最期まで家で笑って生きたいあなたへ

なんとめでたいご臨終

 旅立ちの時を選んでいるのではないか、というお話、印象に残りました。

 

P209

 これまでも〝いつ死ぬかわからない〟という患者さんの事例を紹介しましたが、いつ死ぬかわからないということは、今日という日が、旅立ちの日になるかもしれないということです。今回は、末期がん患者にとっての1日がどれほどの重みがあるのか、それをお伝えしたいと思います。

 ある金曜日の午前中のこと、高木さんと同居している長男のお嫁さんと、次男のお嫁さんが相談外来に来て言いました。

「先生、末期がんの姑が『家に帰りたい』と言うので、月曜日に退院させることにしました。急に悪くなって、いつ死ぬかわかりません。退院したら往診に来てもらえませんか?」

 そう話す2人のお嫁さんに対し、私は言いました。

「もちろん往診はするけど、急に悪くなって今にも死にそうなのに、月曜日の退院でいいの?3日後、生きてるの?もしも亡くなったら、病院の裏玄関から出て行くっていうことだよね。そうなったら、あなたたちは後悔しない?退院させてあげたいなら、今日の午後にでも緊急退院できるんだよ」

「えっ⁉今日、退院できるんですか?あ、でもまだ家の掃除が……」

「掃除なんて、ささっとすればいいし、しなくてもいいんだから」

 そんなやり取りの末に、高木さんは4時間後、表玄関から緊急退院できました。

 病院で死ぬと、病院の正面玄関からではなく、裏口から出されます。なぜだかわかりますか?病院では「死は敗北」、忌むべきものだからです。

 高木さんは家に帰り、モルヒネの持続皮下注射やソル・メドロールなどを使うと痛みが取れ、表情はどんどん穏やかになっていきました。

 退院翌日の土曜日、訪問診療に行くと、高木さんは嬉しそうです。

「よく寝られたよ。嬉しいわ」

 ところが日曜日、意識がなくなったと連絡を受けた私は、往診に行きました。

「血圧が下がっているから、もう亡くなりそうだね。月曜日まで入院していたら、家に帰れなかったかもしれないよ。緊急退院させてよかったね」

「ありがとうございます。おばあちゃんも笑顔だったし、よかった」

 みんながそう喜んでいました。

 その後、訪問看護師がご家族に「お別れパンフ」(28ページ参照)を渡し、お別れに向けての説明をすると、ご家族は心の準備と覚悟ができ、高木さんとの最期の時間を過ごしました。

 ところが火曜日、私が往診に行くと、高木さんはまだ生きています。

「あれ、どうしたのかなぁ。もう全員集まったんだよね」

 と私が聞くと、息子さんが周りを見回して言います。

「あっ、そういえば、東京のひ孫がまだ来てない」

「じゃあ、きっとひ孫を待っているんだね」

 そんな話をしていました。

 そして水曜日、ひ孫が到着すると、高木さんは穏やかに旅立たれたのです。

 到着した私たちも一緒に高木さんを囲み、笑顔でピースの写真を撮りました。

 これまで〝その時〟を見計らったような旅立ちをたくさん紹介してきました。この偶然のような奇跡が、これまで私が幾度となく立ち会ってきた「めでたいご臨終」なのです。

 延命治療で強制的に生かされているいのちではなく、目に見えないいのちがあるとしたら、それは「旅立つ時を選んでいる」、いのちの不思議さなのだと思わずにはいられません。

 

最期まで家で笑って生きたいあなたへ: なんとめでたいご臨終2

 こちらの2巻目にも、いのちの不思議さのお話がありました。

 

P60

 患者さんが一人でいる時に旅立たれると、「死に目に会えなかった」とか「一人で死なせてしまった」と悔やまれる人がいますが、悔やむことはありません。亡くなった本人は死ぬところを見られたくないと思っていたのかもしれないし、家族の泣く姿を見たくないと思っていたのかもしれないからです。

 死の瞬間に立ち会えるかどうかより、生きている時に暖かい気持ちで支えてあげるほうが大切です。たとえば、楽しくおしゃべりをしたり、患者さんが好きなものを作ってあげたり、無理せずできる範囲のことでいいのです。

 そして旅立ちの時は、本人に任せればいいと思います。

 私はこれまでに一人暮らしの患者さんを120人以上看取りましたが、そのうち、8割以上の人が誰かといる時に旅立たれています。

 中には、「一人でいる時に死にたい」と希望していた人も4人いました。その人たちは全員が希望どおり、一人でいる時に旅立たれています。

 私は、9歳の時に得度を受けて僧侶になり、檀家参りをしていました。

 開業医になってからは木曜日の葬儀は私が務め、それ以外の日は住職をしている父が務めていました。しかし、私が55歳のころ、父が倒れたのです。そこで、木曜日以外は近所のお寺さんに頼むことにしました。

 その後、父が亡くなり、59歳で住職を引き継いだ後も、私は木曜日に葬儀を務めていました。すると、檀家さんの葬儀が木曜日に集中したのです。

 私は文雄という名前なので、檀家さんからは〝文ちゃん〟と呼ばれています。

 ある日のこと、一人の檀家さんが私の妻にこう話したそうです。

「みんな、文ちゃんに葬儀をしてほしいから、木曜に合わせているんだよ」

〝そんなばかな〟と思いながら過去2年間に亡くなられた21人を調べてみると、木曜日の葬儀がなんと5割もあったのです。

 これらの「いのちの不思議さ」を考えるご縁をいただいた私は、「人は旅立つ時を選ぶ」と考えるようになりました。

 目に見えない「いのち」が旅立つ時を選んでいると思えてならないのです。科学ではわからないことがたくさんあります。

「いのち」とは、本当に不思議なものですね。