「身体」を抜け出す「私」

他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学 (集英社新書)

 やや難解ですが(;^ω^)面白いなぁと感じたところです。

 

P198

 メラネシアでは、ひとは眠っているあいだに遠い村で盗みをはたらいたという非難を甘んじて受け、身の潔白を証明するアリバイをもち出したりせずに罰に服する。というのも彼らは、睡眠中に分身という不思議なやり方で自分が何をしでかしたか知らないからなのである。

 

 これが先に記した『ド・カモ』からの一説であり、著者はモーリス・レーナルトである。レーナルト(1878-1954)は、オーストラリアの東に浮かぶニューカレドニア島で25年間宣教活動に従事した宣教師である。滞在中には現地の住民であるカナク人との交流を深め、かれらの言語を習得、慣習にも親しんだ。帰国後は、先に紹介したモースらとの知遇を得て人類学者としての経歴を積み重ね、1947年に同書を書き上げる。

『ド・カモ』には、「自我」が身体から抜け出すといった、私たちの感覚からすると大変奇妙なカナク社会の現象が豊富に描かれる。このようなことが可能になる理由のひとつが、カナク人に「身体」の概念がないことだ。「身体」の概念を持たないかれらは、当然ながら「身体」に拘束される固有の<自我>という観念も持っていない(自我に括弧を付したのは、それが理由である)。結果、生者と故人の区別も曖昧となり、自分と親族、自分と樹木といった、私たちであれば自分とは異なる生き物として差別化する他者との間に、瓜二つといった比喩ではなく、真の同一性を見出す。

 とはいえ、カナク人にも「身体」に近い言葉はあり、それが「カロ」である。しかしこの言葉が厳密に指すところは生物学的な意味での「身体」ではない。それは「支えるもの」という意味を持つ。従って、テーブルの天板を支える足も「カロ」、刃が付属する斧の柄も「カロ」である。

 それでは私たちが「身体」と呼ぶ「カロ」は一体何を支えているのか。「カロ」が支えるものは「カモ」である。「カモ」とは、「生きている者」という意味であり、より正確にいうとそれは、人間らしい雰囲気をたたえた生きた何かのことを指す。従って「カロ」は大抵の場合人間のことを指すのだが、「カモ」は人間ではない生き物に対しても時に使われる。なぜなら動物でも、植物でも、神話的な存在でも、カナク人がそこに何らかの人間らしさを見てとれば、それらは「カモ」と呼ばれうるからだ。例えばカヌーに打ち上がった魚が人間らしい目つきをしていたらそれは「カモ」である。逆に人間の姿格好をしていても、その人物が人間らしくない行動をとっていれば「あいつはカモ」ではないと断言される。

 同書のタイトルである「ド・カモ」は、「本当に人間らしいもの」という意味であり、ある生き物が人間らしさを十全にまとっていると判断されれば、その生き物は敬意を込めて「ド・カモ」と呼ばれる。

 それでは一体「カモ」とは何なのか。そのような問いが読者の中には当然生まれるであろう。「カモ」はそれが何かと関係性を取り結ぶ時に初めて現れる「人物(ペルソナージュ)」であり、関係性を結ぶ相手が変われば、「カモ」は「カロ」としての身体を支えとしながら、異なった様相で現れる。カモは、「そうした関係の働きのなかで、自分の役割を果たしている程度に応じてのみ実在する。彼はそういう関係にかかわっていくことをとおしてのみ自らを位置づける」のである。その意味でレーナルトはカモを諸関係の「出発点」とし、しかしその場所は「空白」であるとした。なぜならカモは、諸関係の中心にありながら、関係性なしでは存在し得ないからである。

 レーナルトの人格論を引きつつも同時にそれを厳しく批判しながら、改めて人とは何かを論じたのが、彼と同様にメラネシアをフィールドとするイギリスの人類学者マリリン・ストラザーンである。・・・

