優しい地獄

優しい地獄

 著者はルーマニアに生まれ、現在は人類学者として弘前に暮らしてらっしゃるそうです。

 エッセイということですが、詩のようなところもあったり、不思議な読み心地でした。

 日本語をこんなに自由に使えることにも驚きました。

 

P13

 ・・・日本のシンボルといえばルーマニアでも桜だ。祖父母の家にも桜の木があって、そこでいろいろな空想にふけった。そうやって何時間も木の上にいたこともある。花が咲く時が一番のお気に入りだったが、花盛りの菊畑を見下ろせる秋もよかった。桜の木と話したり、歌ったり、木の上で踊ったりした。いまだに、手に桜の木肌の感触が残っている。

 目を閉じればミツバチの声が聞こえる。満開の桜の花を求めてミツバチがたくさんやってきた。世界中の蜜がそこで作られたと感じる。夏になるとおいしい実がなる。ミツバチの声と花の匂いで酔うときもあった。木と同化する空想をして上に登ると、そのときはあれだけのおびただしい数のミツバチに一回も刺されなかった。庭ではよく刺されるのに。不思議に思った。

 桜が枯れた冬、木を薪にして暖炉にくべた。木の声が聞こえた。歌っていると思った。私が子供の時に歌っていたのと同じ歌。そして匂いが家に広がった。その時にわかった、この世の中の生き物は終わりがあるけど、最期にはその命が持っている本質が表れる、と。家の桜は毎年、綺麗な花を咲かせ、おいしい実をたくさんつけ、おしまいに私たちの家を暖めてくれて、本当に美しい生き物だった。私の体が透明であれば、今でも胃袋から肩のあたりまであの一本の桜の木が見えるだろう。自分の体に生きている。あの時は私が桜の木の内側だったが、今は逆になって、私が外側で桜の木が私の内側にある。

 

P123

「日本に何で来た」と聞かれ続ける。・・・答えはシンプルに、「遠くへ行きたかったから」。・・・ルーマニアの村で、寂しく一夏をかけて本をたくさん読んでいた私は『雪国』という一冊と出会った。本の最初のイメージに惚れた。トンネルを抜けた列車の雰囲気。感覚で感じたものは、それまでの人生で一番確かだった。ルーマニア語に翻訳されていたにもかかわらず、なぜか私はそれを日本語で読んだ気がした。

 そのころ言葉に悩んでいた。私の考えをうまく周りに話せない、感じていること、やりたいことも表現の壁にぶつかり、うまくいかないと思っていた。・・・『雪国』を読んだ時「これだ」と思った。私がしゃべりたい言葉はこれだ。何か、何千年も探していたものを見つけた気がする。自分の身体に合う言葉を。・・・

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 ・・・もう一つのきっかけが与えられた。一年間の交換留学を終えて右も左もわからない中、生活費のために仕事をし始めたころ、休暇を取ってボランティアとしてシビウというルーマニアで最も美しい町で、中村勘三郎(十八代目)の歌舞伎公演を手伝った。音響担当のルーマニア人スタッフと日本側のスタッフの通訳をしたのだ。・・・

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 遠くを歩く中村勘三郎の天使のような笑顔。最後の公演後に舞台に上がって花束を渡した。私にとって貴重な瞬間だ。その瞬間に時間が止まった。目が合った瞬間に音も、周りの風景も消えた。すごい人の目を見る瞬間はきっとそういうものだ。彼の力をいただいた気がした。その瞬間に私は日本に戻って研究者になる夢を追いかけると決めた。

 

P142

 「人類学」の最初の授業では、丹野正先生が狩猟採集民アカ・ピグミーのところにいった最初の日のことについてお話ししてくださった。荷物も水も食べものも持っていかなかった。もちろん、言葉も知らないまま、ただ彼らの近くに座って待っていた。すると、夕方になると、一人の女性がその日男性たちが狩りをした肉を丹野先生のところへ持ってきたのだ。言葉の先に人間は「わかち合う」ことをする。このイメージは私の頭からずっと離れなかった。子供も「笑う」こととか、踊ることをわかち合おうとする。はじめて会う人にも持っている食べものなどをあげようとする。

 

P193

 東北の冬の話をしても、実際に身体で感じないとわからないことがたくさんある。私の場合は、冬の終わりのころに寒さに耐えられなくなる。泣きたいぐらい寒いと感じる。自分の限界を感じる日がある。しかし、限界だと思う日に幻のように、冬が終わりそうもない中で、窓の下の石の間からフキノトウの黄緑の葉が見える瞬間がくる。

 フキノトウはしばらく目で十分に楽しんだあと収穫し、津軽地方でいうバッケ味噌を作る。春を身体で感じる瞬間と言ってもいいぐらい喜びを与えてくれる。軽く炒めてからお酒と味噌を混ぜ、瓶に入れる。冷蔵庫で一か月くらい寝かせると、苦みは甘味に変わる。でも、我慢できないので作った日に一口、二口味見する。苦い。ものすごく苦いが、この苦みは人生そのものだと感じる。この日のために冬を過ごしたように。

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 青森県に住んで、すこし狩猟採集民の気持ちを味わっている気がする。春には山菜、秋にはキノコの達人がいる。物々交換の習慣がまだ残っている。ある秋の日、夫と散歩した山で立派なムラサキシメジを発見した思い出はいまだに魂に刻み込まれている。生まれてはじめて紫色のキノコを食べた。いまでも山菜と同じで、人生で食べた一番おいしいもののトップになっている。おいしさの秘訣は、新鮮で、自分で採っていることに加えて、野生の物であることだ。山の幸という言葉がぴったり。山菜は自分に嘘をつけない。だから苦い。

 

P198

 五歳の娘は寝る前にダンテ『神曲』の地獄の話を聞いてこう言った。「でも、今は優しい地獄もある、好きなものを買えるし好きなものも食べられる」。彼女が資本主義の皮肉を五歳という年齢で口にしたことにびっくりした。それは確かに「優しい地獄」と呼べるかもしれない。彼女の言葉が私の中で何日も響いた。この文章を書く時も、彼女は隣の席に座って、スーパーで買った蜜柑の皮を細かく剥いておいしそうに食べている。

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 ・・・長女の言う「優しい地獄」ではなんでも食べられる。優しさに溢れた森なのだ。遺伝子組み換えのアメリカ産のとうもろこしでできている森だ。

 私が子供だった時は、本物の森のキノコと野イチゴを食べていたが、誰も測っていないチェルノブイリ放射能がきっとたっぷりかかっていたのだ。ここ最近、無農薬とオーガニックの食材を手に入れるのをやめ、地球の空気に触れること自体から考え直すことにした。・・・

 りんご農家の女性を一年以上調査した。四十回以上りんごに薬がかかっても、彼女の畑で採れたりんごはこの世のものと思われないぐらいおいしい。人間と自然の対立ではなく、彼女のりんごの木に対しての優しさをずっとカメラに収めて、人間も自然の一部だということがよくわかった。