アジア発酵紀行

アジア発酵紀行 (文春e-book)

 発酵の話も興味深いものの、登場する人々がユニークで、むしろそちらが印象に残ったような・・・

 

P106

 宮本さんの食品工場では、豆鼓(中国の発音ではドウスー)を製造している。大豆を蒸煮し、粒状のままカビをつけて発酵させ、塩を加えて長期熟成させる。見た目は黒納豆のようだが、用途はうま味調味料である。このトウチは中華料理の味付けの基本中の基本であり、日本の味噌の起源にもなった全アジアの調味料の元祖だ(なお日本の寺納豆はトウチの末裔)。

 外気温よりさらに暑い、ムワッとした蔵の中で大豆が発酵している。豆の粒の表面がテラテラと光って、微生物たちが盛んに代謝しているのがわかる。まだ熟成しきるほどの時間は経っていないようだが、よく見知った味噌の香りがする。

 ・・・

 市場に行ってみると、調味料売り場に茶色いおせんべいのようなものがある。

「これはまた別のトウチ。豆を野外でネバネバに発酵させて、唐辛子や薬草と混ぜて固めたもの」

 嗅いでみると、納豆の香りだ。ミャンマー国境では、納豆のこともトウチと呼ぶのだ。売り子さんに使いかたを聞いてみたら、すぐ近くで売られている、網に入ったカエルを指さして言う。

「カエルの唐揚げにこのトウチをまぶすと美味しいよ!」

 ・・・

 ルイリーの町外れの食堂で夕食を取る。宮本さんと二人でじっくり話しながらビールを飲んだ(なおルイリーではビールもミャンマー製。元イギリス統治領だからか、中国ビールと比べて味が濃くて格段に美味)。

「中国はね、滅茶苦茶なところもありますが、国としてのエネルギーがありますよ」

 そう語る宮本さんのエネルギーがまず日本人離れしている。50歳を過ぎて、中国の、しかも雲南という辺境で従業員数十人の会社を経営する。共産党との付き合いのややこしさ、現地の人とのビジネス意識の乖離、そもそも商品の販路が確立されていない……などなど、様々な困難にあっても事業を続けている根底には、ロマンチストの気質がうかがえる。

 これまでの旅程を振り返って気づいたのだが、宮本さんは中国の日本人コミュニティとの付き合いがほとんどない。常に現地人の知り合いを訪ね、現地の言葉、現地のマナーで人脈を築いている。リス族の村で宴会していた時、途中から酔っ払って宮本さんを現地人だと間違えたほどである。

 旅をしていると、まれに「国境を超越してしまった人」に出会う。

 この類の人たちがよって立つのは、生まれでも肩書でも言語でも伝統でもない。今この瞬間に自分がどう世界と向かい合うか、という立ち振る舞いの強度によって立つ。宮本さんの鋭い眼光は、むき出しの人間そのものを見ている。

 ・・・辺境から辺境へと旅を続けていると、だんだん魂の殻が剥けて裸になっていく。剥ければ剥けるほど「国」の概念が消えていく。そういう裸の魂の強さを、宮本さんは持っている。

 

P161

「ただ生きていること」の濃密さを思い出せるのが、インド世界へ旅する良さではないだろうか。

 ふだん無意識でやっている、ただ呼吸して食べて歩くだけのことが、負荷と発見を伴うイベントになる。生きること全部がイベントになった結果、客観的には何もしていない状態になる。ただ街角に座って、呼吸しているだけ。ただ交差点を渡って、道沿いのバザールを通過するだけ。それだけなのに、通りがかりの人と視線が合う、世間話する、交渉事が始まる、一歩進むごとに過剰すぎる情報量に目眩がする。ただ生きてるだけでカロリー使うので、もはや「何かをする」必要性を感じない。

 あれ?これがいわゆる「沈没」というヤツ、なのか……。

 生命力に溢れたアジアの街角を目の当たりにした高揚感。「今日はこれをしよう、明日はあそこに行こう」と用事をつくってあちこち動き回るつもりだったのだが、3日目には用事を遂行することをギブアップしてしまった。近所を散歩して、お茶を飲んだりお寺に行ったりするだけで凄まじい人間の渦と色彩と香りと動物たちの物量にやられ、屋台でお茶飲んで隣に座っている人たちとおしゃべりするだけで1時間くらい経っている。この濃さでさらに目的をもって何かをしたら心身ともにバグりそう……。なんにもしなくても、宿に見知らぬ人が訪ねてきたり、ちょっとした買い物をするだけでもいちいち人と話してイベント感が生まれたりしてしまうので、日本人式の「今日は○○をしよう」という目的を立てなくても、旅の非日常感を味わえるのだな。

 

P200

 インドの大阪、それがコルカタ。賑やかすぎて消耗する!

「おーい、そこのお兄さん」

 ホテルに退散して昼寝しようとしたら、しゃがれ声の日本語が飛んでくる。僕のこと?

「そう!そこのお兄さん。なんかアヤしいインド人が日本語で声かけてきたな、客引きかなって思ってるでしょ。オレそういうのすぐわかっちゃうの」

 流暢な日本語をまくし立てる声の主を見ると、赤いTシャツに派手なストールを巻いた色黒で小柄なお兄ちゃんがニヤッと笑っている。僕と目が合うと、人込みをスルリと抜けて僕の脇をついてくる。

「客引きだと思うよね、正解!オレ親戚の織物屋の手伝いしててさ。外国人のお客さん連れてこいって言われてるわけ。でもさ、飽きちゃってるのよ、この仕事。客引きに捕まったっていうことにしてさ、散歩しようよ。オレ仕事サボりたいのよ」

 初めて見るタイプの客引きだ。家族にちょっとしたお土産買ってもいいし、コルカタの街のことが全然わからないので、ちょっとこのお兄ちゃんについていってもいいか。何よりこのゼロ距離過ぎるコミュニケーション力、なかなか面白いヤツではないか!僕もニッと笑い返す。

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 飄々としたサイード君。流暢な日本語は独学で覚えたらしい。そもそもほとんど学校で勉強したことがないらしいのだが、頭の回転の速い、聡明な青年だ。

「なんで日本に行ったことないのにこんな日本語上手いのかって不思議に思ってる?オレさ、記憶力がいいのもあるかもしんないけどさあ、自分の知らない言葉でも、しゃべる人の気持ちがわかっちゃう才能があるんだよねえ。文法よくわからないんだけどさ、お兄さんにとってのね、『日本人っぽい感じ』がわかるの。だからすぐ心が近づけるの。面白いでしょ?」

 ちなみに彼のこの台詞、脚色なしである。こんな調子の日本語でよどみなく話し続けるサイード君。・・・

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 ・・・とりあえず移動続きで疲れたから、今日はもうビール飲んでゴロゴロしようかな……。・・・モイダン公園を後にしてバーに行き、サイード君と久々の冷えたビールで乾杯した。「オレは強いぞ!」と意気込むわりにはふだん飲まないのでペースがわからないサイード君、学生のようにキングフィッシャーの大瓶を一気飲みし、ベロンベロンに酔っ払ってしまった。なかなか憎めないヤツである。