 ストラザーンは1988年に上梓した『贈与のジェンダー』(邦訳なし。原著タイトルは❝The Gender of the Gift❞)の中で、分人(dividual)という言葉を使いながら、メラネシアの人々のうちには、メラネシア社会全体が小宇宙のように内包されており、置かれた状況状況に応じてぬるっと顔を出す存在が人であると提言した。その意味で人は、関係性の出発点ではなく、関係性の結節点に形を変えながら顕現する存在である。

 この点においてストラザーンとレーナルトの思想は類似しているが、他方でストラザーンは、関係性の中心に空白のカモがあるというレーナルトの理解は、誤りであると喝破する。このような理解は、個人が中心にあり、それが主体的に動いて関係性を構築するという欧米的な図式を彼が抜け出していない証拠であるとし、そのような中心はそもそも存在していないのだと説く。

 その上でストラザーンは、関係性の中で具現化して現れる<人>(person)と、行為する<人>(agent)を分け、そこで具現化される<人>も、行為する<人>も1人の様相を取りながら、同時に複数でもあるといった複雑な人格論を展開する。彼女の議論に所与としての人は存在しない。

 ストラザーンの議論は大変難解であることが知られている・・・

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 ・・・ストラザーンにとっての人とは、顕現したと思えばいなくなるような捉え所のない流動的な存在で、「1」といった塊として引き出せるような何かではない。もうひとつの重要な違いは、ストラザーンが、人の中には社会そのものが織り込まれており、それが状況に応じてある形で<人>(person)として顕現すると述べていること。またその織り込まれた社会の中には、他者のみならず、作物や体液などの物質も含まれているという点である。・・・

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 ギアツが出会ったジャワの人々は、レーナルトが出会ったカナク人同様、確立した個という人間観は持っておらず、自己(self)は「静止させられた感情の内部世界」と、「型にはめられた行動の外部世界」の対峙が起こる際に姿を現すと考えられていた。

 注意したいのは、ここでいう内部世界と外部世界が、心と身体という我々がよく使う区分に全く当てはまらないことである。先のカナク人の例で「カロ」が「身体」を指すわけではないことを思い出してほしい。

 それでは、ジャワの人々にとっての人はどのような存在なのか。まず、ジャワの人々にとっての内部世界(バティン)とは、感情蠢く内部世界のことであるが、バティンは私たちで言うところの心とか、自我の座を指してはいない。根本において全ての人は同一であり、その境地は瞑想によって神秘的に追求される。内部世界が理想的な状態に到達することをジャワの人々はアルースと呼び、これは「純粋な」「洗練された」「滑らかな」といった意味合いを持った言葉である。

 対して外部世界(ライール)とは、観察の可能な振る舞いや言葉のことである。これもまた内部世界と同様で、理想的な状態において、外部世界であるライールが個々人に応じて異なることはない。つまりギアツが出会ったジャワの人々にとっての理想とは、外部においても内部においてもアルースになることであり、その世界観における人とは外部と内部が対峙する際に現れ、うつろう、一時的なものに過ぎない。

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 これに類似した例として紹介したいのが、人類学者の木村大治の報告である。木村は、彼がフィールドワークを実施した熱帯アフリカ狩猟採集民バカ・ピグミーを「重なりあう人々」と名づける。木村によれば、バカ・ピグミーにおいて、個人(indivdual)といった概念はないとは言わないが極めて「薄く」、「個人性に重きを置く西欧近代的な社会観からすると、構成原理の重心が、個人そのものではなく、その間のつながりの方に大きくずれている」。・・・

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 ・・・木村は、会話において発話の宛先がはっきりしていなかったり、挨拶もなく部屋に入ってきてただ佇んでいることが許されたりするようなかれらの暮らしのあり方を提示し、これは「それぞれの人たちが情報を分け持って蓄えている共有のデータベースがあるようなもの」であると表現する。・・・「構成原理の重心が、個人そのものではなく、その間のつながりの方に大きくずれている」という木村の言葉から、バカの間で「私」という感覚が身体を境界にして途切れているのではなく、むしろふんわり共有されていることが窺える。