扉の向う側

扉の向う側

 

 ヤマザキマリさんが、これまで出会った人々の思い出やエピソード。

 味わい深く読みました。

 

P100

 私の舅のアントニオは、イタリア北西部のバッサーノ・デル・グラッパという古都の生まれで・・・今は郊外の、家族が代々農家に貸していた広大な土地に建つ古い家をリフォームし、そこにエンジニアである自分用のラボラトリー兼自宅を構えて暮らしている。・・・

 我々はその家を〝アントニオの夢の城〟と皮肉を込めて呼称した。なぜなら、アントニオはこの古くて巨大な農家の建造物を、階段から物入れの引き出しに至るまで、ありとあらゆる場所に自分の発明や工夫を凝らした、完全に自分仕様の住まいにリフォームしたからだ。正直、家族の誰にも未だにあの家の構造が把握しきれていないし、地下のアントニオのラボラトリーは、資材や古い家具や彼が収集した100台もの古い自転車が収納された隣の倉庫と迷路のような通路で繋がっていて、勝手を知らずにこの空間に入り込むと、大人でも間違いなく迷子になってしまう。・・・

 アントニオは日本でいうところの安保の時代を若者として過ごしてきた人である。ただその頃の彼はその手の政治的運動には殆ど参加せず、時間さえあれば機械工作ばかりしていたという。・・・結婚を機にやっと自由を手に入れたアントニオではあったが、社会人としての生活にはなかなかうまく馴染まず、就職先の有名高級車の部品を作る会社では大喧嘩をして自主退社、それ以降現在に至るまでたったひとりきりでオートバイの設計をし続けてきたわけだが、独自の技術を他人に盗まれるのを怖がって完成しても市場で流通させることができず、周りの友人や知人からは「40年かけて趣味に没頭した男」と冗談交じりに貶されていた。

 だから、アントニオが生まれた街から人里離れた田舎に引っ越したのには、彼なりの事情があったのだろう。家のリフォームだけでは飽き足らず、自給自足を目指して家庭菜園を作ったのはいいものの、健康のために良いと勧められた苦いケールを一面に植えて家族中の顰蹙を買ったこともある。・・・20羽の鴨の飼育を試みたものの、秋のある日、実家へ行くと普段彼らが泳いでいる池に一羽の姿も見当たらない。池のほとりでぼんやり佇んでいた舅にどうしたのか尋ねると、「全員飛んで行ってしまったよ……」と肩を落としている。舅が言うには、上空を通過する野生の鴨の群れに呼びかけられて、自分たちの本能に目覚めた鴨が目の前で一斉に飛び去っていったのだという。

「私を振り返りもしなかった」

 今にも泣きそうな舅の顔を見て思わずその場で笑い転げそうになったが、ぐっと押し黙った。

「ほんとに何をやってもダメなんだよ、私は」と吐露するアントニオの肩を軽く叩きながら慰めの言葉を探ったが、適当な一言が思い浮かばない。「心配しちゃだめですよ」と声をかけるが舅はしばらく黙り続けていた。

「失敗とか成功とか、私はそんなこと考えないで、ただ自分らしく生きていきたいだけなんだけどな……」

 高い秋の空を見上げながらぼそりとそう呟くアントニオの瓶底眼鏡のレンズに、暮れかけの太陽に染められた橙色の羊雲が映っていた。

 

P151

 学生だった私と当時同棲していた詩人がこの街道沿いにある小さな村に引っ越すことになったのは、フィレンツェの都市部の家賃ではとてもやりくりしていけなかったからだった。・・・

 借りた部屋は戦後に建てられた中途半端に古い建造物の2階で、1階には村の男どもが集まる殺伐としたバールがあった。・・・

 我々の上の階には、やはり〝よそ者〟であるシチリアからの慎ましい移民一家が暮らしていたが、家に足りないものを借りたりしているうちに、度々この家族から食事に招かれることになった。よそ者である我々を、同じくよそ者という立場で気にかけてくれているのだろうと、詩人も私もありがたくこの家族の好意を受け入れた。特に奥さんが自慢のピッツァを焼く時には必ず声がかかった。生地の分厚い、腹持ちのするピッツァだったが、奥さん曰くそれがシチリア流の真骨頂である、生地のしっかりしたアメリカのピッツァは、もともとシチリア移民が普及させたものだそうだ。アメリカに移住した祖父母の子孫たちは、イタリア語も話せないのに家では今でもこれと同じピッツァを焼き続けているのよ、と得意そうに話をしてくれた。

 この家の玄関には高さ1メートルくらいの、大理石製のマリア像が置かれていた。それは石工職人である主の作品だった。主はかつて親族のつてでアメリカへ渡ったが、馴染めなくてシチリアへ戻ってはきたものの働き口が見つからず、20年前にトスカーナへの移住を決めたのだという。

「このマリアはお客に頼まれて彫った墓の装飾でしたが、料金が支払えないというから手渡すことなく、ここに飾ることにしたのです」と、シチリア方言の抜けないイタリア語で静かに呟く主は、私がいくらその彫刻を褒めても「いやいや、これは単なるしがない職人の仕事ですから」と小さな体を屈めて照れるばかりで、アメリカの社会に馴染めなかったという妻の言葉には素直に納得ができた。とはいえ、このマリア様はフィレンツェのアカデミアの先生が彫った作品よりずっと素晴らしいですよ、と言うと、主はそれまでじっと伏せていた顔を諦めたかのように私に向けた。

「ご存じでしょうけど」といったん言葉を切って「かのミケランジェロ古代ローマの彫刻を見てダヴィデやピエタを彫ったでしょう。わたしの故郷はかつてギリシャの植民地でしたから、子供の頃から出土される古代の立派な彫刻はいくらでも目にしてきたのです」と繋いだ。そして再び視線を下に落とすと、一言「つまり、歴史がわたしの師匠でした」と呟いた。

 その言葉には、私のありきたりな褒め言葉などいとも簡単に振るい落とされてしまうような、崇高な誇りが漲っていた。イタリアに暮らすようになって初めて、ルネサンスの精神性を継承する表現者に出会えた気がして胸が高揚した。隣の詩人も思わず黙り込んでいた。

 翌年、私たちはフィレンツェに安いアパートを見つけて引っ越してしまったので、この家族との交流もそのまま途絶えてしまったが、あれからどんな芸術家と接することがあっても、あのシチリアの石工職人の主に対して感じたような圧倒的な敬意が私の中に芽生えることは未だにない。