ともとれる発言をして話題になったことがある。

 簡単に言えば、「障害者にも雇用を与えて、きちんと働かせたほうが良い」という意見に堀江氏が異を唱えたのだ。・・・

「そういう人は働いたほうが社会全体の富が減って結果として自分も損するって事に気付いてない。生産効率の悪い人を無理やり働かせる為に生産効率のいい人の貴重な時間が無駄になっているのだよ」

 という堀江氏の書き込みは、たしかに読みようによっては、「障害者が働くと迷惑」と言っているようにも取れる。ただ、本人によれば、「障害者だろうが健常者だろうが働いたらその分社会が損する奴がいる」というのが真意だという。・・・

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 ・・・実はこの意見に対して、障害者の側から「自分も健常者と同じ条件で働くのは辛く、ホリエモンの意見に賛成」というツイートがあったのも事実である。

 しかし、ここで大事なのは「働く」ということの意味だと思う。「働く」の目的が単純にお金を稼ぐため。社会全体で見れば富を生み出すためと考えれば、費用対効果しか見る必要がなくなる。・・・

 ただ問題は、人間の労働の目的をお金(や富)に限定していいのだろうか、という点だろう。そもそもお金のためだけじゃなく、働きたいという障害者は実は結構多い。

 健常者であっても高齢者で、定年後も働きたいという場合には、お金以外に「やりがい」「働きがい」「社会貢献」「名誉」などを理由に挙げることが多いのではないかと思う。・・・

 障害者の場合はどうか。実は金銭的なことと同じか、それ以上に「健常者と同じことがしてみたい」「社会との接点がほしい」「自分のやったことで誰かに喜んでほしい」といった理由で働きたい人が多いのだ。これが最近よく言われる「自己肯定感」なのだ。

 堀江氏や、その意見に賛同する人の中には、

「別に働かなくても健常者と同じようなことはできるし、社会との接点だってできるだろうに」

 と言う人もいることだろう。

 でも実際に社会的な接点をなかなか持てないまま、何年、何十年と生きてきた多くの障害者からすれば、叫びたくなるはずだ。

「だったらその接点とやらを提示してくれよ!」

 障害者が、格別健常者よりも勤労意欲が高いなんてことはあるはずもない。良くて同じくらいだろう。それでも普通に働きたいと思うのは、やはり社会の一員という気持ちを持ちたいからだ。逆に言えば、障害者が普通に生きていて社会との接点を持つことは簡単ではない現状があるのだ。

 

P76

 現状では、多くの人がパラリンピックを見たり、関心を持ったりする理由の一つに「身体にハンデを抱える人の頑張る姿を通じて感動したい」という気持ちがあると思う。

 でも、この認識が提供側や選手たちにもあるうちは、だめなのではないか。結局、身体にハンデを抱えていなければ、競技のパフォーマンスや頑張る姿だけでは感動させられないということになってしまう。それじゃあどうしたって、パフォーマンスや頑張る姿だけで感動させているオリンピックより一段下ということになってしまう。

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 ただ、前回のリオパラリンピックではちょとした異変があった。目の不自由な人たちの陸上男子一五〇〇メートル走で、一位から四位までのパラリンピック選手のタイムが、同競技のオリンピック選手の一位を上回ったというのだ。つまり、四人の視覚障害者がオリンピックに出ていたら、メダルを独占していたかもしれないというのだ。これは驚きの快挙である。

 そして、理想を言えば、これこそが目指すべき状況なのだと思う。

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 実際に健常者と同じ土俵で勝負したいと思っている障害者の選手あちは多くいるはずだ。ロンドンオリンピックパラリンピックの両方に出場した南アフリカの両足義足の選手もいたし、その後もオリンピックとパラリンピックの両方に出場する選手は増えてきているようだ。今後このオリンピックとパラリンピックのボーダーは、競技にもよるだろうが、なくなっていく方向に時間はかかってもなっていったらいいのになと思う。