ボールペン奇譚

ベンチの足 (考えの整頓)

 佐藤雅彦さんのエッセイ集、面白かったです。 

 こちらは「ボールペン奇譚」というお話です。

 

P40

 私には、二十年来、連れ添ってくれている愛用のボールペンがある。

 ウォーターマン製で、中字用の太さでインクは青を使っている。

 丁度二十年前の1991年、ある賞を頂いた時に、知人からお祝いにプレゼントされたものである。

 使ってみると、やや太めで滑らかに書ける感触とインクの気品のある青さが気に入って、当時、筆記具と言えば、このウォーターマン一本で通していた。

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 昨日の夜明け前、私は土曜日に行われる数学の勉強会の準備をしていた。

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 パズルとして有名な問題だが、グラフの考え方で解くとどうなるか―。

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●狼とやぎとキャベツのパズル

先生 正子ちゃんは狼とやぎとキャベツのパズルを知っていますか?

正子 はい。船頭さんが、狼とやぎとキャベツを向う岸に運びたいのだけれど、船頭さんがいないときに狼とやぎを同じ岸に残しておくと、狼がやぎを食べてしまうし、やぎとキャベツを同じ岸に残した場合にも、やぎがキャベツを食べてしまうので、そのようなことが起こらないようにしてうまく運べるか?ただし、船には狼とやぎとキャベツのうち高々1つしか積めないとする。

先生 船頭をF、狼をW、やぎをG、キャベツをCで表すことにすると、向こう岸の状態は S:={ F, W, G, C } 

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 ここで登場したのが、我がウォーターマンであった。

 久々であったが、いつもの書き味である。

 しかし、私は、書きだしてまもなく、妙なことを思った。

「そう言えば、このウォーターマン、ずっと使っているけど、インクの芯を替えたことあったっけ?十年前くらいに一度替えたような気がするけど……、それにしても保つものだなぁ」

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 ・・・問題を解いていて、ひとつ引っかかっていたことがあった。

 ・・・ノートに書く時、いちいち狼とかやぎとかキャベツとか記すのが面倒なので、WやGやCといった記号で略していた。狼はwolfだからW、やぎはgoatだからG、キャベツはcabbageだからCと、記号でも頭文字だから憶えやすい。でも、船頭のFって何だろうか。

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 ノートには、愛用のウォーターマンで、まず船頭と書き、その右側に、英訳を書こうとしたのである。しかし、なんということか、「頭」という字の途中で俄に掠れてきた。

 あれインクが……、インクが出ないぞ。何度も、ノートの紙にボールペンの先を擦り付けたが、もう掠れたインクさえ出ず、ノートにはボールペンによって刻まれた筋ができるだけであった。ウォーターマンは最後に「船頭」と書いて、息絶えた。

 私は、少なからず驚いた。「いつまでインクが保つんだろう、このウォーターマン」って思った矢先の出来事だったからだ。不思議な気持ちを覚えたが、よく考えれば、丁度使い終わりの直前にその寿命の長さにふと気付くのは、客観的に考えても一応筋は通っている。私はこの偶然を気にしないように努めた。そして、引き出しから事務用の水性ボールペンを見つけ、その後を続けることにした。

 さて、辞書には、三つの英訳が載っていた。

【船頭】 a boatman, a waterman, a ferryman(渡し船の)

 それを順に、ボールペンで書いた。

 ―そうか、もしかしてFとはferrymanの頭文字だったのか、と思った時、急に心がざわめき出した。今、自分は何て書いた?

 ねぇ、自分は、今、何て書いた⁈

 そう、ウォーターマンのインクが無くなって、別のボールペンによって書かれた文字の真ん中にwatermanがあったのである。

 私は、一連で起こったこの事全体も、取るに足らない偶然として片付けなくてはいけないと思い、必死に「何か」に抵抗した。単に、十年近くもインクが切れたことがなかったが、その時はいつか必ず来る。それがこの夜明け前にたまたま来たに過ぎない。そして、ウォーターマンのインクが最期を迎えたその瞬間、ある調べごとがたまたま生じていたに過ぎない。それが、数学の問題にたまたま出てきた「船頭」という言葉の英訳だったに過ぎない。そして、船頭の英訳のひとつにwatermanがあっただけの事なのだ。

 人間は、ある傾向を持っている。あまりに稀有な事柄が立て続けに起こると、何かの存在を信じざるを得ない。そうでもしないと、起こり得ない事が起こってしまった現実の説明がつかないのだ。今の私がそれである。・・・