小鳥来る日

小鳥来る日 (文春文庫)

 平松洋子さんのエッセイ、楽しく読みました。

 

P42

 夏の夜明けは早いけれど、朝六時を過ぎれば気温はぐんぐん上がる。・・・週に三、四日、一時間半ほど歩くのだが、夏場は暑くなるのを見越して五時ごろ家を出るのが習慣である。

 明けたばかりの夏の朝はかくべつの静寂に充ちている。しかし、その日はちがった。家々のひしめく道幅の狭い住宅街を通りかかると、いつもはしいんと静まりかえっているのに、あちこちからひとの気配が伝わってくる。いっしょにテレビの音も洩れてくる。

 やっぱり!今朝は「なでしこジャパン」の優勝決定戦である。・・・

 ・・・

 ちょっと歩きすぎたと思いながら折り返すと、にわかに試合展開が気になった。早く帰ろう。近道をえらんでべつの住宅街に入ったら、ここもやっぱりざわついている。・・・展開を気にしいしい焦燥感いっぱいで角を曲がりかけた、そのとき。

「よおしっ」

 窓からドスのきいた声が響いた。わたしは懸命に分析した。このせりふは負けていたら出てこない。ということは状況はわるくないのだ。早く家に戻って中継が見たくなって加速をつけて進むと、向こうから早朝練習にゆくジャージ姿の女子大生の二人組が携帯電話の画面をのぞきこみながら歩いてきたので、たまらず声をかけました。

「試合、どうなってます?」

「さっき延長戦で同点になって、これからPK戦です!」

 歩いている場合じゃない。でも、歩かないと帰れない。浮足立って足がもつれそう。・・・追い立てられて汗だく。心拍数の上がったところへ、こんどは通りがかりのアパートの一室から若い女性の興奮した声が飛びこんできた。

「すごいっ。なでしこすごいっ」

 またしてもあせる。なにがどうすごいのか。玄関のインターフォンを押して「おしえてください」と聞きたくなったが、ぐっと抑え、つんのめって歩く。ついに家まで残り数分に迫ったそのとき、こんどは外壁にゴーヤーの緑のカーテンをつたわせた家のなかからおじさんの声が耳をつんざいた。

「やった!勝った!優勝ぉぉ!」

 おばさんの大拍手も聞こえてくる。一家で大合唱。

「うれしーい!」

 パチパチちからいっぱいの拍手が巻き起こって、夏の朝が祝福に染まった。そうか、勝ったか。わたしもいっしょに拍手したかった。

 ようやく家に着くと、炎天の青空が頭上に広がっていた。町ぜんたいが血沸き肉躍る、それは熱い夏の朝だった。

 

P63

 平日午後二時半のお客はわたしひとりだった。窓ぎわの席に座り、香りのよいグアテマラを飲みながら買ったばかりの小説を読んでいると、ドアベルがちりんちりんと鳴った。入ってきたのは二十五、六の男女で、Tシャツとジーンズ、雨なのにサンダルだ。「コーヒーふたつ」。注文するなり男は店にそなえつけの新聞、女は雑誌を読みはじめた。いまはめっきり少なくなったけれど、むかしはこういう若いカップルがたくさんいた。学生だというのにみょうに所帯臭くて、なにがどうしてそうなったのか年季が入った連れ合い感を漂わせている。街場の中華料理屋などで、それぞれ漫画本を読みながらもやし炒め定食と餃子を黙々と食べていたりするのだ。

 ・・・

 ・・・ふたたび小説に没入していると、男の声が静寂を破った。

「今日のめし、なんにすんの?」

 女が顔を上げ、のんびりとした口調で、しかし瞬時に応じた。

「キャベツと豚肉の炒めもの」

 すごい。夕飯のメニューをもう決めてあるのか。ほうと感心する。すると、男が引き取った。

「じゃあキャベツと豚を味噌汁代わりにして、納豆を食おう」

 意味はまるでわからなかったが、満足げな気分だけはよくわかる。だいいち、おいしそうじゃないか。その夜、わたしがキャベツと豚肉の炒めものをつくったのは言うまでもない。

 さて、それから二ヶ月ほど経った日の午後である。おなじ喫茶店でいつものように本を読んでいると、ドアベルがちりんちりん、何気なく顔を上げると、おや、このあいだの二人連れである。今日もTシャツとジーンズ、サンダルで、コーヒーを注文すると、お決まりの流れで傍らのラックから新聞と雑誌を取り出す。

 わたしは期待しました。きっと言うぞ、言うぞ。視線は手もとの本に落としてみたものの、耳がそわそわして読書どころではない。待つことニ十分。新聞二紙とスポーツ新聞一紙を読みおえた男は、れいのひと言をついに放った。

「今日のめし、なんにすんの?」

 わたしは小躍りしたい衝動を抑え、固唾をのんでつぎの展開を待ち受けた。女はまたしてものんびりと、しかし間髪入れず応じた。

「ミートソース」

 すごい。彼女の頭のなかにはメニュー表がきっちり組みこまれているのだ。なんでもない料理の名前ひとつなのに、やたら幸福感が押し寄せる「ミートソース」の響きが憎い。若くても、やるもんだなあ。さらに展開があった。

「サラダもちゃんとつけてくれよ」

「了解」

 クールに言い放ちながらもぜんぶを受け容れるさまは、慈母のようでもある。しかも席を立つとき、とうぜんのように自分の財布から自分のコーヒー代五百円を取りだして男に手渡すのだった。・・・