創造性はどこからやってくるか―天然表現の世界

創造性はどこからやってくるか ――天然表現の世界 (ちくま新書)

生命科学、哲学、文学から芸術理論までを自在に横断し、著者みずからも制作を実践することでみえてきた、想像もつかない世界の<外部>を召喚するための方法」とのことで、私にはだいぶ難解でしたが(;^_^A、印象に残ったところを書きとめておきます。

 

P14

 近年、私は、いわゆる機械で実装された知能という意味での人工知能に留まらず、得られた経験やデータだけから推論し判断する知性のあり方全体を、広い意味で「人工知能」と捉え、これに対して、想定もしなかった自分にとっての外部を受け入れる、徹底して受動的な、しかし、それこそが創造的な「天然知能」という知性のあり方を提唱した。

「天然知能」は、知能というより創造的態度、創造の装置であり、だからそれは、制作それ自体とも言える。そして実は、制作された作品それ自体かもしれないのである。・・・

 

P66

 トラウマについて考えてみると、被害者意識と加害者意識が脱色されることで癒しが実現されるのであり、それはトラウマ以前の日常を取り戻すことに思える。とすると、被害者意識と加害者意識の肯定的矛盾は、解消されるべき悪いものではあっても、わざわざ癒しを実現するために必要なものではないはずだ。しかし、これを「創造」一般に拡張して考える場合、肯定的矛盾は、必須なものとみなされる。どういうことなのか。

 ・・・

 肯定的矛盾と否定的矛盾が共立する状況にあるからこそ、二項対立的な世界観から抜け出し、外部を召喚できる。それは、創造以外のなにものでもない。トラウマに苦しむ人間こそ、本来の意味で創造に開かれた人間なのである。

 

P223

 流行やわかりやすい情報をむしろカットし、外部を受け取る瞬間をひたすら待つ。創造とはそういうことだ。・・・

 博士課程を終えたばかりの頃の中村は、自らの世界に対する立ち位置、世界に対する態度を「世界拒否」と称していた。・・・

 多くの人たちは、むしろ世界とは操作可能で、記述可能なものだけで構成されると信じている。対象も、世界も、作品も、完全体だ。だから、互いに自らの世界観を披露し、議論し、どれが新たな世界のイメージ=作品となるか、語り合うことで決着をつけるべきだと信じている。

 そのような中にあって、「世界拒否」と言おうものなら、議論を拒否し、対話によるコミュニケーションという現代世界では最も健全なあり方と信じられているものを拒否する不埒な輩として、あらゆる分野、いや、一般の友人にさえ糾弾されたらしい。「何が世界拒否だ、偉そうに」というわけだ。

 中村の言う「世界拒否」とは、他者や自分の知らないものを拒否し否定するものではなく、わかりやすい言葉や情報によってのみ構成された、括弧付きの世界の拒否である。・・・情報に振り回されることなく、自分を空の器にして外部を待つという態度の表明が「世界拒否」なのである。いや、多くの人は、「そう言われればわかる。もっと丁寧に説明しろ」と言うかもしれない。

 私は本当かなと思う。ほとんどの人間は「世界拒否」などできない。空っぽになって外部を待つという賭けに出られる者は、創造の悦楽に一度でも触れたものか、自らを顧みない暴力的な若さをもつ者だけだ。

 

P253

 定義しきれない点に現れる外部、その外部を召喚することに知力を尽くすことこそ、芸術である。つまり、私の思考する生き物や自然は、芸術に基礎付けられた生き物であり、自然なのである。翻って、本来、芸術作品とは、私の「始まりのアート」のみならず、「完全な不完全体」なのであり、外部を召喚する「穴」を有するものである。・・・

 

P260

 学生だった頃、七〇年代に科学雑誌『サイエンス』に発表されたカウンターライトニングという論文の逸話を、日高敏隆の『犬のことば』(一九七九年)で読んだことがあった。魚の腹側に発光器がたくさんついている。これは何のためにあるのか、その機能を説明するアイデアが、カウンターライトニング(今ではカウンターシェーディングと呼ばれる)である。

 魚は海中を泳ぐとき、下から見上げられると、海上からの太陽光のせいで、その影が黒く見える。だから、捕食者が自分より深い場所にいたら、すぐに見つかってしまう。腹側にある発光器は、周囲の明るさに合わせた光を放ち、自分の姿を見えにくくするというわけだ。

 なるほどと思わせる説明だ。しかしこの論文には致命的な欠陥があった。この説明されるべき魚が、ヒラメやカレイのように海底を這うように泳ぐ魚だというのである。つまりこの魚は、捕食者に下から見上げられることはない。発光器を用いたカモフラージュという説明が、意味をなさないことになる。

 ・・・カウンターライトニングはどうなったか。なんと掲載されたのだが、その理由が奮っている。確かに、この魚に関してはそのカウンターライトニングは有効ではないだろう。しかし、そのアイデアは素晴らしい。いつか必ず、カウンターライトニングを用いた魚が発見されるだろう。そのときのために、この論文を掲載しようというのだった。・・・

 いまでは最も権威の高い雑誌の一つとなった『サイエンス』であり、もはや、このような論文が掲載されるのは難しいかもしれない。しかし潜水艇の技術革新によって深海調査が進むと、腹部に発光器のついた深海魚が数多く見つかり、それがまさに、カウンターライトニングによって、捕食者から逃れていることがわかってきたのである。

 驚くべきことは、深海であっても弱い太陽光が届くことだ。逆に、弱い太陽光のため、下から見た魚影もぼんやりしたものになり、カウンターライトニングが効果を発揮するのである。

 ではこれを説明した研究者は、どのようにカウンターライトニングを発想したのだろうか。このような、いかにも想定外のアイデアは、天然的表現である。動物の発光器は、多くの場合、異性や仲間を誘引し、コミュニケーションを取るための手段に使われる。したがって、深海など思いもよらなかった当時、考案した研究者の頭にあったのは、「目立つ装置」としての発光器であり、それによってコミュニケーションをとる「仲間の集団」であっただろう。

「目立つ装置」と「仲間の集団」を結びつけ、常識的な機能を模索してみたが、腹側に特化した発光器は、両者を整合的に理解することを逆に困難にしただろう(それは、肯定的矛盾である)。かくして、彼は、両者を否定し(それは否定的矛盾である)、「目立たない」かつ「天敵」というイメージに辿りつき、天敵からのカモフラージュという天啓を得たのではないだろうか。

 自然科学ではもちろん、証拠を集めて立証することが大事ではあるが、証拠に先駆けたひらめきというものは必要で、そこには天然表現が効いていると思われるのである。

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 単なる「思いつき」という言い方と、芸術作品の価値を「主観」に過ぎない、という言い方は、根が同じだ。いずれも、創造というものがわかっていない。その人たちは、「創造とは賭けではなく、偶然見つかったものである」と考えている。受動的態度の「能動性」を理解しておらず、天然表現など、思いもよらない。・・・