ものがたりの余白

ものがたりの余白 エンデが最後に話したこと (岩波現代文庫)

 ミヒャエル・エンデの語ってくれていること、とても興味深く読みました。

 

P11

エンデ ・・・ほとんどの場合、ことはもっと近くにあるし、もっと簡単だし、シンプルなのです。解釈者が思うほど、そんなにおそろしく秘密めいてもいないし、深遠な意味があるわけでもない。しかし、時折には、作者が大体気づいているよりも、はるかに深い意味のことが成り立つ。あとになってから、書いた文に何重もの意味があることがわかってくるのですが、たいていはそうしようとするのではなく、それは起きるのです。

 

P27

エンデ ・・・わたしはどの本を書くにもあんなに長い時間がかかるのです。すでにお話ししたと思いますが、たとえば『モモ』の場合……

 ・・・

 ……登場人物もそこで起こるストーリーもみんな輪郭はできあがっていたのに、本を書き上げることができなかった。たったひとつの答えがまだ見つからなかったからでした。だれからも時間を盗む時間どろぼうが、どうしてモモからは時間が盗めないのかということです。忍耐できず早く仕事を進めたいならば、そのような状況ではなにかカリスマ的な能力をさずけてお茶をにごすことがよくあるでしょう。たとえばモモには聖なる光輪があって、だから灰色の男たちは手が出せないとか。ただ、わたしは自分に言い聞かせました。いや、いや、そうじゃない。そんな理由じゃない。そんなことは信じない。それはゲームの「規則」自体から出てくるはずだって。

 そうして五年が過ぎて、ある朝、朝食のテーブルで思いついたのです。単純なことなんです。時間が盗めるのは、時間を節約してためる人だけからなのですね。時間を節約してためない少女からは盗む時間がない。盗むものがないんです。こうして時間貯蓄銀行のアイディアが生まれ、物語全体がうまくゆき、書き上げることができた。比較的短い期間かもしれませんが、それでもわたしにこの単純なアイディアが思い浮かぶまで六年が過ぎました。しんぼうづよく待たなくてはいけない。そしてこの悟りがついにやってこない場合もしばしばある。でも、やってくることもあり、そうすれば本が書けるわけです。

 

P45

エンデ ・・・わたしはこの歳になって、人生において大事なことは、みんな無償のことだと、そう信じるようになりました。それだけが本質的なことなのです。それ以外のものはビジネスにすぎない。・・・

 だからこそ、遊びもそうなのです。遊びも無償です。タダであり、徒労です。言い換えれば、それはなんの役にも立たないし、なんの作用もしない。そして、ひょっとすれば、本質的に……これも、このようなことを考える過程で生じる矛盾のひとつですが、ひょっとしたら、そもそも本質的なことで、なにか作用するのは、なにも作用しないもの、つまり、無償のものだけではないでしょうか。

 ・・・

 


―枠をもう少し広げてみて、人間の人生というものも、また遊びなのでしょうか?・・・

 


エンデ ええ、そう言えるでしょう。遊びを、なにかふまじめなことととらなければ、人の人生も遊びだと言えます。

 ・・・

 ・・・わたしは、聖なる「遊び」というものさえあると思っています。

 


―聖なる「遊び」、というと、つまり神の「遊び」ということですか?

 


エンデ ええ。奇妙でしょう。

 タロット・カードには二十二枚の絵札がありますね。ちなみに、この絵札は、これも奇妙なことに、ヘブライ語の二十二の文字に対応しているのですが。その一枚目のカード、最大であり、もっとも重要なカードがパガートで、つまり、ナンバー・ワンの札ですね。だから、この札は、実は神を表していると言えなくもない。あるいは、こうも言えます。この札は、ヘブライ語で「すべて」を意味する文字にあたると。それが奇術師、魔術師なんです。奇妙ですね!

 

P96

エンデ わたしが努力したことのひとつは、通常の「ものがたり論理」の殻をやぶることでした。通常の小説にみられる、この、原因と結果からなる因果論の論理、この「……だから」(という論理)。「なぜ彼はそれをするのか?」―「……だから、彼はそうする」

 これは、わたしには、いつもとてもうさんくさいものでした。生というのは、けっしてそんなものじゃない、という気がしたからです。「……だから」なにかすることはけっしてありません。そういう理由はいつも後でつけたものです。なぜ彼がそうしたのか、後で見つけた理由なんです。実際には、まったく別の動機が決定する。

 それで、わたしは常に、いわば新しいかたちのドラマツルギーを見つけようと努めました。明白な理はあるが、通常の外的論理にしたがうのではない、新しいドラマツルギーです。

 ・・・

 ・・・本質的なことを、間の(空虚な)空間で語る、と言えばいいかな、それが文学ではどうすればできるのだろうかと、わたしはいつも考えたのでした。語ることは、実は「語られないもの」に、「『絵』のあいだで起きること」に注目させる、ただそれだけの役目をはたせばよいのです。これが、その当時わたしが努力していたことでした。