久しぶりに山田詠美さんの本を読みました。(エッセイかと思いきや、自伝小説だそうです)
「本を読むことが好き、というよりも、必要だ、と強く思った。私を色々な意味で助けてくれる」という一節があり、そうそう、そうなんです、と共感しました。
P82
・・・井上靖の「しろばんば」・・・これには夢中になった。子供を描いているのに、子供の本じゃない。うんと昔の話なのに、今、隣りにいる誰かの物語のように思える。
主人公の洪作が、二階の窓から、おぬいばあさんの棺を送ってやるところで、私は泣いた。まったく異なる時代の、実在していない少年のために私は涙を流していたのだった。
本を読むって不思議なことだなあ、と思った。物語の中の登場人物に心動かされて涙したのは、これが初めてではなく、私は少し前に読んだ怪盗ルパンシリーズの「奇厳城」でも大泣きしたのだった。南洋一郎による少年少女向けの訳だったが、男と女の間に起きる悲劇にぐっと来た。このモーリス・ルブランの書く世界なんて、それこそ自分とは無縁のもの。でも、解るのだ。解ってしまうのだ。愛する女を失って胸をかきむしらんばかりになるルパンの気持ちが。
読書は、タイムマシンに乗るようなものだ。ここではないどこかへ。現在ではない時の流れの中へ。自分ではない誰かの心へ。
P267
水上勉さんの京都住まいの頃のマンションや長野県の御自宅にうかがって、雑談に興じながらも、あれこれと教えていただいたことは数限りない。私のようなはるかに年下のまだ未熟な作家を、御自分と対等の同業の者として扱ってくれるものだから、お調子者の私は、ずい分と図に乗った。
冗談も言い合うようになった。
「詠美は、なんで芥川賞を取れんかったんやろなあ」
「あー、なんか『み』の付く選考委員が最後まで反対したらしいです」
「……そうか、三浦哲郎さんが……」
「違います!」
もちろん真面目な話もした。やはり、創作に関することが多かった。一番嬉しかったのは、この言葉だ。
「詠美は台所と寝室だけでニューヨークの街が描ける」
水上さんが私の小説の中で一番好きだ、と言ってくださった長編「トラッシュ」について語り合っていた時のことだ。
私は、まさに、水上さんが指摘してくれたようなことを目指していたのだった。事細かに、しつこく説明するのではなく、わずか一行、たったのワンシーンで、その場の情景や漂う空気などを切り取って見せること。そこには、登場する人間の心の動きすら含まれていること。
たとえば、スチームでくもる台所の窓ガラスに目をやった時、瞳に映るものを描いただけで、そこが物語における特別なニューヨークの冬であると限定される。そして、場面が寝室に移った瞬間のブランケットからはみ出した大きな踝について書くだけで、女の男への偏愛が滲み出て来る。そういうことを、簡素に素っ気なく、しかし、ぎゅっと凝縮されたコンクジュースのような言葉で表現する。そんなふうに、自分だけの小説世界を作りたい。そうすれば、ニューヨークはニューヨークでありながら、どこにもない私だけの街になる。
小説とは、平凡な舞台と道具立てを使って、その小説家だけの特別な場所を作るものだ。それは、SFなどの非日常な分野でもある程度言えることだと思う。
水上さんのように、こちらが考えて来たことを新たに言語化してくれたり、小説に関する自分だけのセオリーを再認識させてくれる先輩たちに出会う少なくない機会に恵まれた私は幸運だったと思う。