ネイティブのノリ

語学の天才まで1億光年(集英社インターナショナル)

 物真似学習法、そう言われてみれば、大事かも・・・なるほどでした。

 

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 二十代の後半、私は長い迷走期に入った。だが迷走している本人はなかなかそれに気づかないものらしく、当時の私も「俺は自由に生きている」と信じ込んでいた。

 チェンマイ大学で一年間日本語を教えると、私はあっさり大学講師を辞めた。学生たちはかわいかったし、日本語を教える仕事も気に入っていたが、それ以上に「誰も行けないところへ行って誰にも書けない本を書かねば」という強い思いがあったからだ。しかし現実には思いばかりが先走り、具体的なことは何も進まなかった。「地道に物事に取り組むことができない」という私の最大の欠点が如実に顕れてしまっていた。

 語学もそうである。・・・

 ・・・チェンマイ到着後たった四カ月でビルマ語学習を始めてしまった。同時に二つの外国語(非母語)を学ぶのは難しいし、私は目の前のものにしか集中しないので、タイ語は日常生活で使用していたものの、全く勉強しなくなった。

 ・・・

 ・・・チェンマイ大学を辞めたあと、ビルマ語を使うという目的のためだけに、一カ月ほどミャンマーを旅した。これまでは目的のために言語を習って現地へ行ったのに、逆になってしまったわけだ。

 当時首都だったヤンゴンに着いた日のことが今でも忘れられない。右も左もわからないまま、ボー・ジョー・アウンサン市場の土産物売り場をうろついていたら、ある店で高齢の日本人夫婦が布や漆器を買おうとしているのに出くわした。

 その老夫婦は英語も全く話せないようで、店の人と意思の疎通がとれず困っていた。見かねて私が間に入り、店の人と「他の色はないのか」とか「もうちょっと大きなサイズがほしい」などと通訳したあげく、「もう少し安くしてよ」と頼まれないのに値段交渉までした。

 買い物が終わるとその老夫婦―ビルマ戦線で戦死した兵士の遺族で墓参に来ていた―に大変感謝されたのはいいとして、「あなた、日本語が上手だけど、大学で勉強してるの?」と訊かれたのには絶句した。

 私はそのときほぼ初めて現地でビルマ語を話したのに、端からはネイティブに見えたらしい。しかも、なぜか私は「はい」と答えてビルマ人学生のふりをしてしまった。「じゃ、日本語の勉強、頑張ってね~」と老夫婦は手を振って去って行った―。

 なぜ、こんなことが起きたのだろうか。言語というものは全然できない人から見ると、ちょっとでもできる人は「ものすごくできる」ように見えるという特性がある。ただ、いくらなんでも、同じ日本人が二人揃って、ミャンマー初体験の日本人の若者をミャンマー人だと思い込むのは不思議だ。

 私はタイに住んでいたから日焼けしていたはずだし、東南アジアの雰囲気が身に付いていたということはあるだろう。ミャンマー人がよく使う「シャンバッグ」という布の肩掛けかばんを下げ、足に履くのはゴム草履というスタイルもミャンマー風に見えたはずだ。

 それに加えて、おそらく、老夫婦はビルマ語を知らないながらも、私の口調や態度がすごくミャンマー人っぽいと感じたんじゃないかと思う。そして、それは私がサヤマから語彙、文法、表現、発音などを習っただけではなく、ビルマ語ネイティブの「ノリ」を教わったからだろう。

 これはコンゴで始めた「物真似学習法」の延長線上にあるものだが、さまざまな言語を学んでいくと、どの言語にもその言語特有のノリとか癖とか何らかの傾向などがあることがわかる。それが語学で決定的に重要だということに気づかざるをえない。・・・

 言語のノリには文法やことばの使い方のほか、発音、口調、話すときの態度、会話の進め方などが含まれると思う。

 例えば、タイ語は口を大きく開けて発音することがまず大事だ。それから音程は常に高め。タイ語ネイティブの会話は鳥のさえずりに聞こえる。そして話し方は、ひたすら柔らかく優しい。タイ人はマッチョを嫌い、上品な立ち振る舞いを好むから、女性はもちろん、男性もなよなよっとしている。だから繊細なガラス細工を扱うかのように優しく喋ると、タイ語っぽくなる。私も、タイ語を話すときは思いっ切りなよなよする。

 ビルマ語の音程は全体的にもっと低く、もっと舌を口の中にべた~っとつける感じで発声する。さらに、喋るときはタイ人より堂々とした態度をとり、相手の目をしっかり見ながら、でも明るく優しく喋るとちょうどいい。

 ちなみに、英語ネイティブによる英語のノリでは、喉の奥の方から声を出す。アクセントが強く、単語の途中のtの音は大半が消えるか日本語のラ行みたいな音に変化し、語尾の子音も消えがちだ。態度としては、相手の目を見て常に笑顔が基本である(と思う)。

 では、われらが日本語はどうか。日本語の発音は口の先の方で行う。唇は最小限しか動かさない。よく冗談で「東北の人がぼそぼそ喋るのは寒くて口を開けたくないからだ」などと言うけれど、「口を開けずにぼそぼそ喋る」のは(冗談ではなく)日本語全体に当てはまる。外国人(日本語が母語でない人)が日本語を発音すると、口調がはっきりしすぎていて違和感を覚えるのはそのせいだ。声の音量は小さめで、「じゃ、そんな感じで……」とか「よくわからなくて……」など、センテンスを最後まで言い切らないことが多いから、ますますもやもやした印象を外国人に与える。

 また、話す態度としては、目を合わせず、ちょっと恥ずかしげな、おどおどしたような態度をとることが多い。これは日本人が「相手より自分を小さく弱く見せることが礼儀正しい」と思っているからである。

 これらの例を見ればわかるように、発音記号でnとかaとかhなどと書かれていても、各言語によってその発音の仕方は相当ちがうし、音の強弱や高低、テンポやリズム、それから話すときの口調や態度も異なるのだ。

 発音はともかく、喋り口調や態度や言語の特性ではなく民族性だと思うかもしれない。だが、民族集団は言語集団でもある場合が多く、言語と話者の気質は切っても切れない関係にあると私は思っている。

 少なくとも外国(非母語)の学習者はそれをひっくるめて覚えた方がいい。すると、相手に自分の言うことが通じやすくなり、相手の言うことも聞き取りやすくなる。

 それが、私の考える言語の「ノリ」である。