人への思いやり

BLANK PAGE 空っぽを満たす旅 (文春e-book)

 ヤマザキマリさんの息子さんの一言、印象に残りました。

 

P178

 ・・・私には子どもの頃から「魔の思考」という不穏なひとときが、わりと定期的に訪れる。これが忍び寄ると、もう何をどうしようとらちがあかない。母は生前、「幸せの中にあるブラックホール」とか「消えない虚無感」に20代で向き合ったことを話してくれたが、私にもその部分が見事に継承されている。

 たとえ家族や友達でさえ、このどうにも埋まらない底なしの穴を紛らわすことはできない。ひたすら、この息をするのも苦しい感覚が通り過ぎるのを待つしかないのだ。

 彼女の作品と出会ったのは、そんな私の漆黒期のことだった。・・・

 1冊目は漫画『イタリア家族 風林火山』。マリさんが留学先のイタリアで恋に落ちて一緒に暮らした詩人の恋人とは、彼の子どもを産むと同時に別れを選ぶ。・・・かつて旅先で知り合ったイタリアの老人の遺族を訪ね、孫の大学生から熱烈なプロポーズを受けて結婚する。夫の大家族との日常のてんやわんや……そんなドラマチックなイタリアでの実体験を描いた物語には、逐一驚かされ、笑わされっぱなしで、私の強張っていた口角は、気づけばすっかり緩んでいた。

 ・・・

 ・・・母は日本とイタリアを行ったり来たり、息子もアジアを巡る旅をした。ふたりともコロナによって日本で足止めされているある日のこと。UberEatsで出前を取ったら、2つ注文したはずのオムライスが1つしか届かなかった。息子がレストランに電話をかけ、穏やかに事情を説明するので、頭にきた母は「もっと強く訴えて!」と後ろで煽った。受話器を置いた息子が母に言ったことは……。

「あのね、ママ。あなたは今、すごい悪いものが出てるじゃない。その怒りを僕が連動して電話の相手にぶつけたら、その人が嫌な気持ちになって、料理人や配達員にも伝わるかもしれない。あなたがそこで我慢すれば、4人が嫌な気持ちにならなくて済むんだよ。たかだかオムライスを30分遅く食べるかどうかのことで、怒っては損だよ」

 それからほどなくして再び現れた配達員は、出来立てのオムライスを不足分の1つではなく2つ持ってきた。

「こういうことですよ、あんな声を荒らげたところで……。結果、温かいオムライスが1つ増えたじゃないですか」

 息子が微笑んだ。これはマリ母さんの完敗!でも、こんな筋の通った息子に育てたのは、ほかならぬ彼女なのだ。

ヴィオラ母さん』の最終章に、マリさんは綴った。

<ありのままに生きていて充足している人は、等身大以上の自分になろうとしない。自分はこうありたい、こういう人間であってほしい、という理想もなければ、それを叶えるために躍起になったり虚勢を張ったりすることもない。なぜなら、今の、この世に生まれた、かくある自分で十分満ち足りているからだ。(中略)

 たとえ社会のなかでいろいろあっても、どんな困難と向き合わされても、それでも生きることを心から謳歌する大人が家にいるのは、大変頼もしいことである。空や草花を見て「地球はすごいねえ、美しいねえ」と呟ける大人がそばにいるだけで、子供は生きるたくましさを身につけられるものなのだ。>

 

P196

 そういえば、母が珍しく感心していた。

「現場にいる是枝さんは、とにかくウレシソウにしてるの。映画を撮ることが、楽しくてしょうがないみたいに、子どもから年寄りまで相手に、そりゃ、うまくいくことばかりじゃないでしょう。でも、決して、怒らないし、辛抱強くって、投げやりじゃなく丁寧で、誰に対しても平等で、実に芝居を面白がりながら作る。役者だったら誰しも、こういう監督の現場を一度は味わってもらいたい」

 是枝さん本人に、それは意識してやっていることか尋ねると、「自分が映像の世界に入った頃は現場の先輩に、怒鳴られるわ、蹴られるわ、ほんとに嫌な思いをしたから……そういうことはむしろ意味がないと思い知って、自分のところでは、絶対にそんなことしたくないなって」。

 ・・・

 母がひと際気に入っていた是枝さんの子ども時代のエピソードがあり、折に触れ、彼に向って「ほらほら、あの先生に言われた話、なんだっけ?」と、知ってるくせにせがむのだ。

 それは、小学生の裕和くんは、いつもクラスの優等生で、学級委員として先生にも可愛がられ、友達も多く、その間を取り持つべく気を遣っていたけれど、ある年の通信簿の先生のコメント欄に「子どもらしいおおらかさに欠ける」と記されているのを見た、その衝撃はいまだに忘れられないという話。

 母はすかさず「ねぇー、あなたは一生懸命に気を遣って、それなりにうまく使命を果たせてると思ってたのにねー、でまた、子どもなのに、そのことに人間の悲哀を感じてるのが、おっかしいのよねー」と合いの手を入れ、あとは一人でケタケタ笑いにふける。