日本語だから読めるけども意味がわからない・・・と、哲学の知識がなさすぎて、???となるところも多々ありましたが、それでも面白いと感じたことが面白かったです。
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意志は意識と結びついています。どういうことかというと、無意識にやったことは、その人の意志でやったこととは見なされない。・・・
意志(ウィル)は、意識(コンシャスネス)と結びついている。俺はこういうことをやっているぞと意識している、あるいは、まわりにこういうことが起こってるぞと意識している。意識しているということは周囲や過去とつながっているということです。意志は周囲や過去に接続されている。
日本語だと「意志」と「意識」って、音が似ているから混同しがちです。むしろ英語で考えたほうがわかりやすい。「意志」と「意識」は「ウィル」と「コンシャスネス」ですから、まったく別物ですね。その意志は意識と結びついており、したがって周囲や過去と切り離せない。これはつまり、意志が必ず外部の影響下にあるということです。
ところが不思議なことに、意志は何ものともつながっていない、純粋な出発点だともみなされることがあるんですね。
たとえば僕たちがカフェに入って、僕が千葉君に「頼むから紅茶を頼んでくれよ」と言って、千葉君が紅茶を頼んだとしたら、それは千葉君の意志ではなく、僕にプッシュされたことになる。でも、千葉君が僕の頼みを断ってエスプレッソを頼めば、その場合には、千葉君が自分の意志でエスプレッソを頼んだと見なされるわけです。
千葉 僕は國分さんから頼まれたという、その前の経緯を切断している。つまり意志というのは切断ですよね。
國分 切断なんです。そう考えると、意志の概念には決定的な矛盾がある。「周囲」や「過去」と意識を通じてつながっていると見なされていると同時に、まわりから切断された純粋な出発点とも見なされている。意志は、このどうにも解消できない矛盾を抱えているんですね。
だから僕は、本の最初で、意志という概念を批判的に検討しています。なぜ僕らは日常的にこんな矛盾した概念を使っているのだろうかと問いかけるためです。そして、このことには、どんな行為についても「おまえがしたのか、それともおまえはさせられたのか」と尋ねてくる能動と受動に支配された言語が関係しているのではないかというのが僕の仮説です。
千葉 國分さんはそれを「尋問的」と言ってますよね。尋問する言語というのが、一時期から言語の当たり前のあり方になってしまった。・・・
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千葉 尋問する言語ということで言うと、國分さんの最初の著書である『スピノザの方法』(みすず書房、二〇一一年)でも、スピノザに対して、デカルトを尋問する哲学者と位置づけていましたね。二人を対照させて、デカルト的なやり方ではない考え方を提示する、というのがあの本でした。だから、尋問的になってしまった時代にどう対抗するかということが、一貫して國分さんの課題なんですよね。
國分 でも、僕自身はすごく尋問するタイプなんだよね(笑)。
千葉 そうですよ。國分さん、めっちゃ尋問的な人じゃないですか。「責任とれー!」というタイプでしょう。だから、そこは裏腹ですよね。
國分 本を書くことでなんとか自分自身を反省しようとしているのかもしれない。
千葉 バランスをとろうとしている?
國分 そうですね。『スピノザの方法』で描いたデカルトの考えというのは、真理は共有できるエビデンスであるときに初めて真理として認められるというものです。言い換えれば、言い返せない真理が真理である、と。「私は考えている、だから存在している―君、これに論駁できないだろ。できないよね。だから真理だ」というような感じなわけです。
それに対してスピノザは、真理を獲得した人にはそれが真理だとわかると考えました。だから、デカルトの先の命題についても、デカルトのように証明の形にはせず、単に、「私は考えつつ、存在しています」と言った。
これには証拠も何もない。単に実際にそうであるというわけです。それを否定する人間は実際にはそう思っていないくせにただ口先で疑っているだけだ、と。スピノザのすごいところは、そんな人間とは話はできないとまで言っていることですね。デカルトは何でも疑う懐疑論者を尋問して説き伏せようとしたけれども、スピノザはそういう人間をまったく相手にしていない。
デカルトとスピノザとではこんなふうに真理の考え方がまったく違うわけですが、近代はデカルト方式できたというのが僕のあの時の主張でした。
千葉 近代というのはまさにそうですね。
國分 僕自身もデカルト的に生きてきたという感覚は強くあります。
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ただ、さっき「エビデンス」という言葉を出したけれども、エビデンスだけを信じるという傾向が強くなりすぎているという現状もあります。最近、千葉君はエビデンス中心主義批判をしてるよね。
千葉 何事にもエビデンスの「体裁」が必要だという風潮が嫌なんです。
國分 その気持ちは僕も共有します。ただ、エビデンス中心主義に対して別の方向性を示すのは意外と大変なんですね。『スピノザの方法』のときは、スピノザを通じて別の方向を示そうとした。『中動態の世界』では、かつて存在した文法に依拠しながら尋問する言語に挑戦するという仕方で同じことをやっているのかもしれない。